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(8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子

竹内みちまろ

 会津藩主・松平容保の京都守護職承諾から始まる会津藩の激動の歴史と会津戦争は、会津にさまざまな試練を与えました。会津藩は、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍として、薩摩藩、長州藩、土佐藩らを中心とする新政府軍と戦い敗れます。将軍の徳川慶喜と、松平容保、桑名藩主・松平定敬らは大坂を脱出して、幕府の軍艦・開陽丸で江戸に帰還しました。

 江戸時代、会津藩は、江戸城の桜田門や和田倉門周辺に広大な武家屋敷を与えられていました。紀州藩の手引きらで上方から敗走してきた会津藩兵たちは、鳥羽伏見の戦いの後、会津藩邸に収容されます。

 藩主の急な戦線離脱に驚いた近侍の神保修理(家老・神保内蔵助の長男)は、大坂から江戸に駆け付けると、容保を問い糾したといいます。慶喜の命令だったとはいえ、実直な容保は、自らの非を認めたそうです。和田倉の会津藩邸に敗残兵が帰還するにつれ、容保に対する不満が募りますが、藩主に不満をぶつけるわけにいかず、矛先が神保修理へ向けられました。

 神保修理に責任がないことは誰しもが知るところでしたが、修理は自刃を命じられ、すべての責任を一身に背負い、切腹してはてました。

 修理の妻・神保雪子は、会津藩士・井上丘隅(おかずみ)の次女。丘隅が自刃する際に井上家に来合わせていましたが、丘隅に説得されて嫁ぎ先の神保家に戻りました。雪子は、鶴ケ城籠城戦では、城外にいた中野竹子らの一段と合流し、髪の毛を切り、男装して戦う婦女隊に加わりました。後に娘子軍(じょうしぐん)、娘子隊(じょうしたい)とも呼ばれた婦女隊は、会津藩兵と合流し、新政府軍と交戦します。新政府軍の蛮行はすでに各地で行われており、捕らえられれば集団で強姦される運命にある婦女隊は悲壮の覚悟で戦ったようです。

 神保雪子は、この戦いの中で命を落としたとも、捕らえられて自害したとも伝えられています。



→ (1)会津落城


→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇


→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ


→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ


→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵


→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)


→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子


→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子


→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾


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