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2013年1月3日 竹内みちまろ
1928年(昭和3年)4月、瀬戸内海の寒村へ、入江の向こう岸の一本松のそばに住む大石久子が赴任することになりました。赴任先の百戸あまりの寒村は細長い岬の先にあり、1年生から4年生は村の分教場へ、5年生と6年生は片道5キロを歩いて、本村の小学校へ通いました。大石先生は、初日から、月賦で買った自転車に乗って、片道8キロの分教場への道のりを通います。「おはよう!」と声を掛けたかと思うと、すでに、村人や子どもたちの脇を通り過ぎていました。新任の若い先生に興味津々だった村人や子どもたちは、「こんどのおなご先生は、洋服きとるど」「おなごのくせに、自転車にのったりして」「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな」と大騒ぎになります。
初めて教壇に立った大石先生には、新入生の12人の一年生の瞳が、ことさら輝いて見えました。大石先生は、子どもたちの村でのニックネームを出席簿にメモします。大石先生の父親は3歳の時に死んでおり、死んだ父親の同級生の校長先生のはからいで教師になったのでした。授業を終えた大石先生は、初出勤の興奮を家で待つ母親に早く伝えようと、ペダルをこぐ足に力を入れます。大石先生が平坦な道にさしかかると、子どもたちの声を聞きました。
――大石、小石。
――大石、小石。
小柄な大石先生には、「小石先生」というニックネームがつけられました。
2学期が始まります。夏休み前に、大石先生は、分教場のもうひとりの男の先生から、「あんたが、なんぼねっしんに家庭訪問してもですな、洋服と自転車がじゃましとりますわ。ちっとばかりまぶしくて、気がおけるんです。そんな村ですからな」などと言われていました。負けん気の強い大石先生は、「着物きて、あるいてかよえというのかしら。往復四里(十六キロ)の道を……」と考えこんでしまいます。けっきょく、2学期も自転車で通います。
二百十日の嵐の翌日、「あんちきしょ」とペダルをこいで村につきましたが、貧しい村では、漁船が道路に打ち上げられ、半壊・崩壊する家が続出し、嵐のどさくさに紛れて米俵を一俵、盗まれた家もありました。
大石先生は、子どもたちと、村へ見舞いに訪れることにしました。しかし、村人からは嫌味を言われ、煙たがられます。仕方なく、道路の砂利を掃除することにし、いつの間にか、大はしゃぎの子どもたちといっしょに笑っていました。村人から、「あんたいま、なにがおかしいてわろうたんですか?」「人がさいなんにあうたのが、そんなにおかしいんですか」と捨てぜりふを吐かれます。じっとこらえて2分間ほど考えた大石先生は、子どもたちに、「さ、もうやめましょう。小石先生しっぱいの巻だ。浜で、歌でもうたおうか」と笑顔を見せますが、涙がほほを伝いました。
浜で歌って過ごした大石先生は、「かえりましょう」とスカートをはらってふりむいたとたん、落とし穴に落ちてしまいました。アキレス健を切る重傷で動けなくなります。村では大騒ぎになり、船を出して、医者へ連れて行きました。
大石先生は半月たっても分教場に姿を見せません。その間に、大石先生に不当に辛く当たったことへの悔いもあり、「あの先生ほど、はじめから子どもにうけた先生は、これまでになかったろうか」などと、大石先生の評判があがっていました。大石先生はまだ当分、分教場に来れないことを知らされ、「男先生の唱歌、ほんますかん。やっぱりおなご先生の歌のほうがすきじゃ」と不満を募らせた1年生たち12人は、お昼で学校が終わる日、8キロ先にある大石先生の家まで、大石先生に会いに行くことにしました。
元気に歩き始めた子どもたちでしたが、歩けども、歩けども、対岸の一本松は遠くにあるだけで、荒神様よりも先へは歩いて行ったことがない子どもたちにとって、初めて足を踏み入れる場所は、外国のようでした。一人が突然、道ばたにしゃがんで泣きだします。家に帰りたい気持ちから、みんなで泣きながら道を振り返りました。そこに、大石先生が乗った乗り合いバスが通り過ぎます。バスが止まり、松葉杖をついた大石先生が、「どうしたの、いったい」と驚くと、元気を取り戻した子どもたちは、「先生の、顔見に来たん。遠かった」と口々に言い始めました。大石先生の家につくと、子どもたちは、きつねうどんを振る舞われ、近所の写真屋に頼み、一本松で、大石先生を囲んで、12人の子どもたちの集合写真を撮りました。校長先生の計らいがあり、大石先生は、分教場をやめて、5、6年生が通う本村の学校勤務になりました。
4年後、一年生だった岬の子どもたちも、5年生になり、本村の学校で大石先生と再会します。大石先生の家では、船乗りの夫を一人娘である大石先生の婿に迎えていました。しかし、ユリの花の弁当箱をほしがっていた松江は、母親が産後に死に、一日しか学校に来ませんでした。大工の父親が働きに出る間、家で、炊事や、洗濯や、幼い弟と妹の子守りをするためでした。心配した大石先生が、手紙を近くのコトエに託しましたが、ある日、松江の家にはきれいな着物を来た知らない女の人がいて、家の柱にしがみついて嫌がった松江が、「ゆうべの船で、大阪へ」行ったことを知らされました。
世の中も暗くなります。満州事変、上海事変が立て続けに起こり、岬からも、何人かが兵隊に行きました。もうすぐ6年生に進級する3月には、「赤」の疑いをかけられた同僚の先生のもとに警察がきて、「小林多喜二の本を読んだろう」などと詰問をして帰っていきました。大石先生は、その日の国語の時間に、「冒険」を試みます。子どもたちに、「赤って、なんのことか知ってる人?」「プロレタリアって、知ってる人?」「資本家は?」などと尋ねます。すぐに校長に呼ばれ、注意されました。
6年生の秋の修学旅行は、泊りがけの伊勢参りが慣例でしたが、時勢をかんがみて、日帰りの金毘羅参りと決まりました。借金がかさんでいる家や、余裕がない家の子が何人か参加せず、一方で、学校は6年間でやめるからという約束で修学旅行に参加させてもらった子どももいました。旅行中、大石先生は気分が悪くなり、寒気がするようで、熱いうどんでも食べればと、横町に入りました。うどん屋から聞こえてくる、「てんぷら一ちょうっ」という声を聞き、はっとします。店に入ると、「いらっしゃい」と自分の声にさえ、いささかの疑問を持たない叫びで迎えられましたが、少女は、大阪へ行ったはずの松江でした。
修学旅行から体調を崩し、大石先生は、3学期に入って学校を長期で休みますが、小ツルから「先生の病気、つわりですか?」と問われ、顔を赤らめます。また、大石先生は、家の事情で進学をあきらめさせられた母親たちが、今また、自分の娘に進学をあきらめさせたり、なんの疑問も持たずに「兵隊に行く」と勇んで口にする子どもたちを生み出している「教育」に納得することができません。大石先生は、教師をやめました。学校では、大石先生が、一部から「赤」ともいわれていたため、引きとめる人はいませんでした。
終戦翌年の1946年(昭和21年)4月、40歳の大石先生は、12人の一人だった早苗(本村の学校にいる)の勧めと尽力で、臨時職員として、再び、分教場の教壇に立つことになりました。終戦後の時代、自転車を買うことなどできず、長男の6年生の大吉が毎日、船で送り迎えをすることになりました。大吉は、戦争中は、戦死した父親を誇りに思い、自分も兵隊に行く、そうすれば、大石先生は「靖国の母」になれると信じていました。大石先生は、靖国は「妻」だけで十分とさとしていましたが、戦争が激しくなる中、大石先生の家では、夫のほか、大石先生の母親と、3人目の子どもで長女の八津が死んでいました。八津は、うれるのを待てずに、黙って青い柿を食べ、病気になっていました。
12人いた岬の一年生たちも、荒波にさらされていました。森岡正は戦死、岡田磯吉は失明して除隊、借金のかたに家を差し押さえられた富士子は芸者になったと噂され、女中奉公に出たコトエは肺病になって帰り、物置で一人、いつの間にか死んでいました。再び教壇に立った大石先生は、10人の一年生の中に、松江の娘を見かけます。10人の子どもたちの顔が、いつの間にか、一本松の下に集まった12人の顔に変り、涙を流します。大石先生には、「なきみそ先生」というニックネームがつきました。
『二十四の瞳』は、読み終えて、強烈な意志を感じました。それは、筆者である壺井栄の信じるものを見つめる信念であり、ゆるぎない「まなざし」だと思いました。
『二十四の瞳』は、ラストシーンが印象に残っています。なんとも、救いようのない、もの悲しい場面でした。
ラストシーンは、分教場に戻った大石先生の歓迎会の場面でした。12人の一人・香川マスノがやっている料理屋が会場。「わたしはもう先生のまえに出られるような人間ではありませんけど」という松江は、大石先生からもらったユリの花のべんとう箱を持ってきていました。料理が運ばれると、松江は慣れた手つきで、ビールとサイダーを注いで回ります。一本松の下で全員で撮った写真を回し、小ツルは、迷うことなくその写真を磯吉に渡します。吉次が、「ちっとは見えるかいや、ソンキ」と驚くと、磯吉は「目玉がないんじゃで、キッチン。それでもな、この写真は見えるのじゃ」と言います。「まん中のこれが先生じゃろ」「こっちが富士子じゃ」などと、一人一人を指でなぞります。それが少しずつ、ずれていて、大石先生は涙を流しながら、「そう、そう、そうだわ。そうだ」と明るい声を出します。みんながしんとする中、学芸会の「荒城の月」で全校をうならせ、ひまさえあれば歌を歌い、音楽学校へ進学するため女学校へ行きたいと言っていたマスノが、手すりによりかかり、「じぶんの美声にききほれているかのように」「目をつぶって」、「荒城の月」を歌います。早苗が、マスノの背中にしがみついて泣きます。
『二十四の瞳』は、早苗がマスノにしがみついて泣く場面で終わっていました。大石先生は、明るい性格なのですが、楽天家ではありません。40歳になると、厳しい人生を送る松江や富士子を気遣い、一方で、その松江や富士子を蔑む人間の言葉には、12人の一人であっても、返事をしません。大石先生はヒューマニストなのですが、分教場の教壇に初めて立ってから18年の歳月が流れ、その間に、心を一つにして一本松の下で写真を撮った12人の生徒たちは、あるものは、終戦時に軍の物資を保管していた関係で裕福な暮らしをしているといわれ、ある者は暮らし向きが楽なゆえの優越感に浸り、一家が食いつなぐために売られた富士子は、いまだ消息不明です。
冒頭で、自転車に乗ってさっそうと登場するモダンガールを出しておきながら、『二十四の瞳』には、何の救いもないじゃないか、と思いました。物語はハッピーエンドにするべきか、バッドエンドもありか、などというレベルの話ではありません。ただ、『二十四の瞳』はこの形で終わらせるしかなかったのかもしれないと思いました。では、なぜ、そんな悲しい話をわざわざ書いたのだろうと思いました。『二十四の瞳』には、人間の「現実」しか描かれていません。それゆえに、かえって、作品の内側には描かれていなかった「理想」へ対する作者の信念を感じました。
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