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(5)女たちの会津戦争−西郷千恵

竹内みちまろ

西郷千恵

 会津の士族の家では、敵軍が侵入してきた際、家族がどう対処するかはそれぞれの家で話し合われていました。多くの士族は城に入って籠城する覚悟でいたといいます。しかし、筆頭国家老の西郷頼母の家は違っていました。西郷家の決断には、頼母と会津藩主・松平容保の確執があったともいわれています。西郷家の本姓は藩祖・保科正之と同じ保科で、頼母は、婿養子の容保よりも5歳年上。容保よりも保科の血が濃く、容保が京都守護職を引き受けた時、頼母は会津のためにならないと断固反対しました。

 会津国境を越えた新政府軍は、電撃を仕掛け、城下を見下ろせる滝沢峠を突破しました。敵軍侵入の警鐘が鳴り響いたときには、城下は大混乱に陥りました。

 西郷家では、頼母の妻の西郷千恵(34/千恵子、千重子)が母・律子(58)の部屋に入り、最後の用意を促しました。千恵は自室に入り、2歳の季子を抱きます。三女の田鶴子(8)と四女の常盤(4)と、頼母の妹2人(眉寿子・みすこ26、由布子・ゆうこ23)と共に水杯をあげ、辞世の句を詠みます。田鶴子を刺し、驚いて泣き叫ぶ常盤も「汝も武士の子なるぞ」とさとして刺し、断腸の思いで季子も刺します。

 頼母の母と祖母は隣室で自害。千恵、長女の細布子(たいこ・16)、次女の瀑布子(たきこ・13)をはじめ、居合わせた親族の小森一貫の家族5人、西郷鉄之助夫妻、軍事奉行町田伝八とその家族2人、浅井新次郎の妻子2人など、西郷家譜代の臣が皆、西郷邸で自害しました。

 西郷家の最期の様子は、土佐藩士の目撃談として伝えられています。鶴ケ城の前面にある広大な邸宅を占拠し城からの反撃に備えようと、土佐軍が、西郷邸へ踏み込みました。中から反応はなく、奥の部屋へ行くと、血の海となっていました。息絶え絶えの17、8歳の女子が、土佐藩兵を見て、「そなたは敵か味方か」と問います。土佐兵はとっさに「味方なり」と答えます。女子は、うなずいて懐剣を差し伸べます。土佐兵は、介錯をして、立ち去ったとのこと。懐剣には、西郷家の九曜の徽章があったそうです。


→ (1)会津落城


→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇


→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ


→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ


→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵


→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)


→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子


→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子


→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾


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