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夢十夜/夏目漱石のあらすじと読書感想文

2011年6月13日 竹内みちまろ

夢十夜/夏目漱石のあらすじ

 「夢十夜」は、「第一夜」から「第十夜」までの連作です。一つ一つは短いです。

 「第一夜」は、「こんな夢を見た」という一文で始まります。あおむけに寝た女性が「もう死にます」と言います。血行もよく、死にそうには見えませんが、「自分も確かにこれは死ぬなと思った」と書かれています。女性は「死んだら、埋めて下さい」「墓の傍に待っていて下さい。又逢いに来ますから」と告げます。女性は死にました。女性を埋めた「自分」は、「これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら」、腕組みをして墓石を眺めます。赤い日が上っては落ちていきます。それでも百年はたたずに、女性にだまされたのではないかと思いました。すると、墓石の下から茎が伸び、真っ白なゆりの花が咲きます。花びらにせっぷんをして顔を上げると、暁の星が一つ輝いていました。「自分」は、『百年はもう来ていたんだな』と気がつきました。

 「第四夜」では、「自分」は子どもです。「自分」は、箱に入れた手ぬぐいがヘビになると言って歩きだすおじいさんの後を追います。おじいさんは「今になる、蛇になる」と歌いながら、川の中へ入ってしまいます。おじいさんが対岸へ上がったときに蛇を見せるだろうと待っていたのですが、おじいさんは上がってきませんでした。

 ほかにも、鎌倉時代の仏師・運慶と明治の人間たちが言葉を交わす話や、死を決心した「自分」が船の甲板から飛び降り、でもなかなか海に落ちず後悔と恐怖が生まれたときに黒い波の方へ落ちて行った話などが記されています。

夢十夜/夏目漱石の読書感想文

 新潮文庫『文鳥・夢十夜』収録の三好行雄の解説には「漱石ははやくから<夢>、あるいは<無意識>を描くことに自覚的な作家だった」と書かれています。また、日本の近代文学には「小品」というジャンルがあり、「小説ともつかず、感想ともつかず、いわば短編小説と随筆との中間にひろがる曖昧な領域」ですが、「思いがけない作家の素顔や肉声を彷彿することも多い」と記されていました。

 『夢十夜』を読み終えて、漱石は、夢の中の「私」を「自分」と記すことにより、現実世界の「私」から夢の中の「私」を切り離し、夢の中の出来事を客観的に見ているのかなと思いました。しかし、「自分も確かにこれは死ぬなと思った」とあるように、「自分」は夢の世界の住人です。それならば、夢の中で発生する現象は、どこから現れるのだろうと思いました。

 「第三夜」は、視力を持たない息子をおんぶして歩く話でした。「六つになる子供を負(おぶ)っている。慥かに自分の子である」と記されています。夢の中の出来事ですが、視力を持たないこと、六歳であること、自分の子どもであるという現象を認識しています。そして、「自分は我子ながら少し怖くなった」と恐怖を感じ、息子を捨てようとします。息子から「丁度こんな晩だったな」と声を掛けられ、「何が」と返すと「何がって、知ってるじゃないか」と言われます。「自分」は何だが知っているような気になり、「分っては大変だから、分からないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならない様に思える」とあります。何らかのプロセスが働いて“知らない”ことにされてしまっている潜在的な記憶(?)のようなものが呼び起こされる様子が読み応えがありました。

 また「こんな夢を見た」という一文は、「第一夜」から「第三夜」まで共通し、「第四夜」でいったんなくなり、「第五夜」で復活します。「第六夜」以降は、再び使われることはありませんでした。さらわれた男が七日目の晩に戻ってきて、その男の話を別の人物から聞く「第十夜」に至っては、どこからが夢で、どこからが現実なのか、わからなくなりました。

 『夢十夜』は、書き手である漱石の思想、語り手である(=夢を見た「私」である)「自分」の意識、主人公である(=夢の中の登場人物である)「私」の心など、何重にも読み込むことができる作品だと思いました。


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