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(2)会津落城−戊辰戦争の悲劇

竹内みちまろ

 『会津落城−戊辰戦争最大の悲劇』(星亮一/中公新書)には、会津戦争の「戦闘があまりにも無残であり、なぜここまで戦う必要があったのか、というのが最大の疑問である」という問題提起がなされ、「会津戦争の実態を描くことで、明治維新のいたましい裏面が明らかになり、近代日本人の悪しき体質が浮き彫りになる」と記されています。会津藩の実態から、農民感情、諸藩の事情などが詳しく検証され、白河口の戦いで始まり、長岡城や二本松城の落城、仙台藩と米沢藩の降伏、そして会津落城に至るまでの東北戊辰戦争の過程が詳細に記されていました。

 『会津落城』から、印象に残った場面がありましたので、いくつかピックアップしておきたいと思います。

●将軍慶喜の命令とはいえ、鳥羽伏見の戦いの際、藩兵を見捨てて逃げた会津藩主・松平容保への不満が募った。会津藩兵が江戸へ帰ると、その不満は、家老の神保修理へ向けられる形となった。修理に罪がないことは誰もが知っていましたが、容保を責めるわけにはいかないため、容保への不満が爆発するような事態に収集を付けるため、修理が切腹をしたそうです。修理の切腹を止められるのは容保だけでしたが、容保は無言を貫いたといいます。

●戊辰戦争の時期、ちょうどアメリカの南北戦争が終わり、そこで使われた武器弾薬が世界中にあふれ、商人たちが盛んに日本にやってきていたようです。すでにイギリスは薩摩藩につき、フランスは幕府を後押ししていました。起死回生を狙うイタリアとロシアが奥羽越列藩同盟を支援したようです。

●仙台藩は、京都守護職の会津藩がどうして「朝敵」になるのかと驚いたそうです。新政府軍は、奥羽鎮撫総督府を仙台に置き、下参謀・世良修蔵(長州藩)が実権を振るいましたが、会津攻撃を渋る仙台藩を見て、仙台藩を愚弄するような歌を詠み、また、市中で隊列を組んで乱暴する薩長兵が、子女を辱めるなど傍若無人の蛮行を繰り返しました。仙台藩が怒り、世良を斬りました。新政府は、雄藩・仙台の誇りを甘く見ていたとのこと。

●会津、仙台と並ぶ東北の雄藩は、上杉家の米沢藩。藩祖上杉景勝以来の悲願は越後へ帰ること。米沢藩は、新政府軍が越後から会津へ侵入してきたら、越後の諸藩と協力してこれを駆逐し、信州(長野)、上州(群馬)、甲州(山梨)、関東へも攻め上る意気込みだったようです。まさに、上杉景勝、そして、上杉謙信の足跡を追うようだと思いました。

●越後は、中小の藩がひしめき合っていたようです。高田藩(15万石)、新発田藩(10万石)、長岡藩(7万4千石)、村上藩(5万石)、黒川藩(1万石)など。高田藩の寝返りで新政府軍の海からの上陸が開始され、新発田藩にはもともと動向に不審な空気があったのですが、長岡藩の河井継之助が奥羽越列藩同盟軍として参戦に踏み切ったことにより、越後戦争は泥沼になりました。

●奥羽越列藩同盟には、海軍力がなく、幕府海軍の榎本武揚に軍艦を回すように要請しましたが、榎本は動かなかったとのこと。結果、軍艦を持つ新政府軍に、新潟や、茨城の平潟への上陸を許すことになりました。

●会津藩には、幕府の歩兵を率いて合流した幕府歩兵奉行・大鳥圭介と連携して日光口を守り、板垣退助の土佐軍と戦い、佐賀藩兵を壊滅させてアームストロング砲をぶんどるなどした日光口総督・山川大蔵などの人材はいましたが、戦略的最重要拠点の白河口へ送られたのは、戦争経験が皆無で、性格的にも問題のあった家老・西郷頼母だったそうです。仙台藩からの援軍を加えて数倍の兵力を持ちながら、あっけなく奇襲で白河城が落城。また、新政府軍が会津盆地に侵入してから、謹慎していた頼母が合議に呼ばれましたが、そこで頼母は全員が切腹すべしなどと、延々と責任論を展開。すでに敵は侵入してきており、すぐに命令を発して出撃しなければならない時でしたが、誰がどこを守るのかなどを話し合うだけで(セオリーでは、守備配置は開戦前に決めておくべきもの)、けっきょく何もしなかったそうです。会津戦争の悲劇の原因の多くは、人災とのこと。

●伊達正宗の時代から仲が悪く、仙台藩と戦い続けた相馬藩は、会津藩からの要請で戦う姿勢は見せました。しかし、早々に無条件降伏。しかし、それによって、相馬藩城下に新政府軍が進駐。食料、布団、衣類、馬の飼い葉として畑の野菜などをことごとく供出させられ、商人はすべてを没収。海辺の船も輸送船として没収。給仕役として、領内の後家が集められ、近郷の遊女も動員され、薩摩兵にあてがわれました。相馬藩はすべてを奪われ、明治以降、ひどく衰退。

●新政府軍は、母成峠から会津盆地に侵入しましたが、濃霧の中、新政府軍を案内したのは、地元民や地域の農民とのこと。会津藩兵が戦いの際に畑を焼いたことを恨んでいたようです。また、母成峠の防衛陣地が破られても、どこからも城下へ連絡はなされず、会津の国境は広大で情報伝達には騎兵が不可欠でしたが騎兵の編成はなかったとのこと。ほかの国境口を守っていた会津藩の精鋭は、母成峠が破られても何もしなかったそうです。


→ (1)会津落城


→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇


→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ


→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ


→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵


→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)


→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子


→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子


→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾


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