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音楽と音楽家/シューマンのあらすじと読書感想文

2007年7月4日 竹内みちまろ

 「音楽と音楽家」(シューマン/吉田秀和訳)という本をご紹介します。まえがきには、1833年のライプツィヒで、若い血に燃える音楽家たちの頭の中に「今はぼんやり手をつかねて傍観しているべき時ではない。進んで事態を改善し、芸術のポエジーの栄誉をもう一度取り戻そうではないか」という考えがわいたことが紹介されました。「音楽新報」という雑誌が創刊されたようです。「音楽と音楽家」は、「音楽新報」に掲載された評論をピックアップして年代ごとにまとめた本でした。

フレデリック・ショパン

 「音楽と音楽家」は、印象的なエピソードを紹介する記事ではじまっていました。仲間の1人が戸を開けて入るなり、「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と一つの楽譜を見せたそうです。楽譜を見せられた語り手は、モーツァルトの一節に和音が何百もからみあっている印象を受けました。さっそくピアノで演奏されました。語り手は、この変奏曲はベートーヴェンかシューベルトがかいたのだろうと納得しました。しかし、表紙をめくると、聞いたこともない「フレデリック・ショパン 作品2」という名前が書かれていました。仲間たちは、ショパンの曲に心を奪われて、それが2番目の作品であることに驚愕していました。仲間たちは、ショパンについて意見を交換します。言葉には熱がこもっていました。議論と酒に酔ったあげくに、先生と慕う人物に意見を請うためにみんなで家におしかけます。興奮がさめないままにそれぞれ帰っていった様子が描写されて最初の記事は終わりました。

 ショパンの「作品11」と「作品21」を論じた記事もありました。そこでは、ショパンの内面世界が紹介されていました。思索するポーランドの芸術家は、当時、ポーランドが苦難の時代を迎えていただけに、いっそうに強烈な印象を与えられて西欧社会に登場したようです。しかし、ドイツ国民がショパンをあたたかく迎えなかったために、ショパンは別の都へと向かいました。「音楽と音楽家」の語り手は、それはショパンにとって幸いだと評していました。ショパンの血肉に刻印されたポーランドの憂愁は、ショパンの作品を「花のかげに隠れた大砲」にしていると書かれています。しかし、ショパンの故郷に向けられた関心は、「決して無くすべきものでもない」のですが、「世界市民的なものの犠牲にならなければならない」と論じられています。ショパンの心が故郷から離れて普遍的で理想的な認識に向かったときに、ショパンの芸術は更なる高みへと進むことが予言されていました。

心から心に伝わる花

 「音楽と音楽家」に収録されている評論は、シューマンが作りだした架空の人物たちによって書かれているという形式をとっています。シューマンは、いろいろな人物を作りあげていました。なかには、「この連中は、規則も知らないくせに、その例外を話したがる」と大衆をけなしたり、「なぜ最初から自分で創作しないんだ! なぜ自分でひき、自分で書き、自分で作曲しないんだ!」と評論家たちを批判する逆上タイプの人物もいます。いっぽうでは、”ベートーヴェンはモーツァルトが学んだものを全て勉強する必要はないし、モーツァルトはヘンデルが学んだものを全て勉強する必要はない。しかし、いつの時代になってもみなが汲みにくると思われる源泉がある。すなわちバッハである”と静かに語る人物もいました。

 メンデルスゾーンのピアノ協奏曲作品40を論じた評論がありました。評論はピアノの歴史からはじまっていました。ピアノの演奏技術はめまぐるしく進歩しており、楽器としてのピアノも高度に発展してきていることが紹介されています。若い人には、今までのまじめで堂々とした協奏曲の代わりに、やはりまじめで堂々とした独奏曲を作って欲しいと展開しています。作品40自体は、どんな作曲家にもあるときどき現れる粗雑な作品に属しますが、メンデルゾーンの音楽や心情を称えて、「指はただ手段であって、隠れていても一向差支えない。なるほどきくものは耳であるが、決定するものは、結局、心である」と書かれていました。

 「音楽と音楽家」には、音楽家の精神世界、音楽会の様子、音楽の歴史などが書かれていました。また、個別の作品を技術的に分析した論文もありました。シューマンは、複数の語り手の視点を用いて、さまざまな角度から音楽と音楽家たちを評論していきます。しかし、「決定するものは、結局、心である」という文を読んだときに、「音楽と音楽家」の全編をとおして貫かれているテーマの一つに、音楽の本質と芸術家のたどるべき道をあとから続く者たちに伝えたいというシューマンの気持ちがあることを感じました。シューベルトのハ長調交響曲の評論には、「同じ音楽をきいても、18歳の青年は世界的な事件をききだすが、成年はただ地方的な出来事しか思わない」とありました。リストの演奏会の感想を書いたエッセイふうの文章には、「同じ芸術家をきくにしても、会衆を前にしてきくのと、2、3人で内輪できくのでは、勝手が少し違うし――当の芸術家も違ってくる。美しい明るい広間、ろうそくの輝き、着飾った会衆、こういったものが、与えるものと受けるものの気分を精いっぱいかきたてる」と書かれていました。「音楽の座右銘」という子ども向けの訓戒では、「いわゆる大演奏家はよくやんやと喝采されるが、あれをみて、思いちがいをしないように。みんなが、大衆の喝采より、芸術家の喝采を重んじるようだといいと思う」とさとしていました。フーガについて書かれた個所では、「いいかえれば技巧の根がすっかり隠れていて、外からはただ花しか見えないというのが最良の作品なのである」と論じられていました。

 音楽というものは心から心に伝わる花であり、その花を心から心に伝えることが芸術家の使命なのかもしれないと思いました。

ヨハンネス・ブラームス

 シューマンは、1830年代の10年間に、評論活動を活発に行ったようです。解説には、ベートーヴェン崇拝をうちたてて、シューベルトを再発見して、ショパンの天才を称えて、ベルリオーズをドイツ楽壇に紹介して、メンデルスゾーンの新古典主義に評価の基準を与えて、サロン向きの音楽を奏でるリストの本質を掘り当てたことが書かれていました。シューマンのおかげで、ロマン派の音楽家たちが決定的な勝利を得たそうです。ドイツ・ロマン派が勝利をおさめるにつれて、シューマンは評論活動から遠ざかっていきました。シューマン自身が創作に打ち込みはじめて、また、論文を掲載してロマン派を擁護する必要もなくなっていったことが原因のようです。

 しかし、解説には、もうひとつ、シューマンが評論活動をしなくなった理由があると書かれていました。それは、シューマンは、ひたすら叙情と耽溺と幻想と感覚美を追求しようとするロマン派に疑問を持つようになったようです。シューマンは、主観性の抑制と客観性の獲得に関心を持ちはじめました。シューマンの周りでは、リストやヴァグナーらの新ドイツ学派が、音楽をさらに色彩的で舞台装置を伴う劇的な芸術に発展させていました。シューマンは、音楽が内面の誠実から、雄弁な表現に転換していくのを感じたようです。

 「音楽と音楽家」に掲載されていた最後の評論文の題名は「新しき道」でした。シューマンは、「10年ぶりで、このおもいで深い領域に、もう一度足を入れることになった」と書きだしていました。久しぶりに書く評論文のようです。シューマンは、この10年間で先駆者たちは勝利をおさめて、新しい音楽のきざしも見えはじめていると言います。シューマンは、こんな時代には、「今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人」が突如として出現するだろうと続けます。しかも、その人は、段々に大家になっていくような人ではなくて、生まれたときから女神と英雄に見守られて来た人でなくてはならないと付け加えます。シューマンは、「すると、果たして、彼はきた」と書きました。シューマンは、評論を、「どんな時代にも、新しい精神の間には密かな結盟がある。到るところ、喜びと祝福を拡げつつ、芸術の真理の光をいよいよ明かならしめるために、この結盟の盟友は、ますます提携を堅くせよ」と結んでいました。

 解説には、シューマンに称えられたブラームスは、シューマンがはじめてショパンを紹介したときよりも大きな波紋を起こしてドイツ楽壇に紹介されたと書かれていました。シューマンの寵児として、ブラームスは新作のひとつひとつが激しい非難と支持の対象になったようです。解説には、「それがブラームスの双肩に、どのくらいの覚悟となってのしかかることになったか、それは、その翌年から精神病院にはいってしまったシューマンのついにあずかり知らないことだったかもしれない。けれども、ブラームスは、ドイツ古典音楽の偉大さをもう一度回復するために、感傷と官能性ですっかりふくれあがってしまったドイツ後期ロマン派との対決という巨大な課題を、一身にせおってあるきだした」と紹介されていました。


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