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罪と罰/ドストエフスキーあらすじと読書感想文

2010年7月7日 竹内みちまろ

罪と罰について

 「罪と罰」(ドストエフスキー/米川正夫訳/角川文庫)の感想をまとめたい。「罪と罰」を読もうと思ったきっかけは「無知の涙」(永山則夫)に、以下のように記載されていたからだ。少々長いが、四個所を引用する。

「朝の麦めしと一緒に『罪と罰』を読み終った。この本は定時制高校に行っている時分買い最初のほうを読んだことがある。それはラスコーリニコフがあの計画の予備行動をした後、マルメラードフの酔った口からラスコーリニコフへソーニャの存在を初めて知らせる場面までだった。その時確か河出版で米川正夫訳であったと思う、そしてこの今読み終った本は小沼文彦という人が翻訳した筑摩版だ」(ノート9:文庫化された原文には「この本は定時制高校に行っている時分」と「最初のほうを読んだ」に傍点あり)

「そして、この私も、ラスコーリニコフを真似たような私も、ドストには縁が深いのだ」(ノート9:文庫化された原文には「ラスコーリニコフを真似たような私」に傍点あり)

「私はとうとう言ってしまった……。――それでいいと念う。若し私が自身の“告白記”なるものを書上げる段階になると、これは必ず前提的条件として記さなければならない、確実に記さなければならない事実であるのだから。

 それは、事件以前に『罪と罰』を読んでいるという事実だ」(ノート10)

「最初から、つまり逮捕された時点で、私が計画的にこの事件を実行したとしたならば、世論は――、私に、そして私の家族の者たちへ同情などしたであろうか? ――多分、毛頭の程も存しなかったであろう。「無知」、これでなければならなかったのだ。この「無知」であろうとする一言的表現に、すべては尽きる。――これらの事柄は、あの逮捕以前の日々考えることのなかに入込んでいた。――そういう風にある程度先を考えた所為もあり、私は馬鹿扱いされても黙っていた」(ノート10)

 「無知の涙」には圧倒された。文学とは、芸術とは、そして、「私」とは。今にこの読書感想文を書いている私がやっていることなど、ただたんに自分の存在を知ってもらいたいという独りよがりな存在証明でしかないのかもしれないと、「無知の涙」を読んで恐ろしくなった。永山則夫の著作は「無知の涙」しか読んでいない。これから、読み進めたいと思う。しかし、その前に、「罪と罰」を読まなければならないと思った。

 「罪と罰」を読むにあたり、初め、永山則夫が手にした「河出版で米川正夫訳」を探した。しかし、容易に入手できないようであった。図書館から借りるという手もあったが、返却期限があるし、なによりも、余白に書き込みをしながら読み進めることができないので、角川版にした。もしかしたら、永山則夫が手にしたものとは、翻訳のヴァージョンなどがなんらかの形で違っているのかもしれない。

 あらすじを上巻から。

罪と罰のあらすじ(上巻)

 学業に挫折し、貧乏に窮しているラスコーリニコフが質屋の女主人を計画的に殺害し、現場にやってきた女主人の妹も、偶発的に、殺害した。殺害に至るエピソードを二、三、拾っておく。ちなみに、当日のラスコーリニコフは、女主人が一人でいる時間が限られていたり、凶器として使用する斧を調達する必要があったりしたため、「急がねばならない」という時間制限的なあせりを持っていた。

●ラスコーリニコフの妹の身売り同然の婚約
 ラスコーリニコフとラスコーリニコフの母親は身売りと信じるが、妹と婚約者は身売りではないと否定する。

●「つまらない安料理屋の無駄話」
 将校と大学生の会話。概要は右記のとおり。「無知で無意味な、何の価値もない、意地悪で病身な婆あがいる」いっぽうで「財力の援助がないばかりに空しく挫折する、若々しい新鮮な力がある」→「一個のささいない犯罪は、数千の善事で償えないものかね?」→もちろんそいつには生きている価値がないが「自然の法則というものもある」→「人間は自然を修正し、指向してるじゃないか」→部屋に戻ったラスコーリニコフは、暗くなっても明かりをつけようともせず、長いすに「まる一時間くらい、身動きもせず腰かけて」、「彼はその時何か考えていたのかどうか、その後どうしても思い出せなかった」。

●語り手によって記述される「ある特殊な点」
 殺害計画が「断固たる性質を帯びれば帯びるほど、彼の目にはますます醜悪な、ますます愚劣なものに」映り、「限りなく悩ましい心内の闘争にもかかわらず」、ラスコーリニコフは「ただの一瞬間も、自分の計画が実現しうるものとは、信ずることができなかった」。しかし、「万事を即座に解決してしまった最後の日は、ほとんど機械的に彼に作用したのである。さながら何者かが彼の手をとって、いやおうなしに、盲目的に、超自然的な力で無理やり引っ張っていくようなあんばいだった」

 殺害を決行したあとのラスコーリニコフは、ほとんど前後不覚状態になり、殺害現場に戻ったり、別件で警察から事情徴収を受けたり、馬車による人身事故に遭遇したりする。ラスコーリニコフを訪ねてきた妹の婚約者を罵倒して追い返し、母と妹に会っても抱擁できずに気を失ってしまったりもする。

 ラスコーリニコフが超した殺人事件の捜査のほうは、容疑者や、質入れ人などの徴収が進む。

 ラスコーリニコフは、予審判事から、ラスコーリニコフが大学時代に書いた論文を持ち出されたりする。ラスコーリニコフが持ち込んだ新聞が別の新聞に吸収合併されて消滅していたため、ラスコーリニコフ自身は存続したほうの新聞に自分の論文が掲載されていた事実を知らなかった。

 論文の内容は、「犯罪遂行の全過程における、犯罪者の心理状態を検討」し「犯罪遂行の行為は、常に疾走を伴うものだと、主張」したものだが、予審判事は「結末の方にちょっと漏らしてあった一つの感想」に「非常な興味を感じ」たと、ラスコーリニコフへ切り出す。論文には、「あらゆる人間が『凡人』と『非凡人』にわかれ」、「あらゆる不法や犯罪」に「対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい」という内容が記載されていたようだ。

 ラスコーリニコフは、予審判事の登場でかえって冷静さと思想的野心を取り戻したところもあり、『非凡人』は、自分の思想が要求する場合にかぎり、「ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている」と主張し、「僕の考えによると」、もしニュートンの発見の発表が特定の人間たちの妨害に遭遇したら、むしろ、妨害者たちを排除しなければならない「義務があるくらいです」と論じたりする。

 ラスコーリニコフの思想によると、『凡人』にとっては、服従は、屈辱ではなくてむしろ遂行することが好ましい使命で、それゆえ(かどうかは一読したかぎりでは判断できなかったが)、服従する義務を持っているほどだが、『非凡人』は「良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることができる」らしい。

 予審判事から「新しきエルサレムを信じていらっしゃるんですか?」と問われたラスコーリニコフは、「きっぱりとした声で」「信じています」と告げる。

 ラスコーリニコフは『非凡人』は「ごくごく少数しか生まれてきません」と弁論し、しかし、それらの人々の「生まれる順序」は、「何かある自然の法則によって」定められていることが証明されているわけはないが、「けれど僕は信じます」と続け、「一定の法則は必ず存在している。また存在しなければならないはずです」と主張する。

 ラスコーリニコフの友人は、「この良心に照らして血を許すということは」(「この良心に照らして」に傍点)、「血を流してもいいという公の、法律上の許可よりも恐ろしい……」と口にする。

 ラスコーリニコフと予審判事のつばぜり合いは続く。

「あなたがあの論文をお書きになった時に、まさかそんな事はないはずに決まっていますが、あなたが自分自身をですな、へ、へ! たといほんのこれっから先でも『非凡人』であり、新しいことばを発する人間だと、お考えにはならなかったでしょうか」(「新しいことば」に傍点)
「あなたは正式に僕を調べるつもりなんですか、すっかり道具立てをそろえて?」

 場面が変わり、ラスコーリニコフは、「おれは前もって知っておかなけりゃならなかったのだ……いや、なに、おれは前もって知っていたんじゃないか!……」と、なぜ自分は犯行におよんだのだと内省する。これは、前記した「ある特殊な点」だと思う。

 ゆめうつつ状態のラスコーリニコフのもとに別の男が現れて、上巻は終わる。

罪と罰の感想(上巻)

 上巻を読んだかぎりでは、「罪と罰」は、『非凡人』うんぬんの机上の論理的命題をあつかった物語ではない気がした。もちろん、織田信長がめちゃくちゃやったおかげで新しい時代が作れたことは事実だが、百歩譲って信長の行いが、適切な例えか否かはおいておいて強引に例えてしまうと、いわゆる「超法規的処置」として是認されるにしても、実績と事後的な承諾が必要になるだろう。ようするに、本人や本人が居合わせた時代の問題ではなくて、歴史解釈の次元の話だと思う。

 そして、何よりも、ラスコーリニコフ自身が、「良心」だとか、「信じる」だとか、「存在しなければならない」だとかいう言葉を使っている時点で、自分の論文が、すでに机上ですら破綻していることに、心のどこかで気がついているような気がした。

 心のどこかで気がついていながら、それでもなお、犯行におよんでしまったという「ある特殊な点」が「罪と罰」のテーマであると、上巻を読んだかぎりでは感じた。

罪と罰のあらすじ(下巻)

 下巻に入ると、妹、妹の婚約者、妹にかつて屈辱を与えた男、ラスコーリニコフの友人などが、現在進行形で活躍するかたちで物語を進めるようになり、同時に、事件は(たぶん容疑者になっている仲間をかばうためだと思うが)別の男が「わっしが……殺しました」と供述したこともありこじれ、さらに立ち聞き、盗み聞きが何度か起きて、何がなんだかわからなくなりそうな時もあった。しかし、そのあたりはできるだけ省略し、ソーニャとの会話でしだいに明確化されていくラスコーリニコフの心にしぼって、あらすじをまとめてみたい。

 ソーニャは、貧しい家計を助けるために「けがれた女」をしている娘で、ソーニャの父親は馬車にはねられて死んでしまう。また、ソーニャは、ラスコーリニコフが偶発的に殺した質屋の女主人の妹と心を通わせていた。

 ソーニャは、教会に行ったことがないラスコーリニコフから、「ラザロの復活はどこ?」と問われ、どの福音書に記載されているのかを空で言える。信仰心が深いと言ってさしつかえないと思うが、ソーニャは自分からラスコーリニコフに福音書を読めと要求したりはしない。「罪と罰」を読んでいる最中は、「罪と罰」も、トルストイの「復活」と同じように、読まれる前、あるいは、書かれる前から、「正解」が、物語世界の外部にあらかじめ存在している(ようするにストーリーをそこへ持っていく)キリスト教小説、というか、教会の内側だけで行われべき(だと個人的には思う)信仰の証(あかし)なのかと思ったが、それはぎりぎりの線で制御されているような気がした。

 話がずれたが元へ戻すと、ソーニャはラスコーリニコフから頼まれて「ラザロの復活」の場所までページをめくった。しかし、「手が震えて声が出」ず、「二度も読みかけたけど、最初の一句がうまく発音できな」い。それでも「ここに病める者あり、ラザロといいてベタニアの人なり……」とだけかろうじて声に出すが、その後に、絶句する。ラスコーリニコフは、ソーニャが絶句する理由がわかるが、それでも朗読を迫る。「ラザロの復活」はソーニャの不幸な身の上と重なりソーニャにとっては口にすることがつらいことのようだが、同時に、「ほかならぬ彼という人間にぜひとも今、あとで何事が起ころうとも!……読んで聞かせたい、聞いてもらいたいという願望が、苦しいまでに彼女の心を圧していた」(「彼」、「今」に傍点)ことを、ラスコーリニコフはソーニャの瞳に感じて、「感激にみちた興奮によって会得した」らしい。二人は「永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦」とのこと。

 ラスコーリニコフは「僕らはお互いにのろわれた人間なのだ。だから一緒に行こうじゃないか?」と告げる。ソーニャは、「何一つわからなかった」が、ラスコーリニコフが「限りなく不幸だということだけは了解した」。

 ラスコーリニコフは「お前もやっぱり、踏み越えたんだよ」、「お前は精神と理性で生きていける人間なんだよ、しかし結局乾草広場で終わる運命なのだ」(「乾草広場」に「センナヤ」のルビあり)と告げ、もし明日自分がここへ来ることができたら「誰がリザベェータを殺したか、お前に言って聞かそう。じゃ、さようなら!」と言い残して去る。リザベェータとは質屋の女主人の妹だ。

 ソーニャは何がなんだかわからないままに、自分自身もラスコーリニコフと同じように正気を失っていることを感じ、「一夜を熱と悪夢の中に過ごした」。「おお、神よ!」。

 ラスコーリニコフは警察へ行って予審判事と会い、二人はきわどい会話をかわすが、別の男が「わっしが……殺しました」と供述し、ラスコーリニコフは警察署をあとにする。

 ラスコーリニコフは、ソーニャに、だれがリザベェータを殺したのかを告げなければならなかった(なぜなら、昨日、自分がそう言ったから)。ラスコーリニコフは恐怖を感じる。しかし同時に、言わないことも、告白を先延ばしにすることもできないことを感じる。しかし、そう思った理由は、頭には思い浮かばない。

 ソーニャと会ったラスコーリニコフは、ひくつになって「あててごらん」などと言うが、最終的に、ソーニャは理解して、「われを忘れたように飛び上がっ」たり、絶望したように叫んだりしたが、急にラスコーリニコフを「両手で固く固く抱きしめた」。

「いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」
「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く! おお、神さま!……ああ、わたしは不幸な女です!」

 しかし、一時の「不幸な男に対する感激と苦痛に満ちた同情の発作」が治まると、ソーニャは、殺人という恐ろしい観念に胸をうたれる。ソーニャはどうしてそんなことをしたのだと ラスコーリニコフを問い詰める。

 ソーニャとのやりとりの中で、しだいに、ラスコーリニコフが自分でもわからなかった心に迫るようになる。

「僕はナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ」
ナポレオンなら「何をちゅうちょすることがあるのか、それさえまるでわからなかったに違いない、とこう考えついた時には、僕はむしょうに恥ずかしくなったくらいだ」
「大学の学資を続けられなくなって、退学しなくちゃならなくなったんだよ」
しかし、もし大学を続けていても、十年か十二年たって、しかもうまくすれば「年千ルーブルくらいの俸給にはありつけるようになるだろう……(彼は暗記したものでも復習するような調子で話した)」、しかし、そのときには母親も妹も救うには手遅れになっている。
「してみると、僕はなんだってものずきに、一生涯すべてのもののかたわらを素通りして、いっさいのものから顔をそむけ、母を忘れ、妹の恥辱を忍ばなけりゃならんのだ? いったいなんのためだ?」
「で、つまり僕は決心したのだ」。「母を困らせないで、大学にいる間の勉強を安全にした上、大学を出てからの第一歩に使おう――しかも、そいつをすべて大きく根本的にやって、ぜんぜん新しい形で社会へ打って出てさ、新しい独立不羈の道に立つ!」(「独立不羈」に「どくりつふき」のルビあり)

 独立不羈とは、他から何の束縛も受けないこと/何の制約も受けることなく、みずからの考えに従って事を行うこと。であるそうだ。

「いま僕はお前に、大学の学資が続けられないと言ったろう。ところがね、ことによったら、続けられたかもしれないんだよ」
「ところが僕は意地になって、働こうとしなかった」
「自分の巣の隅っこへ引っ込んでしまった」
「わかるだろう、低い天井や狭苦しい部屋は、魂も頭もおしつけてしまうものだ! おお、僕はあの犬小屋を、どんなに憎んだかしれやしない! が、それでもやはりそこから出ようとしなかった!」
「ろうそく代をかせごうともしないんだ! 勉強しなくちゃならないのに、本は売り飛ばしてしまい」
「それよりねてて考えるのが好きだった。そして、のべつ考えていた……そしてね、終始いろんな変てこな夢ばかり見ていたのさ!」
「なぜ自分はこんなにばかなんだろう? もし人がみんな馬鹿で、自分がその事を確かに知っているなら、なぜ自分だけでももう少し賢くなろうとしないんだ?」
「そんな時はこんりんざい来やしない、人間はどうにも変わるもんじゃないし、誰だって人間を作りかえられるものでもない、そんな事に手間をつぶす値打ちはない! そうだ、それはそのとおりだ! これが彼らの法則なのだ」
「頭脳と精神のしっかりした強い人間は、彼らの上に立つ主権者なのだ! 多くをあえてなしうる人間が、群衆に対して権利を持つんだ!」「これは今までもそうだったし、これから先もずっとそうだろう! ただ盲目にはそれが見分けられないんだ!」
「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、身を屈することをあえてする人にのみ与えられたのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない――あえてしさえすればいいのだ!」
「僕はただあえてしたくなっただけなんだ」

 ラスコーリニコフは、権力を持っているかと自問する時点で自分に権力がないこと認めなければならず、やるかやらないかで悩む時点でナポレオンにはなれないことを認めなければならない、そういった「空虚な反省の苦しみを」持ちこたえたと語る。そして、母のためでもなく、金と権力のためでもなく、人類の恩恵のためでもなくて、「自分も皆と同じようなしらみか、それとも人間か」、「俺は踏み越すことができるかどうか?」、「それを知らなければならなかったんだ」と語る。

 ナポレオンなら「いっさい何も考え込んだりなどせず」、次の瞬間には殺してしまったに「相違ない!」と思い、「そこで僕も……考え込むのをよして……絞め殺したのだ……権力者の例にならってさ」と言う時点で、自分はナポレオンになることはできないことをラスコーリニコフ自身もわかっており、「権力者の例にならってさ」というのがごまかしでしかないことを自覚していて、それでもなお、「金よりももっと他のものが欲しかったのだ……それは今僕にはみんなわかっている」(「他」に「ほか」のルビ)と語る。

 ラスコーリニコフは、頭でも、心でもわかっていて、それでもなお、やらなければ気が済まなかった、うまく言えないが、何かこう、幻ではないものを、あるいは、幻ではないことを、手にしたかったのではないかと思った。また、「僕はいきなりひと思いに、永久に自分を殺したくなったんだ!」という個所からは、破滅願望のようなものを感じた。なお、ラスコーリニコフは、リザベェータ殺しは問題にしているが、質屋の女主人殺しに関しては、自己の内面の奥深くにまで迫ったこの場面でもなお、「僕はただしらみを殺しただけなんだよ」という発想を持っていたらしい。

 ソーニャは自首を促す。

 ラスコーリニコフは、今言ったようなことは、もし説明したって、やつらには「わかるだけの資格がない」と告げ、「僕はもっと闘ってやるんだ」、「やつらには本当の証拠がないんだ」と続ける。別の男が現れて、ソーニャの母親が「発狂した」ことを告げる。

 どうでもいいことかもしれないが、「罪と罰」では、心理劇が展開される場面を、あえてそこで収集をつけずに、別の人物を登場させて(当事者以外の場所でストーリーを展開させて)いく傾向が強いと感じた。新聞連載小説だったからだろうか。

 もろもろあって、ラスコーリニコフは、結局、自首をした。

 ラスコーリニコフは八年の刑期を言い渡され、シベリアの刑務所へ行く。ソーニャもシベリアへ行く。裁判では、ラスコーリニコフは、「いっさいの原因は彼の苦しい状態であり、赤貧であり、頼りない境遇であると答え」、自首した原因には「心底からの悔悟だと端的に答えた」。

罪と罰の感想(下巻)

 ラスコーリニコフの刑務所生活はエピローグで語られる。

 生活環境は、むしろ学生時代よりも向上したとも言えるほどだが、ラスコーリニコフの心はすさんでいったようだ。ラスコーリニコフは悩んだ。しかし、その結果としても、「犯罪を悔いなかった」そうだ。

 ただ、そんなラスコーリニコフにも変化が起きていたことが、簡単に書かれていた。

 罪を犯した事実が消えるわけでもなく、愛だけがあればよいわけでもなく、福音書に答えが書かれているわけでもない。しかし、ラスコーリニコフとソーニャは更正への道を進む。

 「罪と罰」は、読み終えて、「あとは読者が自分で考えなさい」という形で終わっていると感じた。

 過去も、他人も、社会も、人間は変えることができない。生まれ落ちた環境については言うまでもない。人間は、ただ自分の知らないうちに勝手に生み落とされてしまうだけだ。夢や熱にわれを忘れてもしまうことも仕方がない、何をなすべきなのか、何をなすのか、それを見つけられない場合もあり、自分が他人と違っていてしまうこともどうにもならないのかもしれない。しかし、それでも、人間は生きなければならない。

 よく言われるように、顔が汚れてしまっていることは恥ではない。しかし、汚れたままにしておいてはならない。自分を見つめること、自分を受け入れること、そして、自分自身の今を生きること、そんなことの大切さを、「罪と罰」を読み終えて感じた。


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