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2007年7月15日 竹内みちまろ
読者の皆さんはクラシック音楽を聴きますか? みちまろは、さっぱり聞いたことがありませんでした。それがこのところ聞くようになりました。ひとつずつCDを選びながらゆっくりと聞いています。有名な曲から入るようにしていますので、今のところ、ほとんどがさびの部分をどこかで聞いたことがある曲です。CDについている簡単な解説を読むだけでも、ふむふむこの曲はそういうものなのかとわかって面白いです。クラシック音楽を聴くようになったキッカケは、ネットで文学について検索していたときに見つけたホームページでした。そのホームページには文学と音楽についてのコラムが掲載されていました。文学についての趣向がみちまろと似ていたので文学のページを読ませてもらっていました。文学のページの隣に音楽のページがありました。なんとなくのぞいてみました。たちまちに引き込まれました。思い出を交えながらピアニストやヴァイオリニストを紹介するコラムでした。シリーズものになっていて、今後も順次アップされていく予定のようです。そのホームページの掲示板に、訪問者の方がヴァイオリンとヴァイオリン奏者についてわかりやすく解説された本はないでしょうかと書き込みをしていました。ホームページの管理者の方が勧めていた本が今回取り上げる「ヴァイオリニストの系譜−ヨアヒムからクレーメルまで」でした。
「ヴァイオリニストの系譜−ヨアヒムからクレーメルまで」は「はじめに」に相当する前書きがありませんでした。いきなり本章からはじまっていました。最初の章は「霧の中の巨匠たち」という題でした。レコードが発明されてから残されるようになった録音記録をたどって19世紀末に活躍した音楽家たちが紹介されていました。聴いたこともない名前がなんの説明もなしにいくつも出てきました。著者の文章も「外面的な正確さと音色の魔術的な美しさは、これらのプリミティブな録音を通しても、はっきりと確認できるのだが、内面の焔が感じられない」という感じで書かれています。残念ながら、みちまろにはさっぱり「?」です。ただ、「ヴァイオリニストの系譜−ヨアヒムからクレーメルまで」は、教科書的なことが書かれた本ではなくて、「内面の焔」について書かれた本であることがわかりました。
「霧の中の巨匠たち」の次の章は「往年の巨匠たち」でした。12人のヴァイオリン奏者が紹介されていました。「往年の巨匠たち」で取り上げられていたフーベルマンをご紹介します。フーベルマンはポーランドに生まれました。幼いころから神童ぶりを発揮したそうです。著者は、ごく少数の熱烈なファンをのぞけば今日ではほとんど忘れられている巨匠だと紹介してました(「ヴァイオリニストの系譜−ヨアヒムからクレーメルまで」は1988年に初版が発行された本です)。しかし、現代のトップヴァイオリン奏者たちはフーベルマンに至上の評価を与えてることが紹介されていました。イヴリー・ギトリスという奏者は「フーベルマンのひくチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の古いレコードを聴くと涙がこぼれる」と言うそうです。著者もフーベルマンを高く評価していました。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲について「野蛮とも見てとれる粗暴な激しさと消え入らんばかりに繊細な心のやさしさの両極端をこの曲からかくも徹底して引き出した演奏は空前絶後と言わなければならない」と書いていました。著者は、フーベルマンの表現から、何かを追い求め何かに追いつめられるというような不断の強迫観念と、それと絶えず闘いながら必死になって己を支えていた人間の抑えきれない情念を感じると書いていました。
著者の言葉を借りると「フーベルマンの音は、色彩に頼らず、鋭く硬かった」そうです。わかる人にはわかるのだと思います。みちまろには「?」です。ということでチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。
チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」は、おそらく、有名な曲だと思います。フィギュアスケートをご覧になる方であれば、2006年12月に行われた全日本選手権で優勝した高橋大介選手が今シーズンのショート・プログラムでダイジェストを使っている曲と言えばわかるかもしれません。多くの方にとってどこかで聞いたことがある曲だと思います。
フーベルマンのチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」を聴いた素直な感想を書きます。”チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」”なら今までにどこかで聞いたことがありますが、(前に「フーベルマンの」とつけた)”フーベルマンのチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」”なんて今までに一度だって聴いたことがないと思いました。CDについていた解説文のタイトルは「比類ない個性の持ち主だったフーベルマン」でした。解説文には「当ディスク所収の演奏を耳にして、……そのやりたい放題ぶりに驚いた方もいらっしゃるに違いない」と書かれていました。「やりたい放題」なのか否かを判断するほどの知識がないのですが、個人的に勝手な解釈をした結果、フーベルマンはどこかで聞いたことがあるはずの曲を一度も聴いたことがないと思わせるように表現する人だと思いました。自分が感じた音楽世界を実現するために(楽器から音が出ようが出まいがお構いなしで)弓を動かしているように感じました。ちなみに、フーベルマンも1700年代に作られた名器と言われる楽器を使っていたようです。サザビーのオークションに出品されれば何千万円(何億円?)という値がつくのかもしれません。
平家物語に平経正(つねまさ)が登場します。平家が源義仲を迎撃するために北陸に10万騎の兵を出したときでした。経正は副将軍に任命されていました。本隊のあとを追っていた経正は、ある朝、ふと湖に目をやりました。かなたに美しい島が見えました。経正は幼いころから詩歌管絃に長じた風流の人でした。経正は舟を出します。春のなごりを残す竹生島は美しい風情に包まれていました。松の木に藤の花が咲きかかっている景色などは、言葉にできないほどに風流でした。竹生島大明神の神前にひざまずいて供養をしているうちに、日が暮れました。十八夜の月が湖面に照り渡ります。社殿は輝きを増します。常住の僧たちが、琵琶の名手としての高名を聞いておりますと言って琵琶を持ち出してきました。経正は琵琶を奏でました。静まりかえった社殿を琵琶の音色が駆け巡ります。明神も感慨したのでしょうか、経正のそでのうえに、白い竜が姿を現しました。経正は、あまりのかたじけなさに、琵琶を置いて、
千はやふる神にいのりのかなへばや
しるくも色のあらはれにける
と詠みました。
平家物語には多くの楽人たちが登場します。楽人たちは、たとえ一人息子であっても素質のない者には秘曲を伝えませんでした。経正は都を落ちる際に、名器と言われた青山(せいざん)という一面の琵琶を自分を育ててくれた法親王に託します。西国の塵に失わせてしまうことに耐えられなかったからでした。楽人たちは、名器を手にして秘曲を奏でました。竜神をも呼び覚ましました。しかし、平家物語を読み終えたときに、ふと、感じたことがあります。たとえ名器と言われても楽器は道具でしかありません。たとえ秘曲と言われても楽譜は記号でしかありません。平家の武将たちは名を惜しんで命を捨てました。源氏の武将たちは浮世の道理に従って平家の若武者たちの首をはねました。戦乱の時代を生きた女たちは、恋しさと悲しさを胸にしまったまま水底の都に落ちました。竜神を呼び覚ますのは、楽器を磨きあげた職人や、楽譜を埋めていった音楽家や、ある時代にそれを手に取った演奏家たちの「内面の焔」ではないかと思いました。
「ヴァイオリニストの系譜−ヨアヒムからクレーメルまで」の「あとがき」には、「器楽奏者の演奏の魅力は、帰すところ、強烈な個性、人柄との出会いにつきる、と考えます。そして、さらに言えば、疲れた心に深い憩いと、ときには勇気を与えてくれるその人のシンセリティにあると思います。これが、私のヴァイオリニストの実力をはかる唯一の価値規準です」と書かれていました。
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