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竹内みちまろ
『会津落城−戊辰戦争最大の悲劇』(星亮一/中公新書)という本を読みました。冒頭に「慶応四年(一八六八)の八月から九月にかけて行われた会津鶴ヶ城の攻防戦は、日本近代史の一大汚点であった」と記されています。美談として語られがちな会津戦争、東北戊辰戦争へ辛口の目で切り込んだ一冊でした。内容をご紹介したいと思います。まず、時代背景の、おさらいから。
幕末、会津藩は、京都守護職として薩摩藩らと協力し、長州藩の過激派を駆逐するなど、京都の治安維持と幕府の政策に貢献していました。しかし、薩摩藩は長州藩と秘密協定を結び、会津藩を支持していた孝明天皇が崩御したこともあり、時流は倒幕へ傾きます。王政復古の大号令が出され新政権が樹立。薩摩藩と長州藩を中心とする明治政府軍と、幕臣、会津藩、桑名藩の連合軍が戦った鳥羽伏見の戦いに負け、会津藩は大打撃を受けます。大政奉還と江戸城の無血開城が為されますが、長州藩の会津藩への私怨が強いこともあり、江戸へ入った新政府軍は、会津討伐に動きます。これに対し、伊達家仙台藩と上杉家米沢藩が中心となり、長岡藩ら越後の勢力も加えて、奥羽越列藩同盟が結ばれます。新政府軍と戦う体制が整いました。しかし、装備と勢いに勝る新政府軍に、指揮系統がバラバラな奥羽越列藩同盟軍は敗れていき、孤立無援となった会津藩への攻撃が始まります。1か月の壮絶な籠城の末、会津藩は降伏しました。
『会津落城』では、会津戦争の悲劇、とりわけ、敵が城下へ侵入してからの出来事の多くは、人災だと記されていました。京都に6年もいて長州藩と情報戦を繰り広げ、実戦経験もある会津藩がなぜそこまでおそまつだったのか。『会津落城』では、「会津の最高司令官は藩主容保である。最終的には容保の指導力の欠如になろうが、結局のところ存在感のある重臣の不在が大きかった」と記されていました。また、戦闘では、「長州の大村益次郎に匹敵するような戦略家の不在」が響きまして。そして、つまるところは、「会津の人々は最後は幕府が助けてくれると信じていた」と指摘されています。しかし、その幕府から捨てられ、会津戦争は「最悪の戦い」となり、「悲しみの戦争」となった過程が詳細に記されていました。
会津藩が賊軍となるや、誰も彼もが官軍の旗になびき、刀折れ矢が尽きて降伏した会津藩は、城にあった松平家代々の甲冑や骨董らをはじめとし、一般家庭も含めて、すべてを略奪されました。薩長軍らの蛮行や強姦もすさまじかったようで、「婦女子が捕らわれ、性の対象として扱われ、監禁同様の暮らしを強いられていた」「略奪や婦女子への暴行、拉致、監禁は各藩が競って行い、抵抗した婦女子を全裸にして殺し、樹木に吊り下げた例もあった」ことなども記されています。
近代日本の幕開けとなったともいえる会津戦争ですが、負の面も含めて、日本人、あるいは現在まで続く、近代の日本人というものの幕開けでもあったのかもしれないと思いました。
→ (1)会津落城
→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇
→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ
→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ
→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵
→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)
→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子
→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子
→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾
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