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マタイ受難曲/礒山雅のあらすじと読書感想文

2007年1月29日 竹内みちまろ

 マタイ受難曲は、バッハが作成した教会における礼拝のための音楽です。ユダによってユダヤ教の聖職者たちに売られたイエスがローマ帝国の地方行政区の長官や大衆によって十字架にかけられて死ぬところまでを描いています。信仰に厚い女性がイエスに香油をかけたり、ローマ帝国の地方行政区の長官の妻があの人は正しいからかかわらないでと長官に伝言したりするエピソードなどが挿入されています。福音書記者が語り手の役割を果たして場面々々を説明していきます。イエスのほかにも弟子のペテロやユダのセリフもあります。イエスの処刑という現象をあとから振り返り、イエスの処刑に(宗教的な)意義付けをしている(ように思える)視点も独唱や合唱を利用して挿入されています。ソロ歌手の独唱の主語は「私」になっていますが、それはペテロでもあり、ユダでもあり、直接的な当事者たちからは一段上に立つ普遍的な人間でもあるように思えます。

 マタイ受難曲は、曲というよりは、「台本」や「叙情詩」と言ったほうがイメージが伝わるかもしれません。受難曲のはじまりは、聖書の朗読のようです。一人でも多くの人に聖書を理解してほしかった聖職者が、聖書を朗読するときに、イエスのセリフの部分は低い声で、ペテロのセリフの部分は高い声で、地の文はさらに別の声でというように使い分けて語り聞かせました。しだいに、聖職者は地の文だけを語り、イエスのセリフは別の人が、ペテロのセリフは更に別の人がというような分業がなされるようになりました。オルガンを加えて、ヴァイオリンを加えて、賛美歌を加えて、独唱を加えたようなものがマタイ受難曲であるように感じました。受難曲は、教会の中で演奏されることもあれば、教会の横の広場で劇のような形で上演されることもあったようです。いずれの方法であっても、聖書の理解と信仰を深めるという目的は果たされたようです。受難曲は、芸術作品として鑑賞されることは目的にはしていないように感じました。

マタイ受難曲/礒山雅

 書籍「マタイ受難曲」(礒山雅)は、マタイ受難曲の研究に四半世紀を費やした学研の徒がその集大成として書いたものです。解説書でもあり、評論でもある内容でした。書籍「マタイ受難曲」は、500ページ弱の大書ですが、挿絵や楽譜の掲載も多くて、見た目よりは読むのに時間はかかりません。ただ、内容は深かったです。

 書籍「マタイ受難曲」は、序論と本論に分かれています。序論では、受難曲の歴史や、バッハが生きた時代や、バッハの作品の成立過程などが紹介されています。本論では、マタイ受難曲を取り上げて、歌詞や旋律からバッハの思想を掘り下げていました。補章として、「マタイ受難曲」のレコード/CDの一覧が感想といっしょに掲載されていました。感想からは著者の「マタイ受難曲」に対する思い入れが伝わってきました。例えば、メンゲンベルク指揮(1939/4/2)には、「この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである」と書くも、「だが、こうした主観的解釈さえ認めてしまえば、この演奏が凄いことは確かである」と述べて、「当時にタイムスリップして聴衆の一人となれば、さぞ圧倒されることだろう」と結んでいました。ゲネンヴァイン指揮(1967)では、「ハマリとプライのアリアや、クラスのイエスは、とくに立派」とするも、「これでは、やさしさというより、微温的と言うべきなのではなかろうか。事は、受難なのだから――」とコメントしています。カラヤン指揮(1972-73)では、「こうした≪マタイ≫を歓迎する聴き手は、多いのかもしれない」と前置きした上で、「罪を見つめての悔恨の歌が魅惑のヴェールをまとった官能の歌のように響くというのは、私としては許せない見当外れだ」とありました。

香油を注いだのは誰か

 書籍「マタイ受難曲」の本論に「香油を注いだのは誰か」という一節がありました。マタイ受難曲には、一人の女性がイエスに香油を注ぐというエピソードがあります。イエスがエルサレム近郊の村で食事を取っていたときに、ひとりの女性が近寄ってきてイエスの頭に高価な香油を注ぎかけたそうです。「マタイ受難曲」のなかで、弟子たちは、もったいないことをするなと女性を責めます。イエスは、なぜこの女性を困らせるのか、この女性は私を葬る準備をしてくれたのだと言います。

 歴史的な背景と宗教的な背景を知らない私は、頭に油を注ぐといわれても「?」なのですが、書籍「マタイ受難曲」は、そういった疑問にもていねいに答えてくれました。マルコ福音書によると、注がれた香油の値段は労働者の300日分以上の賃金に相当するようです。また、ユダヤ人にとっては塗油には特別な意味があることが紹介されていました。王に油を注ぐ儀式から、「油注がれた者」としての「メシア」概念が生まれたそうです。書籍「マタイ受難曲」には、「したがって、女が『香油を注いだ』という出来事は、イエスがここで救い主、すなわちキリストとみなされ、信仰の対象とされたことを、強い含みとしている」とありました。また、塗油を葬りの備えとみなすのは、イエス以降の解釈で、この女性がイエスに香油を注いだのは、イエスの死を知っていたからというよりは、純粋なイエスへの尊敬と感謝と愛情の表れであったろうとありました。聖書には、宗教家として活動するイエスを慕う女性たちがガリラヤを中心にたくさんいたことが書かれているそうです。しかし、香油を注いだ女性に対する弟子たちの態度は侮蔑すら含んだものでした。そういった背景もあって、香油を注いだのは罪深い女であり、具体的にはマグダラのマリアであるという伝承が広まったそうです。書籍「マタイ受難曲」は、歴史的な背景や宗教的な背景を知らない人でも、マタイ受難曲のエピソードが理解できるように解説されていました。

ルターの神学

 バッハは大量の神学書を蔵書していました。書籍「マタイ受難曲」の著者はドイツに行って図書館に通って、バッハの蔵書を手に取り大切な部分を書き写していったようです。

 バッハも所有していた「宗教的慰めの時」(ハインリヒ・ミュラー)という本のなかに「信仰と愛について――マリアとマルタ」という章があるそうです。ルカ福音書にマリアとマルタという姉妹が登場します。イエスは、マルタに向かってあなたは多くのことに思い悩み心を乱している、必要なことはただ一つ、マリアはよいほうを選んだという内容を伝えたそうです。「信仰と愛について――マリアとマルタ」では、マリアは信仰の持ち主であり、マルタは(仕える)愛の持ち主として区別されています。どちらも大切ですが、順序は、信仰→愛であって、けしてその逆ではないと考えられていたようです。信じるから愛しいのであって、愛しいから信じるわけではないということかもしれません。ルターは、ルカ福音書で語られる「罪の女」をマグダラのマリアと理解していました。ルターにとっては、マグダラのマリアは悔悛の象徴でした。ルターは、マグダラのマリアのイエスに対する感情を「宗教的な愛」と規定しています。

 そういった神学的な背景を踏まえると、マタイ受難曲の第6曲にある「悔悛と悔恨」のアリア(アルト)の含蓄が見えてくることが書籍「マタイ受難曲」には書かれていました。

ルターを超えて

 バッハは、ルター派のなかでも正統派に属していました。簡単に言うと、ルターの教えを守るのが「正統派」で、ルター派のなかでも改革を目指したのが「敬虔派」と呼ばれるようです。ただ、バッハは、正統主義に身を置いていましたが敬虔主義の思想にも共感していたようです。

 マタイ受難曲の第11曲は「最後の晩餐」を描いています。イエスは、これは私の体であると言ってパンを弟子たちに与えて、これは私の血であると言って杯を弟子たちに渡します。ルターは最後の晩餐の場面に執着して、パンのもとにはキリストの肉が、ぶどう酒のもとにはその血が「現在」するという説を唱えていました。パンとぶどう酒が肉と血の象徴であるという説を攻撃したそうです。

 「最後の晩餐」の解釈は、ルター派内部においてさえ激しい神学論争を巻き起こすほどの重い現象だったようです。しかし、バッハ(と作詞家)は、「この問題を素通りした」と書かれていました。バッハ(と作詞家)は、「イエスの一種神学的な宣言を『別れの言葉』としてとらえ、イエスへの親密な愛の躍動を歌うアリアをもって、場を締めくくる道を選んだのである」と書かれていました。マタイ受難曲では「最後の晩餐」を描いた場面は、(体と血という貴いものをのこしてくれた主に)心を奉げる第13曲のアリア(ソプラノ)で終わります。第13曲のアリアは喜びに満ちているようにも聞こえます。書籍「マタイ受難曲」の著者は、「このアリアの内容と、身体と肉の関係を問ういかめしい論争のどちらが、最後の晩餐の場面に、われわれを親しませるだろうか? ここもまた、バッハがルターの神学を超えている場面の一つだと思う」と書いていました。

死へのあこがれ

 「憐れんでください、私の神よ」ではじまる第39曲のアリア(アルト)は、マタイ受難曲のなかで最も長いそうです。第38曲では、イエスの一番の弟子であったペトロの物語が語られます。興奮した大衆からお前もイエスの仲間に違いないと言われたペトロは、そんな人は知らないと答えます。第40曲に合唱を挟んだあとに第41曲からはユダの物語が語られます。後悔にさいなまれたユダのセリフは第39曲の悔悛の旋律をなぞるそうです。マタイ受難曲では、ユダは放蕩息子に例えられていました。放蕩息子の説話は、キリスト者にとっては心に響く物語なのかもしれません。書籍「マタイ受難曲」の著者は、ルカ福音書から「放蕩息子」の説話を引用して、レンブラントが描いた絵画「放蕩息子の帰郷」を挿絵に掲載していました。レンブラントの絵画「放蕩息子の帰郷」では、放蕩のはてに悔い改めて戻ってきた息子がひざまずいて父親にすがっていました。父親は玄関の扉から外に出るも一段高い場所に立ったままです。厳格とも思える顔をしたまま息子にすがらせていました。

 ルター派正統主義における「放蕩息子」や「ユダ」に対する概念は否定的なものだったようです。簡単に言うと、堕落した人間でした。しかし、バッハの時代にもユダに対するより広範な解釈の声は存在したようです。イエスを否定した心の弱さはペトロひとりのものではなくて、また、イエスを十字架にかけたのはユダひとりの責任ではないと考えたバッハは、「ペトロに与えられた許しをユダに対しても与え、それによって一対の許しの場面を、大きな解放感をもって閉じているのである」と書かれていました。

 書籍「マタイ受難曲」の著者は、第39曲の懺悔のアリア(アルト)をつづるときのバッハの脳裏には、「死への甘美なあこがれが、十字架と二重写しになっていたのではないだろうか」と書いていました。著者がそう思うようになったきっかけは、前述したハインリヒ・ミュラーの「宗教的慰めの時」を読んだことだそうです。「宗教的慰めの時」のなかの「死を願う気持ちについて」という章の中から一節が引用されていました。そこには、「私の救い主である死」という言葉がありました。書籍「マタイ受難曲」の著者は、「これはアリアの歌詞と直接かかわる記述ではないが、私にはそれが不思議に、<憐れんでください>の世界を指し示すもののように感じられたのである」と感慨していました。

マタイ受難曲への旅

 駆け足で書籍「マタイ受難曲」の内容をご紹介してきましたが、主題が信仰と受難であるだけに、書籍「マタイ受難曲」だけを読んでも、”ああそうですか”で終わってしまう内容かもしれないと思います。もちろん、書籍「マタイ受難曲」にけちをつけているわけではありません。バッハの思想と信仰に近づきたかったら(特にルターとルター派の)神学の領域に踏み込む必要があると思いますし、バッハの音楽を受け止めたかったら教会に行って受難曲を聞いてみるに越したことはないと思います。序論のなかで書籍「マタイ受難曲」の著者がドイツに行って図書館に通ったときのエピソードが紹介されていました。バッハが読んだものと同じ本を読みたくて職員にリクエストして待っていたそうです。書籍「マタイ受難曲」の著者のもとには、1000ページ以上もある百科事典のお化けみたいな本が何冊も運ばれてきました。貴重な書物なのでコピーをとるわけにもいかないし、マイクロフィルムでもにっちもさっちもいかない状態でした。書籍「マタイ受難曲」の著者はすべて手書きで必要だと思える個所を書き写していったそうです。「私はこれまでの人生でこの期間ほど、研究の喜びと興奮を味わったことは一度もない」と回想していました。「多くの本が、バッハのカンタータや受難曲の歌詞と言葉や発想の共通性を示しており、バッハの音楽が響き出す錯覚にさえ襲われながら」ページをめくり続けたと書かれていました。

 書籍「マタイ受難曲」は、「マタイ受難曲」の解説書というよりは、一人の学研の徒の心の旅の物語のように思えました。書籍「マタイ受難曲」を手にする人、そして、「マタイ受難曲」に耳を傾ける人の一人一人に人生があると思います。それぞれの心はそれぞれの「神」を求めて旅をするのかもしれません。それは、キリスト者が信じる「神」でなければならない理由はありません。自分自身の心の中にある「神」でも、自分自身が信じる「真理」や「理想」でもかまわないと思います。書籍「マタイ受難曲」は、読み終えてそれで終りというよりは、読み終えてからどうするかを問われる本だと思いました。


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