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タルコフスキーとルブリョフ/落合東朗のあらすじと読書感想文

2006年11月14日 竹内みちまろ

 「アンドレイ・ルブリョフ」という映画があります。1967年のソ連映画です。監督はアンドレイ・タルコフスキーという人です。題名にもなっているアンドレイ・ルブリョフとは実在したロシアの画家の名前です。アンドレイ・ルブリョフの生涯はほとんどわかっていないようです。修道院に残されていた墓石からアンドレイ・ルブリョフが1430年に死んだことは確認されているようです。解説本「タルコフスキーとルブリョフ」(落合東朗)は、映画「アンドレイ・ルブリョフ」を基調として、映画とシナリオの違いや、アンドレイ・ルブリョフが生きた時代のロシア、そして、一般には「聖像」と翻訳されることが多いロシアのイコンという聖像画について解説した本でした。

アンドレイ・ルブリョフの時代のロシア

 ロシアの歴史を見てみたいと思います。ロシアは10世紀にキリスト教化しました。コンスタンティノープルの東ローマ帝国の影響のようです。東方教会に属するという言われ方をします。「東方」というのはローマから見て東ということらしいです。東方教会はギリシャ正教会とも言われ革命前までは国教であったロシア正教会は東方教会に属します。西方教会と断絶した東方教会はローマ教皇を承認しませんでした。教会内で楽器を用いないとか椅子を置かないとかいろいろな違いはあるようです。ローマと比較すると典礼を重んじて、象徴的・神秘的傾向が強いようです。キリスト教化するまではスラブ人たちは自然の力を神格化した土着の宗教を信仰していたようです。彼らの世界観では太陽や風が神格化されます。彼らの最高神は稲妻を神格化したものだったそうです。川や森や湖には精霊がすみ、浴場や穀物小屋にもそれぞれの精霊が存在したようです。もちろんキリスト教会から見れば土着の信仰を持つ人々は「異教徒」になります。異教徒を教化して改宗させる試みが行われますが、厳寒の暗い森の奥に住む人々が信じる宗教は、キリスト教化されたのちも形を変えて色濃く残されていったようです。ちょうど、仏教が入ってきたあとも日本にアニミズム的な信仰が生き続けたのと同じかもしれません。

 1200年代のユーラシアの主役はチンギス=ハンの子孫たちでした。ヨーロッパに遠征してドイツ・ポーランド連合軍を打ち破ります。バクダットも占領してアッバース朝を滅ぼします。日本にも大軍を送り込みますが神風に吹かれて帰っていきました。南ロシアはキプチャク=ハン国の支配下に入ります。キエフ公国はモンゴルの属州になりました。モンゴル人が支配民族で、ロシア人は被支配民族になります。モンゴル相撲の横綱がどんな人物なのかは知りませんがモンゴルの支配というものは「力だけが全て」という印象を受けます。モンゴルはキリスト教には関心がありません。モンゴルの支配下にはいった南ロシアは、コンスタンティノープルとの交信も遮断されたようです。ロシアのキリスト教は、東方教会からも遮断されて、しだいにロシア的な色を濃くしていきました。キプチャク=ハン国は1480年にモスクワ大公国が自立するまで南ロシアで暴虐の限りを尽くしました。年数にして250年程度のモンゴルの支配になります。アンドレイ・ルブリョフが生きた時代のロシアの人々は、モンゴルの圧制に加えて、封建貴族の圧制、教会勢力の暴虐で3重に苦しめられたようです。南ロシアの地は荒れ果てていました。

ロシアの民衆

 映画「アンドレイ・ルブリョフ」は、エピソードを積み重ねることにより、いったんは筆を捨てたアンドレイ・ルブリョフが再びイコンを描くようになるまでを描いた作品です。解説本「タルコフスキーとルブリョフ」では、映画「アンドレイ・ルブリョフ」のエピソードの解説もありました。映画「アンドレイ・ルブリョフ」のなかに「アンドレイの苦悩 1406年」というエピソードがあります。解説本「タルコフスキーとルブリョフ」には「誰のために描くのか」というサブタイトルがついていました。

 エピソード「アンドレイの苦悩 1406年」では、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家である人物と議論をします。先輩画家は、自分は神に仕える者として、人のためではなくて、神のために描くと言います。先輩画家は「人はきょう褒めそやしても、あすはののしる、そして明後日には忘れてしまう、人は犯したことを忘れてそれを繰り返しているにすぎず、進歩というものがない、イエスが再臨してもふたたび十字架につけることだろう」と言います。先輩画家は新約聖書を思い出せとアンドレイ・ルブリョフに詰め寄ります。先輩画家は「最後の審判がもうじきくだる。そのときは恐ろしいことになるぞ、みんな神の前でたがいに罪をなすりつけて、自分だけが救われようとする」と断言します。先輩画家と議論する場面で、アンドレイ・ルブリョフが思い浮かべたイメージと思われる場面が流れます。イエスと思われる男性が十字架を背負って歩いています。イエスがひざをつくと、代わりの男が十字架を背負います。犬が一匹と貧しい身なりをした10人程度の人々が十字架といっしょに小高い場所にむかって無言で歩いていきます。マリアやマグダラのマリアと思われる女性たちもいます。イエスが丘の上で十字架につけられます。この場面を見たときに、なんとなく、違和感がありました。みちまろは、吹雪のなかのゴルゴダの丘というものは見たことがありません。雪景色の中に立てられた十字架というのも記憶にありません。みちまろの貧しい見聞ですが、北の森の雪深いネーデルランド地方の画家であるボスだってブリューゲルだってゴルゴダの丘への行進に雪を降らせたことはないような気がしました。もしかして、みちまろが知らないだけで、聖書には雪景色の場面が出てくるのかなと思っていました。

 「タルコフスキーとルブリョフ」にはこの場面の解説が載っていました。アンドレイ・ルブリョフは先輩画家に向かって「それでも彼らは黙々と働いている。不平もいわず、神の救いを求めながら、十字架を背負って歩いているのだ。かれらの無知をどうして神がおとがめになれるだろうか。あんただって、仕事がはかどらないとき、疲れ果てたときとかに、やさしいまなざしを見つけて、心が軽くなった経験があるはずだ」と反論します。「タルコフスキーとルブリョフ」では、「それは、「十字架につけろ」と叫んだ人びとの要求によって、刑を執行する場所に向かう十字架を背負ったイエスを中心にした一団である。だがその場所はイエスが処刑された「されこうべ」または「されこうべの場所」を意味するゴルゴダの丘ではない。ロシアなのだ」と書かれていました。先輩画家のキリストは、天空のはるか彼方から人々に審判をくだす絶対者であり、信仰は恐怖によって成り立つことが解説されていました。いっぽうで、アンドレイ・ルブリョフのキリストは、農奴に身をやつして十字架の重みにあえぎながら国じゅうを遍歴してそのやさしいまなざしで人々に祝福をたれるキリストであり、ロシアの地ではそのような信仰が民衆の間で培われていたことが紹介されていました。

「キリストはたしかにきびしい審判者にちがいないが、ロシア民衆にとってはそれ以上に愛であり、慈悲であり、あわれみであった。かれらにとってのキリストとは、苦難と辱めと十字架の道を歩まれた方であった。いやしめられて十字架につけられたキリストに対する敬愛が、ロシア民衆の信仰生活の中心をなしていた」

 アンドレイ・ルブリョフが見たキリストは、審判者としての神ではなくて、人間の不幸に泣く慈愛の神であり、「ルブリョフの見た、つまりタルコフスキーの描いた十字架につけられるキリストは、ロシアの民衆が隣人の苦しみや、自分自身の不幸のなかに見出した神であった。それは、ともに苦しみ、ともに十字架を負う、つまり苦悩を通じての連帯感というロシア的信仰の風土を生みだした」と書いてありました。

 「タルコフスキーとルブリョフ」に描かれていた雪景色のなかの行進は、ロシア民衆の信仰が生みだした光景のようです。「タルコフスキーとルブリョフ」では、ゴーリキイの小説から「ロシアの人びとは一般に貧しさと生活の不足のために悲しみをもてあそぶことを好んで、自分の不幸であることをあまり恥じることはない」という一節を引用していました。

 「タルコフスキーとルブリョフ」ではロシア人気質についての解説もありました。「ロシア人の性格のきわだった特徴として、たがいに矛盾するふたつの欲求の共存があげられている。極端から極端へ走る傾向ともいわれる」そうです。「タルコフスキーとルブリョフ」では具体例を紹介していました。例えば、ロシアでは発作的に人を殺したはいいがその持ち物を奪っている最中に、突然、良心に目覚めて神の許しを祈っているところを見回りの警官につかまることがあるそうです。「アンドレイ・ルブリョフ」のなかで、大公の弟が兄の留守をねらってモンゴル人と組んでウラジーミルという美しい都を襲う場面がありました。無防備なウラジーミルでは、殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くすという残虐行為が行われました。大公の弟は、ウラジーミルを襲ったのが自分自身でありながら、残虐行為を見てひどく落ち込みます。衝動的で極端から極端に走るロシア人気質の典型だそうです。

イコン

 イコンというのは東方教会で礼拝の対象として描かれたキリストやマリアや聖人たちの聖像画です。モンゴルの侵入によって東方教会からも遮断されたロシアでは、東方教会の影響がうすれて、しだいにロシア的な色が濃くなっていったようです。ロシア的な色のひとつに土着のアニミズム的な信仰との融合があるのかもしれません。ロシアの農家では、納屋には納屋の守護神を描いたイコンが、水車小屋には水車小屋の守護神を描いたイコンが飾られていたそうです。イコンの下にはろうそくをともすことが多いので、イコンはこげてすすがついていることがあるようです。イコンは芸術を超越した存在と考えられていたので画家たちは意図的に作者名を記しませんでした。

 そのほかにも、例えば、聖ゲオルギーという戦いの守護神が「アンドレイ・ルブリョフ」の中では少年が鋳造した鐘に彫られていました。モスクワ市の古い紋章にも使われていた聖ゲオルギーは槍で悪竜を退治する騎士の姿で表されることがあり、イングランドでは聖ジョージと呼ばれるそうです。軍人がゲオルギーのイコンを祭ったように、職業ごとにそれぞれのイコンが祭られたようです。船大工は聖ニコライのイコンを祭ります。聖ニコライは、いわゆるサンタ・クロースのことみたいです。

 本棚から「戦争と平和」をひっぱりだしてきて「聖像」という言葉を捜してみました。ナポレオン軍に敗走を繰り返すロシア軍が農家で会議を開く場面がありました。トルストイは、6歳の娘の視点を借りてこの場面を描写していました。

「マラーシャは暖炉の上から、次々と部屋にはいってきて、上座の聖像の下の広いベンチに腰をおろす将軍たちの、顔や、軍服や、勲章を、おどおどと、珍しそうにながめていた」(工藤精一郎訳)

 トルストイが描いた時代のロシアの農家には「聖像」(=おそらくイコンのことだと思います)があり、「聖像」の場所を基点にして上座か下座かが決められていたようです。床の間の掛け軸と同じカラクリかもしれません。農家で行われた会議では、ゲオルギー勲章を首からさげる将軍たちを前にして、ロシア軍の最高司令官が戦わずしてモスクワをナポレオンに明け渡すことを命じていました。

 アンドレイ・ルブリョフが描いたイコンに「聖三位一体」があります。ロシア・イコンの最高傑作と言われることもあるようです。袈裟のような着物をまとった3人の人物がテーブルを中心にして描かれているイコンです。映画「アンドレイ・ルブリョフ」は、クライマックスで「聖三位一体」が登場します。画のいわれをさかのぼると、アブラハムとかイサクとか約束の地とか契約とかの話になることが書かれていました。「聖三位一体」がどんな画なのかを言葉で説明することは難しいです。穏やかな顔をした3人が描かれています。雰囲気としては、ジョットよりはチマブーエという感じです。

映画「アンドレイ・ルブリョフ」

 解説本「タルコフスキーとルブリョフ」では、映画として完成された「アンドレイ・ルブリョフ」と映画撮影に先立って作成されたオリジナルのシナリオの違いについても書かれていました。シナリオと映画が違う背景には、予算や期間の問題などがあったようです。また、やはり、ソ連で作られた映画なので当局の検閲を受ける必要がある、もしくは、検閲を逃れるために意図的に削除や変更をしたことが書かれていました。

 オリジナルの「アンドレイ・ルブリョフ」のシナリオでは、プロローグの場面は、ロシア軍がモンゴル軍に勝利を収めた合戦でした。しかし、この場面は、時間も予算もなくて削除されたようです。代わりに、当初は第2部のプロローグだった、男が空を飛ぶ場面を、第1部のプロローグにもってきたそうです。しかし、「タルコフスキーとルブリョフ」の著者は、プロローグを変更したのは、予算と時間の問題よりも、むしろ、タルコフスキー監督の意図を反映したものではないかと指摘していました。モンゴルの支配から独立するキッカケになった英雄的な戦闘場面よりも、「アンドレイ・ルブリョフ」という作品には、男が空を飛ぶ場面のほうがふさわしいと考えていたのだろうと考察していました。

 「アンドレイ・ルブリョフ」のプロローグを簡単に説明します。教会で熱気球が準備されています。火が燃やされて、気球は熱気と煙を吸い込んでいます。気球は何本ものロープで地面につながれています。いまにも飛び立ちそうです。飛行服に見えなくもない服を着た男が教会の階段を上ります。男は教会の窓からはるか下にある地面を見下ろします。教会の前には川が流れています。小船が何艘も教会に向かっています。岸についた小船からは人びとが駆け下りて熱気球のロープを抑える男たちをどけようとします。「アンドレイ・ルブリョフ」は予備知識なしで見ましたが、どうやら、人びとが熱気球の飛行を阻止しようとしていることはわかりました。それでも、男は熱気球に飛び移ります。熱気球は空にあがっていきました。はるか下では、米粒のような人びとが上を見あげて騒いでいます。しかし、そんな地上の騒ぎも別の世界の出来事のように見えます。空にまいあがった男は、「おれは飛んだぞ」と歓声をあげます。熱気球はロシアの川や森を見渡しながら空を飛んでいきます。しかし、ほどなくして、川に墜落してしまいました。パイロットだった男は映されません。おそらく死んだのだろうと思います。「タルコフスキーとルブリョフ」では、「天空を飛翔しようという試みは、当時においては神に対する冒とくであり、けっして許されることではなかった。人間が大空を飛行することは鳥のように自由に飛ぶことではなくて、天使になることを意味したからである。熱気球や翼を発明した男は、信心深い仲間の農民や修道士によってそのたくらみを妨害されはしたが、飛び立ったことによって天使となり、畏敬の念をもって見送られた」と書かれていました。

 空を飛ぶことが神への冒とくであるいっぽうで飛び立った男が天使になるという概念は、「タルコフスキーとルブリョフ」を読んではじめて知りました。なるほどそういうものかと思いました。映画「アンドレイ・ルブリョフ」を見たときに男が空を飛んだ場面から連想したのはイカロスの飛翔でした。墜落しておそらく死んでしまったのだろうこともイカロスの飛翔と似ています。しかし、たとえ死が待ち受けていたとしても、いったん大空に飛び立った男が天使になって畏れ敬われるという概念は、新しい発見でした。発明への挑戦、夢への飛翔、そして、社会通念を打ち破る勇気、そういったものを提示しているのかもしれないと思いました。たしかに、宗教的なことを抜きにしても、同時代の人びとからは「変人」扱いされていた鳥人間や気球人間たちが歴史上に何十人、何百人といたからこそ、ライト兄弟が現れて、リンドバークが海を渡り、B29が広島に飛んできて、ガガーリンが宇宙にいったのだろうと思います。

タルコフスキーとルブリョフ

 「タルコフスキーとルブリョフ」を読もうと思ったのは、予備知識なしで見た映画「アンドレイ・ルブリョフ」がさっぱりわからなかったからです。見ている途中で、これはどういうことなのだろうかと疑問ばかりが湧いてきました。それが解決されないまま「アンドレイ・ルブリョフ」を見終わってしまいました。ロシアの歴史は知らないし、ロシア正教会のことはわからないし、ロシアの人びとがどんな世界観で生きていたのかもわかりません。

 疑問に思ったことの一例を挙げると、「アンドレイ・ルブリョフ」では、少年が指揮して鋳造した鐘を鳴らす場面がありました。ロープで吊り上げて鳴るかどうかを試す場面です。少年は鐘職人の息子ではあるのですが鐘造りのことは何も知りません。食い扶持にこまって「俺は鐘を造れる」と言ったことからモスクワ大公の鐘造りを指揮することになりました。職人たちには経験と実績があるようですが、予算をケチった突貫工事で造りあげた鐘でした。大公と外国の大使が臨席して鐘をならすことになりました。鐘が鳴らなかったら少年は首を切られます。

 炉に火を入れるあたりから少年は震え続けています。「俺は鐘造りの秘訣を知っている」と虚勢をはるのですが狼狽ぶりは誰の目にもあきらかでした。少年は自分で鐘を鳴らすこともできませんでした。屈強な職人が鐘の下にもぐりこみます。鐘の舌をゆっくりと前後に揺らしはじめます。職人がゆり動かした舌が釣鐘にあたったときでした。ぼわ〜〜んと、人びとを泰平の眠りに誘うような鐘が鳴りました。みちまろは、鐘が鳴ったことになるのか否かがわかりませんでした。物理的に音が出るという現象だけに焦点を絞れば鐘は鳴ったのですが、ぼわ〜〜んと響く鐘の音は、どう聞いても除夜の鐘でした。モスクワ大公はお寺の鐘造りを命じたわけではないだろうし、キリスト教会の鐘は、コーン、コーンとかん高い音で鳴るのではないかと思いました。コーン、コーンと鳴るのが正しく造られた鐘で、ぼわ〜〜んと鳴るのは失敗作になるのかもしれないと思いました。「アンドレイ・ルブリョフ」を見ていると、少年は首をちょん切られずに済んだようです。ならば、鐘は鳴ったことになったのだろうと思いました。そのほかにも、ゴルゴダの丘の雪の謎や、「アンドレイ・ルブリョフ」にたびたび登場するタタール人は何者だろうと思いました。顔を見てモンゴル人であることはわかったのですが、ロシアとどういう関係にあるのかがぴんときませんでした。何がなんだかさっぱりわからないと思って、解説本「タルコフスキーとルブリョフ」を読んでみることにしました。映画解説本を読んだことはあまりないので、どんなことが書いてあるのか楽しみな面もありました。「タルコフスキーとルブリョフ」はみちまろの疑問をことごとく解消してくれました。「アンドレイ・ルブリョフ」の内容に関する著者なりの解釈も書かれていましたが、ひとつの解釈として十分に参考になるものでした。「タルコフスキーとルブリョフ」を読み終えた一番の感想は、ロシアは奥が深いなあということでした。映画「アンドレイ・ルブリョフ」をもう一度見てみようと思いました。


→ イコンの道 ビザンティンからロシアへ/川又一英のあらすじと読書感想文


→ 映画「惑星ソラリス」と原作「ソラリスの陽のもとに」について


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