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映画「アンドレイ・ルブリョフ」アンドレイ・タルコフスキーのあらすじと感想

竹内みちまろ

 「アンドレイ・ルブリョフ」という映画をご紹介します。監督:アンドレイ・タルコフスキー、1969年/ソ連、主演:アナトリー・ソロニーツィン、イワン・ラピコフ、ニコライ・グリニコ、ニコライ・ブルリャーエフ、ロラン・ブイコフ。

 「アンドレイ・ルブリョフ」は予備知識なしで見たのですがぜんぜんわかりませんでしたが、「タルコフスキーとルブリョフ」(落合東朗)という本を読んでからもういちど見直してみました。「アンドレイ・ルブリョフ」はロシアの画家の物語です。アンドレイ・ルブリョフは画家の名前です。アンドレイ・ルブリョフはロシアがチンギス=ハンの子孫が作りあげたモンゴルの帝国に支配されていた時代を生きました。イコンというキリストや聖人たちの画を描きました。日本語では一般的に「聖像」と翻訳されることが多いです。ロシア文学に「聖像」という言葉があったらそれはイコンのことになるようです。

 「アンドレイ・ルブリョフ」のあらすじを簡単にご紹介します。アンドレイ・ルブリョフは仲間の画家といっしょに修道院で画を描いていました。腕前はそうとうのものらしく名前は広く知られています。アンドレイ・ルブリョフは権勢からの誘いを喜んだりもしましたが、俗世での名声には興味がないようです。大飯をくらう弟子をたしなめたりします。慎ましく生きてひたすらイコンを描くことに命をささげる道を選んだようです。「アンドレイ・ルブリョフ」は、そんな画家がいったんは筆を捨てたのですが再びイコンを描くようになるまでのドラマをエピソードを積み重ねる形式で描いています。

 「アンドレイ・ルブリョフ」ではいくつか興味深かったことがあります。映画のご紹介にはなりませんが、今回は、映画を見て感じたことを随想ふうに書いてみたいと思います。

 「アンドレイ・ルブリョフ」は画家の物語であると同時に、ひとりの人間の信仰の物語でもありました。アンドレイ・ルブリョフはキリスト教のあり方に疑問を持ちます。先輩画家からは、愚かな人間たちなどどうでもいいじゃないか、画は神のために描くものだと諭されます。先輩画家は、愚かな人間たちの上にはもうすぐ最後の審判が下るぞと言います。しかし、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉に納得ができないようです。アンドレイ・ルブリョフは頭に思い浮かべるイメージのなかのキリストを見て、「かれらの無知をどうして神がおとがめになれるだろうか。あんただって、仕事がはかどらないとき、疲れ果てたときとかに、やさしいまなざしを見つけて、心が軽くなった経験があるはずだ」と反論をします。しかし、先輩画家の言葉に感じた違和感をうまく口に出して言うことはできませんでした。アンドレイ・ルブリョフ自身が信仰に迷っているのかもしれません。アンドレイ・ルブリョフはモスクワ大公から依頼された修道院の壁画を描くことができませんでした。壁画の題材は「最後の審判」とあらかじめ決められており、悪魔の下絵まで用意したうえでのことでした。アンドレイ・ルブリョフは悪魔や地獄をちらつかせることに意義を見出せなかったのかもしれないと思いました。アンドレイ・ルブリョフにとっての信仰とは恐怖を媒介として成立するものではなかったのかもしれません。

 アンドレイ・ルブリョフが異教徒の祭りに迷い込んで一晩を過ごすエピソードがありました。すでにキリスト教化していたロシアでは、従来のアニミズム的な信仰を持つ人びとが異教徒と呼ばれて、教化(平たく言うと弾圧)の対象になっていました。森の奥から響くざわめきを聞きつけたアンドレイ・ルブリョフは好奇心に勝てずにひとりで奥へ奥へと進んでいきました。裸の女たちが松明を持って川に飛び込んでいました。アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りを垣間見ます。小屋の中では、ひとりの女がはしごをのぼっては飛び降りてを繰り返していました。呪術的な儀式のようです。女が飛ぶごとに着物がはだけて女の裸体がちらつきます。アンドレイ・ルブリョフがそんな光景に見とれていると、男たちに「黒い悪魔がいたぞ」とつかまってしまいました。小屋の中にひきずりこまれて縛られてしまいます。兵隊に密告されでもしたら祭りが台無しになってしまうようです。アンドレイ・ルブリョフは、「何をする、やめてくれ、お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」などと口にします。屈強そうな男たちは、そんなアンドレイ・ルブリョフをこばかにして相手にしません。小屋の中にはアンドレイ・ルブリョフと女が残りました。そのあとに何が起きたのかは映画では描かれません。翌朝、アンドレイ・ルブリョフはうしろめたそうな顔をして村をあとにしました。全裸の女がうるんだ瞳でアンドレイ・ルブリョフのうしろ姿を見送ります。アンドレイ・ルブリョフは川岸で野宿をしていた仲間のもとに帰ってきます。仲間は無言で痛い視線をアンドレイ・ルブリョフに向けます。「どこにいたんです?」と聞かれてもアンドレイ・ルブリョフは答えません。焚き火の中から何かをつまんでかじったりします。あまり意味のある動作には見えません。再び「どこに?」と聞かれて、アンドレイ・ルブリョフは「この辺の森はひどいぞ、木の皮なんてない。住んでると慣れるのかな。人間は何でも慣れる。だから年をとると、考えずに生きられるんだろうな。それとも――、毎日がだらだら続くのが嬉しくなるのかな」とひとり言のように言いはじめます。もちろん質問の答えにはなっていません。小船にのって出発したアンドレイ・ルブリョフは「恥ずかしくないのか」と叱られていました。アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉にはむきになって反論したくせに、せっぱつまって「お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」と口走っていたのが印象に残りました。

 「アンドレイ・ルブリョフ」のストーリーは、壁画を描きあげたアンドレイ・ルブリョフが筆を捨てて無言の行にはいることで展開します。ウラジーミルの町がモンゴル人と組んだ大公の弟に襲撃されて破壊されてしまいました。「タタール人が来た」と大騒ぎになった町では、アンドレイ・ルブリョフの弟子も逃げ回っていました。弟子は、襲撃者と対峙して「同じロシア人じゃないか」となかば驚いていました。ウラジーミルの人びとは教会に逃げ込みます。扉を閉めました。モンゴル人たちが攻城兵器を用いて扉をこじ開けようとします。モンゴル人の将軍はさすがに気がねしたのでしょうか同盟を組んだロシア人であるモスクワ大公の弟に「教会を壊していいのか」と問いかけます。弟が「それだけは止めてくれ」と言ったら将軍は「教会には手をつけるな」と命令を下すのだろうと思います。弟はうしろめたそうな顔をしながらも何も言いませんでした。扉をこじ開けた兵士たちが教会になだれ込みます。アンドレイ・ルブリョフは教会の中にいました。アンドレイ・ルブリョフの眼の前で、兵士が戦利品を運ぶように教会の中にいた娘をかついで階段を上がっていきました。アンドレイ・ルブリョフは斧を持ってあとを追いかけます。頭を割られた兵士が階段から落ちてきました。アンドレイ・ルブリョフはロシア人どうしが殺しあう世界に絶望しました。「人間は何でも慣れる」と嘆いていたアンドレイ・ルブリョフは、際限なく繰り返されるロシアの混乱と不幸に絶えられなかったのかもしれないと思いました。アンドレイ・ルブリョフは画を捨てました。そして、娘を助けるためとは言え、ロシア人兵士を殺した自分も、ロシア人どうしが憎しみあいロシア人どうしが殺しあうロシアの不幸のいったんを担ったことに心を痛めます。神の許しを得るために、無言の行にはいりました。話がそれるのですが、厚い仏教国であるタイでは修行のひとつとして、僧侶が言葉をしゃべらない人になりきったり、知的障害者になりきったりすることがあると聞いたことがあります。衣服や装飾品などをとおして自分が僧籍であることと行を積んでいることを周囲の人びとに提示したうえでのことだろうとは思うのですが、そんな修行者は人々からたいへんに尊敬されるそうです。「ビルマの竪琴」にそんなことが書いてあったようにも記憶しています。ロシアの信仰者のあいだにも同じような行為があることを知って興味深かったです。

 「アンドレイ・ルブリョフ」のクライマックスは鐘が鳴る場面です。このエピソードの主人公は鐘造り職人の息子である少年です。アンドレイ・ルブリョフは無言で少年を見つめる傍観者でした。少年は俺は鐘造りの秘密を知っていると豪語していましたが、実態は、何も知りませんでした。少年は鐘造りの責任者になりました。せっぱつまったなかで、あれをしろ、これをしろと、指示を出します。出来上がった鐘を試しに鳴らす場面では、見ていられないほどにうろたえていました。しかし、鐘は見事に鳴りました。少年は「父さんは秘密を教えてくれなかった。ひどい親さ。死んでも教えてくれなかった」と泣き崩れます。アンドレイ・ルブリョフは「立派にできたじゃないか。なぜ泣くんだ」と少年を抱きかかえて声をかけました。鐘が鳴る場面では髪の毛をベールで隠した娘が登場します。絵画の中に登場するマリア様のように馬をひいています。アンドレイ・ルブリョフが助けた娘のようです(この娘ははじめて登場した場面では髪の毛をあらわにして教会の中に迷い込んできました。知的障害があるようです。モンゴル人から俺の妻になれと言われて飛び上がって喜んでいました。ただ、この鐘が鳴る場面を見て、もしかしたら、この娘は知的障害者になりきって行を積んでいた信仰者だったのかもしれないと思いました)。クライマックスの場面を見て感じたのは、冒頭のプロローグの場面の(ひねりを加えた)繰り返しになっていることでした。カメラの使い方から雨と馬の映像を最後にもってくることまで似ていました。プロローグの場面はアンドレイ・ルブリョフの心の旅の物語とは直接に関係がないエピソードを描いています。プロローグの主人公は熱気球で飛行を試みた男でした。飛行に成功した男は教会の壁に彫られた聖人の顔を見下ろして「飛んだぞ」と歓声をあげます。しかし、すぐに墜落してしまいました。ものものしい音響のなかで馬が寝返りをうちます。「人が死んでも鋤は休まない」ということわざにも表される自然の雄大さと人間の卑小さを対比しているようにも思えました。クライマックスの場面で一番に描かれていたのは筆を捨てて無言の行をしていたアンドレイ・ルブリョフが少年に声をかけて再び画を描く決心をしたことだと思いました。アンドレイ・ルブリョフは、修道士である仲間の画家から画を描けと言われていました。仲間の画家は、嫉妬や欲望からアンドレイ・ルブリョフと離れた男でした。しかし、死を目前にして、嫉妬や欲望から解き放たれ、利害や人生を超越して、人間存在というものを達観していました。仲間の画家は、アンドレイ・ルブリョフに、心残りはお前が画を描かないことだけだというふうに詰め寄ります。嫉妬に狂い欲望に道を誤った男は悟りの境地にたどり着いていました。心の底に響く熱い言葉でした。男は、自分は凡人だがお前には神から授かった才能があると言います。アンドレイ・ルブリョフは背中に逡巡と哀愁を漂わせます。しかし、それでも、口を開きませんでした。

 アンドレイ・ルブリョフを見終わって感じたことは「表現者」と「創造者」は違うのかもしれないということでした。生まれつきに恵まれた才能を発揮して画を描いてもそれは「表現」でしかないのかもしれません。たとえ秘密を教えてもらえなくても何かを成し遂げることが「創造」なのかもしれないと思いました。


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