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かの子撩乱/瀬戸内晴美のあらすじと読書感想文

2016年7月27日 竹内みちまろ

かの子撩乱のあらすじ

大貫かの子

 大貫かの子は明治22年(1889年)、二子村の旧家である大貫家の当主・寅吉と、妻・アイの長女として生まれた。大貫家は富豪で、アイも由緒ある商人の家の娘だった。

 かの子は、幼い頃から、橋の真ん中に差し掛かると、たったひとりになった寂しさから涙を流すほどの高い感受性と詩人の心を持っていた。

 高津の尋常小学校を卒業したかの子は、上流階級や富豪の子女が集い東京一の贅沢学校といわれていた跡見女学校に入学。明治40年3月に跡見女学校を卒業した。

 明治41年の夏、19歳のかの子は、父の寅吉に伴われて、信州の沓掛に出掛けた。寅吉は避暑地の娘を贅を尽くして着飾らせた。避暑地では、かの子の存在が目を引いた。跡見出の才女で「明星」に歌を発表するなど歌人としての活動を始めていると知れ渡り、画学生たちの羨望の的になった。

 かの子の夫となる画学生の岡本一平は、かの子が避暑地にいた時、東京で卒業制作の作品を描いていたが、信州にいる同級生から、美しい女流歌人の噂を聞いていた。後日、友人を通してかの子を紹介してもらった一平は、ひと目見て、かの子の魅力の虜となった。

 明治41年の秋、かの子は19歳、一平は美術学校4年生の22歳のとき、2人の交際が始まった。交際は続き、一平がかの子を連れて双方の親に結婚を承諾させた時には既にかの子は妊娠していた。明治44年2月26日、かの子は双子の実家で太郎を出産した。

 太郎の出産後、かの子は東京の家に戻ったが、太郎が生まれた同じ年の明治44年(1911年)に、実家である大貫家は、二子のほとんどの富裕な旧家が出資していた高津銀行が突然、倒産し取り付け騒ぎが発生したことで窮地に陥った。小心で生真面目な寅吉は村の預金者たちを見捨てることができず、寅吉が頼んだ弁護士も悪くて何年も伸びた解決の後には、寅吉の元にはわずかに家屋敷が残っただけで、莫大な財産はすべて剥ぎ取られた。

岡本一平

 一平は、借金は男の財産と考える気質で、学生の頃から、芸者から女郎まであらゆる階級の玄人女との遊びを経験していた。かろうじて建設中の帝劇の内装をする仕事にありついており、帝劇が完成してからは舞台の背景描きの仕事を細々と続けていた。

 しかし、見栄張りの一平の生活がわずかな収入でこと足りるはずがなかった。箱入り娘として育てられたかの子は金銭については何の経験もなく、金銭を管理するという発想すら持ち合わせていなかった。家計はいつでも火の車だった。

 かの子は大貫家を頼ろうとしたが、取り付け騒ぎに追われていた寅吉には、かの子に気を配る余裕がなかった。

 明けて明治45年、一平に転機が訪れた。

 当時、朝日新聞で夏目漱石の「それから」の連載が始まっており、挿絵を流行挿絵画家・名取春仙が受け持っていた。春仙が病気で倒れた際、春仙が美術学校時代の後輩で遊蕩仲間だった一平に挿絵を描くよう勧めてきた。

 一平は、「それから」の挿絵をピンチヒッターで10回ほど担当した。その挿絵が好評で、各紙がこぞって力を入れていたコマ絵(1枚もののスケッチ画)も、春仙の代役で描くようになった。

 一平は、コマ絵に、持ち前の都会的な風刺を効かせた短文を添え、すでにマンネリ化が進んでいたコマ絵の世界に新鮮な風を吹き込んだ。

 漱石が一平の挿絵を絶賛し、一平は朝日新聞の社員として正式に迎えられることになった。一平は、毎日が勝負となる新聞の世界で生きるため、事件があってもなくても街を歩き回り、社会のあらゆる現象を片端から写生し、鋭い短文を添えて発表し続けた。

 人気と収入が増えるにつれて、一平は結婚前の放蕩生活に戻り、酔った友達を3、4人、家に引き連れて帰るようになった。かの子は一平が家にいる間は一平の指図なしにはご飯一杯も食べてはならないという古風な躾を自分に課していた。一平が飲み友達との放蕩にふけっている間、幼子の太郎を抱えたまま1日でも、2日でも何も食べずに座って過ごした。

 大正元年11月、かの子が信頼し、文学の先導者としても頼りにしていたかの子の兄・大貫雪之助(晶川)が急逝。一平はさすがに、かの子のあまりに悲嘆にくれる様子に心を打たれ、一平が手筈を全て整え、かの子の第1歌集「かろきねたみ」が出版された。

 しかし、一平とかの子の夫婦間の危機は、深刻な状態が続いていた。

 一平から見捨てられていたかの子は、幼い太郎が泣きだすと一緒になって泣いてしまい、驚いた太郎が黙ってしまうこともあった。生活の幻滅に打ちひしがれたかの子は、幼い太郎に、一人前の男に相談するように涙ながらに語り掛け、世間の一部の人々の冷酷さを嘆き続けた。

 幼い太郎の心には寂寥が刻み付けられた。太郎の感受性は否応なしに研ぎ澄まされ、幼い太郎は、人生の底知れぬ哀愁を母親の皮膚から骨の芯まで吸い取っていた。

堀切重夫

 一平の名声は上がるばかりだった。

 そんなある日、かの子が2階のアトリエの窓から何気なく下を見ていると、長身で細身の鼻筋の通った美青年・堀切重夫が目に留まった。かの子は、重夫が「文章世界」で写真を見たことがある投書家の文学青年だと気づいた。重夫は最初から、歌人としてのかの子の才能と人柄に憧れていた。

 かの子25歳、重夫21歳。2人は恋に落ちた。

 かの子は、重夫と肉体的にも結ばれた。かの子は、一度想いを燃やしたら対象の骨の髄まで自分と同化しなければ気が済まない情熱を持て余し、ついに、一平に、重夫との恋の全てを打ち明けた。一平は平然と、「そんなに好きになった男なら、手許へつれてくればいいだろう」と言ってのけた。

 一平は、かの子の情念の火を鎮めるにはそうするしかないと悟っていたともとれるし、自分が与えたこれまでの仕打ちへの償の心がそう言わせたともとれる。また、嫉妬を野暮と見なす持ち前の都会人的な気取りから強いて平然を装ったともとれる。いずれにせよ、重夫には一平の心の内を理解することなど到底できなかった。

 重夫は、一平の承諾の元、下宿を引き払い、かの子の家に同居することとなった。かの子は、本能的に一平との凄惨な闘いの勝利を自覚していたものの、「青鞜」で知った気のよい随想家を訪れて7時間もぶっ通しで一方的な身の上相談を話し続けたりした。無関心を装った一平も、いざ、重夫との同居が始まってみると、突然、浅草の芸人一座に弟子入りしてしまうなど、心を掻き乱されていた。

 さらに、かの子の熱狂的な愛し方はサディズムを帯びていた。繊細で傷つきやすい重夫は、異様な共同生活の中で疲れ果てて行った。

大貫きん

 かの子の妹・きんは、時々、かの子の家に二子の家からやってきて、かの子が溜めていた洗濯をしたり、つくろいものを片づけたりしていた。きんはかの子の家を訪れるたびに、かの子から、若い情人・重夫の礼讃を聞かされていたが、目の前にいる若い美しい美青年が、女王にさいなまれている奴隷のように見えて、感じやすい優しい心を痛めていた。

 重夫も、きんのつつましい飾り気のない清楚さに惹かれた。重夫ときんは、街頭でばたりと出会ってそのまま町をさまよったり、重夫がきんを尋ねて二子にあるかの子の実家を訪れたりした。かの子の幻影に怯えながらも、2人は心を通わせた。 

 重夫ときんの心の交流を直感で見抜いたかの子は狂乱した。きんの監督不行き届きで大貫の家を責め、一日も早くきんを縁付けるよう迫った。かの子の憤怒ばかりが理由ではあるまいが、きんはその後、慌ただしく縁付かされ、その結婚は不幸に終わった。

 間もなく、重夫の姿が、かの子の家から消えていた。重夫が郷里の町で肺を病み、24歳の多感な命の終焉を迎えたという噂が東京に伝わった。

 空虚で虚脱した瞳をしたかの子と、妻の情人との同居生活で心がズタズタに引き裂かれていた一平は、相手の目の中の絶望の深さに、お互いに我のことを忘れ、何としても相手を立ち直らせ、守らなければならないと心に誓った。2人はまだ、30歳を超えたばかりだった。

恒松安夫

 重夫が出て行った後、女中にこりごりしていた一平とかの子は、女中は置かないことにして、玄関脇の四畳半に、島根県の素封家の息子たちである恒松源吉、安夫兄弟(共に慶應大学生)を置いた。

 源吉はあまり親しくならなかったが、安夫はかの子夫妻になつき、かの子も、マメで優しい安夫を気に入った。掃除や食事の支度、太郎の世話まで、一切が安夫に委ねられるようになった。

 かの子たちは、様々な暗い思い出が染みついた青山北町の家を出て、芝白金の家に引っ越した。一平は、青山北町時代の後半、すでに酒毒から性生活も不能に近くなっていた。かの子をかばうと決心をした時、中毒状態だったアルコールとタバコを止めて、酒友とも絶交していた。

 一平の仕事は好調で、仕事の依頼は絶えることなく、かの子も第2歌集「愛のなやみ」を出版した。

 かの子は次第に神経質で病的な繊細さを表に出さなくなり、一平や安夫に甘え切った童女のような無邪気さが出てくるようになった。一平は、自分はもうしたいだけのことをしてきたから、自分の快楽の犠牲にしてきたかの子と太郎をどんなことをしてでも幸せにすると心に決めていた。

芥川龍之介

 大正12年(1923年)の夏、かの子たちは、鎌倉の駅前の平野屋の一棟を借り、ひと夏を過ごす避暑の住まいとした。廊下で繋がっている隣の棟を作家の芥川龍之介が借りていた。

 かの子は1年ほど前から、小説家に転向しようと決心していた。かの子の部屋から、浴衣を小粋に着こなした3歳年下の芥川が出入りする姿がよく見通せた。

 かの子に遅れて一平が東京からやってくると、芥川が挨拶に来た。かの子と芥川も、廊下や洗面所で顔を合わせるたびに、何気ない言葉を交わすようになった。

 芥川の部屋には、谷崎潤一郎の愛人として世間に知られていた千代夫人の妹、せい子が出入りするようになった。後年、「痴人の愛」のナオミのモデルとなったせい子は典型的なモダンガールだったが、かの子は、せい子に違和感を持ち、そんなせい子と楽しそうに過ごす芥川に、裏切られたような屈辱をひとりで感じていた。

 9月1日、関東大震災に見舞われた。

 次にかの子が芥川に会ったのは、歳月が流れた昭和2年(1927年)の春、かの子と一平が熱海へ梅林を見に行くための列車に乗ったときだった。列車が新橋を出発すると、芥川が「やあ」と言って声を掛けてきた。5年ぶりに会う芥川は、病魔に蝕まれており、鎌倉にいた頃の秀麗さの影もなかったが、かの子は懐かしさを込めて言葉を交わした。

 7月、かの子は、芥川の自殺を知り驚愕した。

 芥川の死後8年経って、かの子は昭和11年(1936年)に、芥川との交渉を克明に描いた小説「鶴は病みき」を発表した。「鶴は病みき」は、かの子の小説家としての出発のきっかけを作る作品となった。

仁田勇(仮名)

 大正12年(1923年)、関東大震災に見舞われた一家は、恒松安夫の提案で、一旦、石見の安夫の実家に難を避けた。東京にいた安夫が芝区白金今里町に手頃な家を見つけ、半倒壊の家から掘り出せるだけの荷物を運び込み、手筈が整った後、かの子たちは石見を引き上げた。

 今里の家に移ってから、仁田勇という若い医師がかの子たちの家に同居するようになった。仁田は、きりっとした容姿の腕のいい医師で、かの子が痔の手術で入院した際の執刀医だった。

 かの子は入院中から周囲の目をはばからず仁田に思いを寄せた。退院してからも、呼び出しの電話を掛けるし、訪れもした。たちまち病院内で話題となり、仁田は病院にいられなくなった。北海道の病院へ移動(左遷)させられた。

 かの子は、一平に「ね、パパ、いいでしょう? つれてきちゃっていいでしょう」と天真爛漫にねだり、一平の許可を得ると、北海道まで出かけ、仁田を呼び戻してしまった。

 仁田は、安夫同様、岡本家にいなくてはならない家族の一員として迎えられ、仁田は岡本家で暮らしながら叔父の病院へ通った。

 かの子は一平に全幅の信頼を寄せていた。一平は、自分の言うことならば何でも聞いてくれると信じて疑わないかの子の無垢な姿に心を打たれ、目頭があつくなった。

 かの子は女友達に理解されることが少なく、自分の方でもほとんど女友達には心を開いていこうとしなかった。が、名のある麗人では、九条武子と柳原白蓮の2人は心から敬愛していた。

ロンドン軍縮会議

 昭和4年(1929年)、一平、かの子、18歳の太郎、安夫、仁田の5人は船で洋行の旅に出た。一平は、朝日新聞の特派員として、世界中のジャーナリストが集まるロンドン軍縮会議に“漫画の全権”として派遣されることになり、かの子たち4人を連れて行った。

 一行は上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、スエズ運河、カイロ、ナポリ、マルセイユと船旅を続け、パリに到着した。一平たちは仕事のためすぐにロンドンに向かう必要があったが、太郎は一日も早くフランス語に慣れるため、パリに残ることになった。

 一平の仕事はロンドンでも大いに認められ、名声を高めた。かの子も、社会的な見聞を広めることに目を向け、かの子流に勉強を続けた。アイルランドにも足を運んだ。

 太郎がロンドンに到着。一平たちは約1年をロンドンで暮らしたが、中でも太郎と一緒に過ごした2か月は平安と幸福に満ちた時間だった。夏休みが過ぎると太郎はパリへ帰って行った。

 一平たちは約1年間のロンドン滞在を終え、パリに付いた。1年の間に、太郎はすっかりパリに馴染んでおり、パリの人間になっていた。一行は太郎が見つけた家で、ベルリンへ出発するまでの8か間月を過ごした。

 かの子たち4人は、昭和6年(1931年)7月から昭和7年(1932年)1月までの約半年間をベルリンで過ごした。

 いよいよ帰国という間際、かの子たちはパリに立ち寄り、太郎と過ごした。パリで芸術に一生を捧げると気負っていた太郎は、かの子たちが乗るロンドン行の列車の発車が迫ると、「おとうさんも、おかあさんも、僕別れていると思ってませんよ。ね。一緒に居て仲のわるい親より別れていたってこんなに思い合っているんだもの」と声をかけた。かの子は、大粒の涙を流して泣いた。

 太郎とかの子の今生の別れとなった。

 太郎とかの子が永遠の別離を迎えた日は、満州事変から上海に飛び火し、上海事件に拡大した日だった。世界情勢は一気に緊張を高め、国際連盟が日本の経済封鎖をやるかもしれないという風評が立った。

 昭和7年(1932年)6月、かの子たちは横浜港に降り立った。

岡本かの子

 ヨーロッパに渡って以来、かの子の生活は勉強一途に徹底していた。一平は、かの子のあらゆる望みを叶えるために計らった。かの子は外遊前に仏教研究家として著書を出していたが、帰朝した時期がたまたま仏教界のルネサンスとも呼ばれた時代と重なり、かの子の元には、ラジオ、講演、原稿執筆などの仕事の依頼が殺到した。

 一平は弟子たちに活躍の場所を譲り、第1線から少しずつ身を引く態勢を取り始めた。一平は、一つ屋根の下には1人のミューズしか鎮座しないことを知っており、自分の肩からかの子の肩にミューズを移す時が来たと考えた。

 昭和9年(1934年)がかの子の仏教界での活躍のピークで、かの子は執念を燃やし続けた小説の世界へ本格的に乗り出した。一平、安夫、仁田の3人がそんなかの子を支えた。しかし、安夫は後に妻となる女性と恋に落ちた。かの子に結婚を許してほしいと申し出た。かの子は、その女性と対面したが、気に入らないから即時別れるように安夫に命じた。安夫が聞き入れなかったため、かの子は安夫を家から追い出した。

 かの子は、昭和11年(1936年)に小説「鶴は病みき」を発表し、小説「母子叙情」が発表された昭和12年(1937年)には、小説家として確固たる地位を与えられた。

 かの子は次々と秀作を発表した。執念を持って膨大な長編群を書きためていたが、かの子の疲労は限界を超えており、肉体を蝕んでいた。

 昭和14年(1939年)2月、かの子は永眠した(享年50歳)。

岡本太郎

 パリでかの子死去の知らせを受けた太郎は、昭和15年(1940年)8月、ドイツ軍のパリ占領と同時に脱出して日本に帰国した。昭和4年(1929年)12月に出港して以来、11年ぶりの帰国となった。パリではすでに力量を認められた新進気鋭の画家となっていた。

 太郎は帰国して1か月すると、9月には二科特別展にパリから持ち帰った作品を出品して二科賞をとり、11月には銀座三越で個展を開いた。

 太郎は帰国の翌々年となる昭和17年(1942年)1月に東京駅集合で大陸に出征し、昭和21年(1946年)6月に復員するまで大陸戦線にいた。

 一平は、かの子が他界して1年もたたずに、太郎よりも1歳年下の八重子を再婚相手に迎えた。それを機に、仁田は思い出の深い岡本家を去り、故郷で妻をめとった。

かの子撩乱の読書感想文

 「かの子撩乱」を読み終えて、かの子を何としても大成させようとする一平の心が印象に残りました。

 「かの子撩乱」の中の一平は、小説家として世に出ようとするかの子を全力で支えていました。さらに、世間はひとつの家から2人の芸術家が並び立つことを許さないから、と言って、自らは引退していました。

 本当に「世間はひとつの家から2人の芸術家が並び立つことを許さない」のかどうかは分かりませんが、そう口にして自らを犠牲にしていた一平の姿に、理屈を超えた思慮深さを感じました。一平のその思慮深さの根底に流れていたものは、かの子を思いやる優しさだと思いました。世間的には、色々と陰口を叩かれていたのかもしれませんが、夫婦の間にお互いを思いやる心と信頼があれば、外野の声は関係ないのかもしれません。

 もうひとつ、芸術家が大成するには、家族や周りの人たちの絶対的なサポートが必要なのかなと思いました。いくら才能に溢れていても、生活で手いっぱいだったり、雑事に追われて創作に集中できなかったり、創作に打ち込むエネルギーや時間を他のことに取られてしまっては、芸術家として世に出ることすらできない場合もあるのかもしれません。

 本人の努力と才能が大事なのは言うまでもないと思いますが、芸術家が成功するには、自らに与えられた時間とエネルギーの全てを創作に捧げることができる環境が不可欠なのかなと思いました。

 「かの子撩乱」の中では、かの子が小説に打ち込み始めた後は、一平を中心に、男たちがかの子中心の生活を整えていたように見えました。その環境の中で、かの子は傑作小説を生み出していきます。そんな岡本家の姿に触れて、かの子をはじめとする芸術家たちが傑作を残すことができた背景には、現実世界の中にそれを可能にする環境があったからかもしれないと感じました。


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