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トットひとり/黒柳徹子のあらすじと読書感想文

2015年11月30日 竹内みちまろ

 『トットひとり』(黒柳徹子)というエッセイ集をご紹介します。『小説新潮』などの雑誌に書きためられてきたエッセイが元になっており、2015年4月に単行本が発売されています。

 最初のエッセイ「私の遅れてきた青春について」で、黒柳さんが司会を務めた音楽番組「ザ・ベストテン」(1978年1月〜/TBS/毎週木曜日午後9時)が始まった経緯や人気の秘密が書かれていました。

 同番組は、毎週1時間の生放送で、出演者が最大で1位から10位の10組と多く、ゴールデン枠。黒柳さんは、「司会者は黒柳さんしか思いつきません」と言われて打診されました。冒険的で新しい匂いがあると感じた黒柳さんは、「絶対にウソをやらないで下さい。ランキング方式(出演者を前もって決めておくのではなく、毎週の順位で決めるやり方)でやるというのなら、決して、順位の操作をしないで下さい」と条件を付けたそうです。「ザ・ベストテン」を作ったTBSの山田修爾さんは「約束します」と答え、黒柳さんも後で知ったことが多かったそうですが、その後もずっと、サラリーマンとしてのしがらみの中、その姿勢を崩さずに貫いたそうです。

 山田さんが約束した通り、ウソや操作なしで始まった「ザ・ベストテン」の初回には、人気絶頂の山口百恵さんが出演せず(「赤い絆」が11位、「秋桜」が12位)、「わかれうた」で4位の中島みゆきさんも当時はテレビには出なかったため出演していませんでした。もうひとりの司会者の久米宏さんが「中島さんには出て頂けませんでした」と視聴者に謝罪したとのこと。局の中では、出たくない人がいるなら謝ったりしないで代わりに山口百恵さんを出せばいいじゃないか、との声もあったそうですが、黒柳さんは、出ない人がいた場合に謝るという現象そのものが視聴者から驚かれ、「正直にやる」という姿勢が「瞬く間に受け入れられた」と回顧。視聴者が観たい掛け値無しの本当のベストテンとしての信頼を獲得し、番組は12年間続きます。開始後、視聴率はすぐに20%を超え、最高は41.9%。平均は35%〜40%の間で、1台のテレビで何人かが見ていた時代なので、「日本人の半分以上」が「ザ・ベストテン」を見ていたと振り返っています。

 「ザ・ベストテン」は小学生の時に毎週見ていました。ちょうど、中森明菜さんかチェッカーズのどちらかが1位であることが多かった時期です。それぞれの人に、それぞれの「ザ・ベストテン」の思い出があると思います。

 「トットひとり」を読んで、小学生なのでもちろん、人気歌手やグループを毎週、順位が決定してからキャスティングすることの難しさや、10組を必ず入れ、しかもどんなにスケジュールが狂っても一番最後にくる1位を必ず放送しなければならないという演出の大変さなどは分かっていませんでした。「ザ・ベストテン」では、出場者が地方から生中継で参加したことも多かったことを覚えていますが、電車のホームや空港、ホテルで歌ったりしても、何の疑問も持たずに見ていました。「トットひとり」には、松田聖子さんが「青い珊瑚礁」で初のベストテン入りをした時、札幌から羽田空港に飛行機で到着した聖子さんが、移動する時間がなくて滑走路でそのまま歌ったエピソードなどが記されていました(さらに飛行機が5分早く到着し、滑走路をゆっくり走るなどして、聖子さんが、飛行機から降りてバスに向う搭乗客の波の前で歌うという演出を成功させたそうです)。

 「ザ・ベストテン」が終了した大きな理由は、始まった当初は1曲2分半くらいだった歌が、時が経つにつれて「どんなに短くしても五分はかかる」という曲が出始め、インタビューの時間がなくなり、1時間で10曲をやることができなくなったことだそうです。「ザ・ベストテン」が始まった時が日本の歌が変わる時期だったのと同じように、再び、歌が変わる季節になっていたのだろうと回想していました。

 黒柳さんは、「ザ・ベストテン」の常連だった小泉今日子さんや桑田佳祐さんたちとは今でも親しくしており、「ザ・ベストテン」という番組にみんなが親近感を持っている理由は、「あの番組に係わり合っているのが嬉しい、という感覚が、みんなに、共通してあったせいだろう」と書いていました。今になって、すごい番組だったのだなと実感しました。

 黒柳さんがお芝居の勉強をするためにニューヨークへ留学した話も書かれていました。女学校を出た後、音楽学校に行って声楽を学んだものの歌手にはなれそうになく、また、卒業後のこともあまり考えていなかった黒柳さんは、人形劇でアンデルセンの「雪の女王」を観て感動し、人形劇を自分の子どもたちにしてあげたら「うちのお母さんはすごい!」と子どもたちが大喜びするだろうと考えたものの、人形劇は大変そうなので、絵本を上手に読み聞かせることができるようになりたいと思ったそうです。母親に、絵本の読み聞かせが上達できる所を聞いたところ、「新聞に出てるんじゃないの?」と言われ、新聞を広げると、NHKがテレビ専属女優の募集広告を出していたエピソードが記されていました。「テレビ女優第1号」と呼ばれるようになり、活躍を続けます。

 しかし、学校を出てから15年が経ち、黒柳さんが30代半ばになっていたときに、全然違う何かを吸収したくなったり、創造的であり絶えず刺激を受けていなければならない女優という職業であるにも係わらず新鮮さのない毎日になっていると感じたことを書かれていました。それから、つてをたどってニューヨークに行くのですが、黒柳さんの女優魂といいますか、仕事を休んででも自分を高めたいというプロ意識を感じました。

 ほか、「トットひとり」には、渥美清さん、森繁久彌さん、沢村貞子さんの思い出や、「窓ぎわのトットちゃん」や「徹子の部屋」に関するエピソードもたくさん描かれていました。今なお大活躍の黒柳さんですが、黒柳さんが振り返っていた戦後のテレビ時代は、仕事だからとか、お金をいくら貰えるのかなどではなく、まだまだ貧しくて、何もかもが初めてのことで、みんなで何か新しいひとつのものを作り上げていく熱気のようなものがあったように感じました。そして、黒柳さんは、性格と人間性、そして、仕事や自分の人生に対するウソの無いひた向きが生き方によって、多くの仲間たちと一緒にたくさんのものを作り上げてきたのだなと思いました。


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