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イコンの道 ビザンティンからロシアへ/川又一英のあらすじと読書感想文

2006年8月12日 竹内みちまろ

 「イコンの道 ビザンティンからロシアへ」(川又一英)という本をご紹介します。「イコンの道 ビザンティンからロシアへ」は、イコンを手がかりにギリシャ、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)、ブルガリア、ルーマニア、セルビア、ロシアへと伝播していった正教会の歴史を解説した本です。西欧カトリックとは違った文化圏を育んだ東方の歴史がわかりやすく紹介されていました。

 「イコンとは何か?」の前に、ビザンティン帝国の歴史をみてみたいと思います。

 313年にコンスタンティヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を公認します。325年にはニケーア公会議でアタナシウス派のみを公認します。いわゆる三位一体制がキリスト教のメインストリームになります。三位一体制を認めない派は追放されてゲルマンのほうに行ったようです。330年には都をコンスタンティノープルに遷しました。コンスタンティヌス帝がヨーロッパとオリエントの接点に遷都したのは、エジプト、シリアなどローマ帝国内の東方先進地域を重視したためです。ヨーロッパにとっては東方はまばゆい光に包まれたあこがれの地でした。392年にテオドシウス帝がキリスト教を国教化します。そして帝国を東西に分割しました。西ローマ帝国が476年に滅亡してからは、ビザンティン人がローマ帝国の正統な後継者を自負して自らをローマ人という意味のロマイオイと称しました。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)はしだいに東方色を強めて「ギリシャ人の帝国」と呼ばれるようになります。ビザンティン帝国は古きギリシャの神々に代わってキリスト教を国教化していきました。ビザンティン帝国は東方との関係を重んじます。武力を背景に台頭するイスラム勢力とも共存する道を模索していきます。ローマ教皇の提唱で十字軍をくりだしたカトリック圏とは異なる道を歩みます。イスラムの隣人であったビザンティンは、エルサレム占領を聖戦と賞することもなく、戦死者を殉教者になぞらえることもしませんでした。ビザンティンの態度は、西欧カトリックから見れば、生ぬるく許しがたいものに映ったのかもしれません。地中海世界は東からイスラム、正教、カトリックという文化圏に別れていきました。ビザンティン帝国は、1453年にコンスタンティノープルが陥落することによってオスマントルコ帝国の支配下に入ります。ブルガリア、ルーマニア、セルビア、ロシアなどに伝えられた正教会は、ローマ教皇を頂点とするピラミッドを作りあげたカトリックとは道を分かち、民族名を冠した独立した教会としての道を歩みます。東方教会と呼ばれるようになったロシアやバルカンの正教会は、オリエント生まれのキリスト教の伝統を守りながらルネッサンスや西欧近代化の影響を受けることなく独自の道を歩むことになったのかもしれません。

 ビザンティン美術とはビザンティン帝国の美術をさして用いられるようです。ユダヤ教を母体とするキリスト教はいかなる像もつくってはならないという伝統を継承していたようです。初期のキリスト者がキリストを子羊や魚で象徴したのはそのためだそうです。キリストや天使や聖母は、画に描かれるようになっても現世の肉体を拒むと考えられたそうです。立体画法をかたくなに排して平面画法にこだわるのはそのためのようです。ルネッサンスを迎えた西欧が彫刻を作り宗教画を写実的に描きだしたのとは思想が異なるようです。

 イコンとは板に描かれた聖画です。イコンは聖なる「像(エイコーン)」が映しだされるとされて修道士が祈りとともに描きました。イコンは美術作品として鑑賞されることを目的にしていません。イコンは、人間が描くのではなくて、神の力が描かせる板絵だと考えられました。イコン製作者は、イコンに自分の名前を入れませんでした。ビザンティン帝国には8世紀にイコノクラスムと呼ばれる聖像破壊運動の嵐が吹き荒れます。聖像破壊運動以前に作成されたイコンが地球上にほとんど残っていないほどの規模だったようです。聖像破壊派と容認派の論争は100年以上も続きました。決着は、イコンはイコンそのものを礼拝するのではなくて、「像」をとおして原像である神に祈るためのものであると定義されることで付けられました。破壊派の主張が退けられました。イコンは礼拝の対象ではなくて、崇敬の対象となりました。イコンが「天国を映しだす鏡」と呼ばれるゆえんはここからきているようです。革命前までは、ロシアではどの家庭にもイコンがあったそうです。イコンに描かれた「像」は、ぼんやりとしたろうそくの明かりにゆれます。イコンに祈る人々は、イコンを見るのではなくて、イコンから見られるのだそうです。

 ロシア文学で「聖像」という言葉がでてきたら、イコンをさすようです。帝政末期のロシアを描いたゴーリキイの「幼年時代」という小説があります。ゴーリキイの家が火事になる場面がありました。みんながうろたえるなかで気丈な祖母が「エヴァゲーニヤ、聖像を外しておくれ! ナターリヤ、子供たちに着物をきせるのだ!」と叫んでいました。(乳幼児の死亡率ひとつ見ても現代日本を生きる人間の価値観を当てはめることはできないと思いますが)、子どもを守ることよりも、イコンを守ることのほうが大切であったようです。正教圏の人々にとってはイコンのない生活はありえないほどに大切にされていました。

イコン「ボリスとグレープ」

 ロシアがキリスト教を受け入れたのは988年でした。キエフ公国のウラジーミル公がギリシャ正教の洗礼を受けます。ウラジーミル公は洗礼と同時にビザンティン皇帝の妹を妃に迎えています。政治的な思惑も働いたようです。それまでのロシアは雷神や太陽神を崇めるアニミズムに生きていました。しかし、「イコンの道」の著者は、西からカトリック、東からイスラム教徒、南からユダヤ教徒がそれぞれ布教を試みていたなかで、ウラジーミル公が正教を選んだ理由は、政治的な思惑だけではなかったと考察していました。

 イコン「ボリスとグレープ」の写真が掲載されていました。赤いマントをかぶった2人の公子が並んで立っているイコンです。2人の周りには暗殺されるまでの2人の生涯を描いた場面が散りばめられています。ウラジーミル公は改宗するやいなや、多くの妻を持ち戦を好んだ生き方を一変させました。聖堂を建てて教会を保護します。貧しい人々に宮廷を解放します。老人や障害者のために施設を作りました。そのうえ死刑を廃止しようとまでしたようです。死刑廃止は、秩序の維持が困難になると諫められたようですが、「イコンの道」の著者は、罪人はすべての者の罪を負った不幸な人々であるという極めてロシア的な考え方を見て取ることができると指摘していました。

 ウラジーミル公のひたむきさは、2人の息子ボリスとグレープに受け継がれました。ウラジーミル公の死後、12人の公子のなかで最も名声を得ていたのは20歳にも見たないボリスでした。家臣たちから公位につくように切望されますが兄に背くことはできないと拒みました。これを見た長兄は、ボリスを排除するために刺客を送ります。ボリスは、長兄のたくらみを知っていてあえて抵抗しなかったようです。キリスト者として自分の命を守るために他人を殺すことを拒みます。自ら犠牲になることを選びました。朝の祈りのさなかに刺客の手に落ちました。長兄は、続いてボリスの弟グレープの排除をもくろみます。ほかの兄弟たちはグレープに難を避けるように説きます。信仰に篤かったグレープは、神に長兄を許すように祈りながら刺客の手に落ちました。2人の弟を暗殺した長兄は、のちに賢公とよばれる別の弟に滅ぼされます。

 ボリスとグレープはキエフ公国の支配権争いの犠牲者でしかありませんが、「イコンの道」の著者は、「ところが、ロシア人はたんにそうとはとらなかった」と書いていました。ロシアの人々は、無抵抗で死を受け入れたボリスとグレープに、キリストの「受苦」を見たようです。結果として、ビザンティンの聖職者たちには愚かとしか映らなかった兄弟は、ロシアで初の聖人に列せられました。跡目争いの犠牲者なので殉教者とするのは難しいとビザンティンから異を唱えられたうえでのことだそうです。ボリスとグレープは、殉教者としてではなくて、「受難を耐える者」として、ロシアでは多くの人の心を捉えているようです。

 ゴーリキイの「幼年時代」には、ロシアを生きる人々の姿が描かれていました。ゴーリキイの祖父は、聖像を崇敬して信仰に篤かったようです。祖父の祈りを垣間見たゴーリキイは「祖父の聖者はというと、ほとんどみな受難者だった」と書いています。また祖母から聖者たちの苦難に満ちた生涯を聞くと「百からもあるこれらの人々をじっと見ていると、常に受難者はあった、ということで、静かに慰められるものだ」と回想していました。

イコン「ドンの生神女」

 イコン「ドンの生神女」の写真も掲載されていました。コンスタンティノープルからやってきたフェオファン・グレークよって1390年代に描かれました。「ドンの生神女」は聖母と子が描かれたイコンです。ロシアがタタールのくびきから脱する第1歩となるクリコヴォの戦いでは戦場に持ち出されて兵士たちを鼓舞したという国宝級のイコンです。16世紀には、イヴァン雷帝が対ポーランド・リトアニア・スウェーデンとの戦いにイコン「ドンの生神女」を携えました。雷帝の遺児フョードル帝の時代には、モンゴルの襲撃にあってモスクワが危機を迎えたときに、イコン「ドンの生神女」を掲げて祈ったところモンゴルが撤退していったそうです。雷帝の寵臣だったボリス・ゴドゥノフは、フョードル帝の義兄という立場で権力の座に登りつめました。ボリス・ゴドゥノフは、イコン「ドンの生神女」の前で、総主教からツァーリの帝冠を戴いたそうです。

イコン「ウラジーミルの生神女」

 「ウラジーミルの生神女」というイコンがあります。ロシアを守る守護イコンとして有名なようです。1131年ころに描かれたイコンて、作者は不明です。聖母と子を描いたイコンでした。イコン「ウラジーミルの生神女」はコンスタンティノープルで作成されました。1155年にキエフにやってきました。しかし、6年後にウラジーミルに持ち出されてしまいます。キエフ公国が諸公間の争いと南から侵入する遊牧民族に脅かされて弱体化したからでした。キエフは放棄されて旧都になりました。イコン「ウラジーミルの生神女」は、キエフよりも北の森林地帯に作った新都ウラジーミルのウスペンスキー聖堂に掲げられました。ロシアは受苦の時代を迎えます。13世紀にはいると、遊牧民族よりももっと強大なモンゴルが侵入してきました。1237年にはキプチャク・ハン国の大軍が押し寄せます。またたくまにロシアを席捲します。以降、240年にわたり、ロシアは「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴルの支配を受け入れます。ロシアがモンゴルの支配を受け入れた背景には西の敵との戦いがあったようです。モンゴルの侵攻がはじまると、西方からは、スウェーデン、ついで、ドイツ騎士団がロシアに侵略をはじめました。ロシア北西部でかろうじてモンゴルの支配を免れていたノヴゴロドとプスコフが西からの敵に占領されれば、ロシアは東西からの敵に支配されて二分されてしまいます。ノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキー公は、モンゴルの配下になることを受け入れて、かわりに、スウェーデンとドイツ騎士団には徹底抗戦する道を選びました。ロシア軍は、1240年にネヴァ河畔でスウェーデンを、1242年にチュード湖上でドイツ騎士団を打ち破ります。アレクサンドル・ネフスキー公は西方から押し寄せるカトリック勢力の侵略を防ぐために4回にわたってキプチャク・ハン国に伺候して恭順の意を示したそうです。

 モンゴル支配下のロシアで台頭してきたのが、ウラジーミルと同じく北東の深い森の中にあるモスクワでした。1380年にモスクワ公ドミートリーは諸公の結束をはかって軍を指揮します。クリコヴォでモンゴルの大軍に立ち向かい、はじめてモンゴルに勝利しました。モスクワ公国は名実ともにロシアの盟主になりました。ロシア正教の府主教座はロシアが正教を受け入れてからキエフに置かれていましたが1299年にはキエフからウラジーミルに移されました。ついで1326年にはウラジーミルからモスクワに移されました。府主教座がモスクワに移されたあとも「ウラジーミルの生神女」はウラジーミルに置かれていました。1395年のことです。中央アジアの雄ティムールがモスクワ攻略の構えを見せます。モスクワ公ヴァシリー1世は国家の危急に際して、ウラジーミルからイコン「ウラジーミルの生神女」を借り出して神の加護を仰ぎます。ティムールはモスクワにはやって来ませんでしたが、ヴァシリー1世はイコン「ウラジーミルの生神女」を返さずにクレムリンに納めてしまいました。ヴァシリー1世はアンドレイ・ルブリョフというイコン画家に「ウラジーミルの生神女」の模写を作成させてそれをウラジーミルに贈ったそうです。イコン「ウラジーミルの生神女」はクレムリンのウスペンスキー大聖堂に安置されて以来、3度にわたるモンゴル軍の攻撃からモスクワを奇跡的に救ったといわれています。その3日は、「ウラジーミルの生神女の祝日」として今日も祝われているそうです。

イコン「至聖三者」

 「至聖三者」というイコンのカラー写真が掲載されていました。1411年ころにイコン画家アンドレイ・ルブリョフによって描かれました。ロシアを代表するイコンとして名高いそうです。日本語訳としては「聖三位一体」の名で知られることもあるようです。

 モンゴル支配下のロシアでは、森林地帯に修道院が建てられていったようです。14世紀にセルギーという隠者が、ひとり森の奥深くで祈りの暮らしをはじめました。森の隠者の噂はいつしか開拓民たちの耳に入り弟子入りを希望する修道士たちが集ってきました。自然発生的に共同体ができあがり至聖三者セルギー大修道院になります。

 深い森に覆われた北ロシアはキエフなど肥沃な南ロシアのように直接モンゴルの配下には入っていなかったようです。ロシアの政治・文化の中心は、南から、ウラジーミルやモスクワなどがある北に移りました。この時代、多くの修道士たちが異民族との争いをさけて北の森にやって来ました。斧を降るって森を開拓し、畑を耕し、静寂と沈黙のなかで祈りをささげました。共同体ができはじめると開拓民も移り住むようになりました。北の森はこうして開かれていきます。

 アンドレイ・ルブリョフは至聖三者セルギー大修道院の修道士でした。モスクワのアンドロニコフ修道院に移ります。旺盛な制作をしたイコン画家のようです。イコン「至聖三者」は至聖三者セルギー大修道院の依頼で作成されたイコンでした。1408年に至聖三者セルギー大修道院はモンゴルの焼き討ちにあって破壊されてしまいます。再建にあたってかつて至聖三者セルギー大修道院で修道生活を送っていたアンドレイ・ルブリョフにイコンの作成を依頼しました。

 「イコンの道」の著者は、アンドレイ・ルブリョフのイコン「至聖三者」を、「ロシア・イコンの白眉」と称していました。ビザンティンからキエフに伝わった正教は、モンゴル支配下の受苦の時代のなかで、「ロシアの風土のなかでロシア正教として花開こうとしていた」ようです。イコン画家アンドレイ・ルブリョフが天与の才を発揮できたのも、国家と信仰と人々がともに手を携えて生まれようとしていた時代の反映だと記していました。


→ タルコフスキーとルブリョフ/落合東朗のあらすじと読書感想文


→ 映画「惑星ソラリス」と原作「ソラリスの陽のもとに」について


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