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2007年7月15日 竹内みちまろ
「芸術家としての批評家」(吉田健一訳)という論文をご紹介します。「芸術家としての批評家」は、2人の人物の会話という形式をとっていました。「芸術家としての批評家」に登場するのは、オスカー・ワイルドの思念を代弁すると思われる思慮深い人物と、一般的な良識に基づく発想で物事を考える友人の2人です。「芸術家としての批評家」は、ピアノを弾き終えた思慮深い人物が、友人に「何を笑っているんだい」と語りかける場面からはじまります。友人は、このごろの回顧録はつまらない、つまらないから読者は安心してつきあうんだ、とこぼします。思慮深い人物は、そのとおり、読者というものは実に寛大なんだ、でも、僕は、回顧録が好きだ、文学では自分に対する純然たる関心ほど面白いものはない、と答えます。思慮深い人物は、君にドヴォジャークの作品を弾いてあげようと言います。しかし、友人は、ピアノよりも思慮深い人物の話を聞きたいようです。思慮深い人物は、たばこはどこだ、ありがとう、と言って、それならと話を続けます。友人は、自分では創造することが出来ない人間が、なぜ、創造的な仕事の評価をやろうとするのだろうか、そんな人間に何がわかるのだろう、と素朴な疑問を口にします。思慮深い人物は、我々がギリシャ人から受け継いだもっとも重要なものは批評精神であり、批評こそが創造の中の創造なのだ、と語ります。「芸術家としての批評家」は、創造と批評について書かれた文章のようです。
2人が会話をはじめたあとに、テーマが「詩」に移っていきました。オスカー・ワイルドは、「詩」こそが最高の芸術である、と思っているように感じられました。思慮深い人物は、行動することは容易であって誰にでもできる、行動することは何もすることがない人間の最後の逃げ場で、行動家は自分がしていることの動機も結果も知らずに終わる、と語っています。トロイの城砦の前で長槍を振り回すことは誰にでもできます。「人間が行為している時には、一個の傀儡に過ぎないのだ。それが描写するときには詩人になるのだ。そこに問題のすべてがある」と言います。エネルギーが消費されれば終わる人間の行為を永遠にしようとすれば、「詩」(翻訳文では「文学」という言葉が使われていますが、文脈から判断すると、「詩」を含めた広いカテゴリーとしての「文学」というよりは「詩」そのものをさしていると思われます)による以外に方法はない、と語っていました。
思慮深い人物は、ホメロスに視力がなかったという神話は、偉大な詩人は常に「ものを見ることができる人物」であり、それは肉眼よりも、魂の眼で見るのだと教えているだけではなくて、「詩」は歌われた言葉とそこから生じる音楽と韻律の秘密がわかるまで眼を閉じて何度も繰り返し暗唱するものだと示そうとしていると思う、と友人に語ります。ミルトンだって、視力を失ってはじめて、永遠に歌われる作品を生み出すことができた、と言います。思慮深い人物は、あることについて話をするほうがそのことをするよりもはるかに難しいし、誰にでも歴史を作ることはできるが優れた人物にしか歴史は書けない、と言います。芸術家が人間の生を表現してそれを永遠にするために使う、余計なものを省き、必要なものを抽出する繊細な感覚こそ、批評する能力の顕著な現れの一つである、と付け加えていました。
会話の中で、友人が、偉大な芸術家は無意識に仕事をするものじゃないだろうか、と口にする場面がありました。思慮深い人物は、創造は意識的で十分に計算された仕事である、と友人の言葉を否定します。偉大な詩人は、歌わずにはおられないから歌うのではなくて、歌おうとするから歌うのである、と言います。思慮深い人物は、人が(キリスト以前の)神や自然と共生していたような洞窟壁画の時代に作られた素朴な作品でさえ、例外なしに、意識的な努力の結晶であるという意味のことを伝えます。思慮深い人物は、意識を働かせることなくして芸術はありえない、「意識すること」と「批評すること」は同義語なのだ、といささか熱くなっていました。
詩や創造の話が終わったあとに、いよいよ、批評にテーマが移っていきました。思慮深い人物は、批評は最高の意味で創造的だし、批評する対象である芸術作品からも独立している、と告げます。友人は、独立しているのかね、といささか驚きを受けていました。思慮深い人物は、だって、作品を創造する芸術家が外界や眼には見えない情熱や思想の世界に対しているのと同じように、批評家は芸術作品に対しているじゃないか、と答えます。ホメロスだって、シャイクスピアだって、もともとあった神話や昔話を材料にして作品を残してるじゃないか、批評家がもともとあった芸術作品を材料にして批評することと何も変わらない、さらに言うと、最高の批評は個人的な印象の純粋な結晶なので、創造よりも創造的なのだと言いたい、と続けます。完璧な批評は自分の魂の秘密を語ることであり、我々は創作に関しては事実に訴えることができるが、魂に対しては不服を申し立てることはできない、と言います。
思慮深い人物は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を例に挙げて、友人に説明していました。「モナ・リザ」を見たある人が、ギリシャ人の思想から異教世界への復帰までの人間の足跡を感じると言ったとしても、それをレオナルド・ダ・ヴィンチに告げたら、そんなことは知らない、ただ、線と平面の均衡と青と緑の配合を試しただけだと答えるだろう、と言います。しかし、だからこそ、人間の足跡を感じたことに価値があるのだ、と展開します。「モナ・リザ」を批評した人物は「モナ・リザ」を新たな創造をはじめるための出発点にしたのだ、と語ります。「美しい作品が持つ意味はその作品を作った人間の魂に求めることが出来るのと同じ程度に、その作品を眺める人間の魂にもそれを求め得るのだ」、いやむしろ、作品に意味を与えるのはそれを眺める人間なのだ、と結論づけていました。
思慮深い人物は、最後に、芸術の不完全さについて語っていました。仕上げられた芸術作品は、ときに芸術家の意図をはなれて独自の生命を得ることもあるようです。さらに、芸術作品は不完全であることによってこそ、眺めるものの美意識のみに訴えて、そこから新たな創造を生み出して、そして、それをも取り込んでいくようです。そうやって、芸術家が未完成のままにしておいたもの、あるいは自分では理解しなかった、あるいは不完全にしか理解していなかったものが統一されて一つの形式を満たしていくそうです。音楽は決してその最後の秘密を明かすことができないという意味において、音楽が芸術の典型だと書かれていました。オスカー・ワイルドは、魂に訴えるべき芸術作品を眼に見える自明の芸術に堕落させているものとして、挿絵を例に挙げていました。リア王の本に挿し込まれた、よぼよぼのじいさんが嵐の中をさまよう姿の絵などは、なんとまあ不要なものよ、と書いていました。眺める者の想像力を刺激するどころか、かえって、印象を一つの方向に釘付けにしてマヒさせる、という内容のことが書かれていました。「彼らの絵は全く我慢がならない程退屈」と憤っています。
「芸術家としての批評家」で語られていたのは、たとえば、批評文は芸術作品であるという一文で表せるのかもしれないと思いました。日本語で「批評文」という言葉を使うと、さまざまな意味を持つと思います。読み手に本を買わせることを目的に書かれた書評や、学生が夏休みの宿題で書いた読書感想文や、文学者が研究活動の一環として書いた評論文や、教育者が内容を紹介するために書いた解説文なども、批評文に含まれると思います。「芸術家としての批評家」の中で取り上げられていた「批評」をあえてあてはめるのであれば、読書感想文が一番近いように感じました。本を読んで心のなかに浮ぶことは、読んだ人の数だけあると思います。芸術作品にふれた人間の心に新しい気持ちが湧いて、それを自分の言葉で表現すること、それは、すばらしいことではないかということが書かれていたのではないかと思いました。
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