読書感想文のページ > 女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ
竹内みちまろ
『女たちの会津戦争』(星亮一)には、鶴ケ城の籠城は、「婦女子を抱えての籠城だったので、阿鼻叫喚、地獄の戦いになった。川に飛び込む女性、戦利品として捕らえられた女性、目を覆いたくなる戦闘だった」」と記されています。中には、「覚悟の自害をした女性」「不本意に殺された女性」「拉致され犯された女性」たちもおり、「それらが重なり合って会津の戦争は地獄そのものだった」と記されています。同書から、会津戦争を戦った女性たちの姿をピックアップしてみたいと思います。
大混乱に陥った会津城内を取り仕切ったのは、容保の2歳年上の義姉・照姫でした。城へ向かった女たちはみな、照姫の下に集結しました。照姫は、上総飯野藩主の保科家に生まれ、子に恵まれなかった前会津藩主・松平容敬(かたたか)の養女になりました。その後、容敬に娘・敏が生まれ、容保を婿養子に迎えました。照姫は、豊前中津藩主・奥平昌服に嫁ぎましたが離婚して会津に戻っていました。めりはりがはっきりした性格で、負傷者が急増すると、他国から来た人には看護する者がいないからと、旧幕府兵や江戸のとび職人らを自ら看護し、また、城内を叱咤激励して回りました。
若松賤子は会津戦争のとき、4歳でした。混乱の中で、賤子の父は行方不明となり、母親は心労のため死にました。賤子は、会津若松にやってきた横浜の商人・大川甚平に引き取られます。
甚平夫妻には子がなく、賤子は可愛がられ、フェリス女学院の前身である英語を教える学校へ入ります。明治18年7月に、明治女学校の創立に尽力した厳本善治が中心となり、女性のための雑誌「女学雑誌」が発刊されます。賤子は投稿し、常連の執筆者に。賤子はのちに、厳本と結婚しますが、「女学雑誌」のペンネームが、若松賤子であり、若松はもちろん、会津若松の若松でした。
当時、明治政府は女性の政治活動を禁止していましたが、賤子は、女性の権利向上のためにペンをとり、次々と童話や小説を発表。明治23年には、「女学雑誌」に、バーネットの名作『小公子』の翻訳を発表します。賤子は、結核に冒され、明治29年に、33歳で逝去。
砲術師範の山本権八の3女・山本八重子は、24歳の時、会津戦争を経験しました。兄の山本覚馬は京都におり、弟の三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死。なお、時期によって八重子・八重という2つの表記があるそうです。
八重子は、弟三郎の着物を来て、麻の草履を履き、両刀をたばさみ、元込め7連発の銃を肩にかつぎ、主君のため、弟のかたきを取るために命の限り戦うつもりでした。八重子が本丸に行くと、大勢の女たちが照姫を取り囲み、みな懐刀を持っていました。いざとなれば城を枕に自害する覚悟でしたが、八重子自身は自害を決意したことはないといわれています。
八重子は会津戦争のときは日新館蘭学所教授の川崎尚之助と結婚していました。が、のちに離婚。会津戦争後、しばらく近郊で母と暮らし、覚馬が京都で健在と知ると兄を頼って京都へ行きました。英語を学び、明治5年、日本で最初の女学校・女紅場(じょこうば)の指導試補に採用され、裁縫、書道、礼儀作法などを教えます。兄を通して、同志社大学の創立者となる新島襄と知り合い婚約。キリスト者の新島と婚約したため、女紅場をくびになりますが、新島と共に教育に情熱を注ぎ、昭和7年(1932)7月、88歳の生涯を閉じました。
八重子の兄・山本覚馬は、会津藩士だったときに京都で薩摩藩に幽閉されます。官軍、賊軍を乗り越えて日本の進むべき道を「管見」にまとめました。教育制度の確立、三権分立、職業選択の自由などを盛り込んだ内容が、西郷隆盛や大久保利通に高く評価され、京都府顧問になります。京都に宣教師の養成学校を作ろうとしていたアメリカ帰りの新島を積極的に支援しました。
自害、籠城のほか、城外へ逃避した女性たちもいました。上級武士・日向(になた)左衛門の次女・日向ユキも逃げおおせました。日向家は教育熱心で、ユキは幼いころから「いろは」を習い、10歳から針仕事、12歳から習字も習いました。ユキの手記は「万年青(おもと)」と題し、昭和19年(1944年)に94歳で亡くなるまで、おりに触れ息子が書き留めていました。ユキの家族は団結が固く、正月は皆で集まってカルタをし、田に水を引くころになると、兄弟でヤスを持って川へ行き魚を突いたそうです。
薩長を中心とする新政府軍が攻め込んできたとき、日向ユキは18歳。「いざとなったらお城で早鐘をつくから城に入れ」と言われていましたが、城に駆け付けるも入城できず、祖母と継母、弟と妹たちと共に、鶴ケ城から比較的近い場所にある門田町へ逃げました。ユキは、「あの戦争は、あまりにひどく、悲しいことが重なって、思い出しただけでも涙が出てまいり、とても話す気になれないのです」と、会津戦争については多くは語らなかったようです。
『女たちの会津戦争』の「あとがき」には、「会津藩の教育は江戸時代、郡を抜いていた」ことに注目していました。男女ともに6歳から、死ぬ覚悟を持てと教育され、倫理・規範を叩きこまれました。避難命令が出たときに、自害、籠城、非難など、行動は家庭ごとに分かれましたが、「どの家でも共通しているのは、会津の士道を貫くことだった」と記されていました。
→ (1)会津落城
→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇
→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ
→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ
→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵
→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)
→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子
→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子
→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾
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