読書感想文のページ > 平成くん、さようなら
2019年10月7日
今年29歳になる平成くんは、7年前の東日本大震災の年に書いた卒業論文が、単行本として出版されたことをきっかけに一躍有名人になった。その後も、小説を書いたり、映画やドラマの脚本を手掛けたり、あっという間に文化人としてメディアなどで活躍するようになった。彼が注目を浴びた最大の理由は、平成(ひとなり)という名前にあった。彼は「平成くん」と呼ばれることで、平成という時代を象徴する人物になっていった。合理主義でクール、表情を崩さないロボットのような男であった。
平成くんと2年ほど同棲している瀬戸愛は、突然平成くんから安楽死を考えていると告げられた。愛は、有名な漫画家の父が残した人気アニメに関して、母とともに著作権の管理をしている。肩書はアニメプロデューサーではあるが、父の肩書もあってメディアに取り上げられることも少なくなかった。平成くんと愛の出会いも、雑誌の対談であった。愛の方からアプローチをかけ、一気に距離が縮まって2人は現在同棲している。しかし2年同棲しているにも関わらず、平成くんは性的な接触を好まず、愛との関係を「恋人」と呼ぶことにも抵抗を示すようなところがあった。
それでも、居心地のよい関係を続けていた愛と平成くんであったが、そんな時、平成くんが、平成が終わる頃に安楽死をしたいと言い出したのだった。安楽死が合法化された日本社会において、安楽死を選ぶ人が増えているのは確かであった。愛が平成くんにどうして死のうと思ったのかを問うと、平成が終わることで自分が古い人間になってしまう、そうなる前に自ら死にたい、と平成くんは答えた。その意見を聞いた愛はどうしても納得することができなかった。
愛がいくら反対しても、平成くんは安楽死に向けて、余念なく情報収集や準備を進め始めていた。愛はどうにかして平成くんを説得したいと考え、平成くんが安楽死のために取材している先に同行することにした。安楽死を希望した人に対して、生前に見送る会をして、そのまま目の前で死を見届ける安楽葬を、愛と平成くんは見学することになった。式は愛が想像していたよりも質素なもので、家族や親族に本人が形式的な挨拶をすまし、その後、台の上に横たわった本人に、医者が安楽死のための薬を注射するというものだった。注射した後、ほんの一瞬苦しんでいる様子があり、その様子を見た平成くんはその後、饒舌に安楽死について語っていた。愛は平成くんが饒舌になる時は不安を感じている時だと知っていたので、平成くんの安楽死を止めたいと思いながらも彼の精神状況を心配した。
その後、平成くんは愛の前で安楽死についてあまり話すことはなくなった。愛は、平成くんが、今でも死にたいと考えているのかわからなかったが、そんな時に、2人が家で飼っている愛猫のミライの体調が、徐々に悪くなっていることに2人は気付いた。
食べ物を食べられなくなるまで体調が悪化したミライを動物病院につれていく。愛は医者の反応から残りの余命はわずかだということを悟った。ミライは、愛が小さい頃から飼っていた猫で、愛にとっては大切な友達であった。2人はミライを家に連れて帰り、できるだけ長く過ごせるように懸命に看病をした。翌日愛は外出する仕事があり平成くんにミライを託して家を出た。しかし家に帰ってくると平成くんとミライがおらず、平成くんがミライを動物病院に連れて行ったのかと思い待っていると、平成くんだけが帰ってきた。愛は、ミライについて尋ねると、容態が悪化して苦しむミライを見て安楽死させることにして今火葬してきたところだ、と平成くんは言った。愛は勝手にミライを安楽死させた平成くんが許せずひどく怒り、悲しみに暮れた。
愛が深く傷ついた様子を見て、平成くんは死によって、残された悲しむ人がいるという事を意識するようになる。愛は何を当たり前のことを、と思ったが、平成くんは純粋にその気持ちに気づいたようだった。愛はそんな平成くんに、たとえ誰かが死んでもその人との思い出は忘れたくないということを話した。その話を聞いた平成くんは、突然愛を熱海の山奥の神社に連れて行った。そこは平成くんの家族の思い出の場所だった。愛は平成くんから家族の話を聞いたことがなかった。平成くんの父親は犯罪者で刑務所にいると週刊誌で書かれているのを目にしたことはあった。平成くんの口から、父親が捕まった後、母親は自殺してしまったということが語られた。平成くんは母親の遺骨を持ってきていた。そして、その神社の前で骨を撒いた。そして、自分がいなくなっても、自分の母のことを思い出してあげて欲しいと伝えた。愛は、平成くんに「一緒に何度も来よう」と伝えたが答えは返ってこなかった。
熱海に行ったついでに、平成くんと愛は温泉宿に一泊することにした。そこで二人は恋人のように過ごした。愛は平成くんに対して、本当に死んでしまうのか聞いた。平成くんは愛への感謝の想いを言葉にして返した。翌日、帰る前に2人は海沿いを歩いていた。ビーチバレーのボールが2人に向かって飛んできたが、平成くんは何も反応できなかった。愛が不思議がると、平成くんはショックを隠し切れない様子で、自分が目の病気であるということを愛に打ち明けた。遺伝性の病気で、今も少しずつ病状は悪化しており、将来的には目が見えなくなるということを話す。平成くんが性行為を拒む理由も、もし子どもができてしまったら、目の病気が遺伝してしまうと考えてのことだった。平成くんが安楽死を考えだしたのは、平成が終わるからでもなんでもなく、目の病気が進行していく恐怖からであった。愛はその話を聞いて平成くんに怒りをぶつけた。愛は平成くんに生きて欲しかった。平成くんは愛に対して「僕にもうこれ以上、欲を持たせないでよ」と言い残し、去って行った。
その日から、平成くんは2人の家から姿を消した。そして、平成くんが家に帰ってこなくなり3か月が経った。メディアに出ている平成くんは相変わらず忙しく仕事をしているようだった。愛は何度か連絡をしようとしたが、なんと声をかければよいかわからず連絡できずにいた。もどかしくて悔しくて、愛は平成くんがいない夜を必死で埋めていた。
平成も残り半年を切ったある日、朝帰りした愛の前に平成くんが現れた。平成くんは、愛と喧嘩別れしてからこの3か月で、愛とのたわいのない会話がどれだけ幸せだったのかということに気づいた。平成くんは、愛に幸せな時間を貰っていた分、何も残さずにさよならするのは間違っていると考えた。そこで、平成くんは愛に白い箱を渡した。箱の中には小さなスマートスピーカーが入っていた。そのスピーカーに話しかけると、平成くんの声で、平成くんが言いそうな返事が返ってくるように開発されていた。さらに平成くんは、自分の仕事も数年先の分まで終えており、自分が死んでも誰も気づかないような仕組みを考えていた。話を聞いた愛が、「死ぬのはやめたの?」と聞くと、平成くんは悩んでいると答えた。
平成くんは最後に、スマートスピーカーに一つ機能を付け加えた。愛が声をかけて反応するスピーカーからの発言は、どこかで生きている平成くんの元にも届いて、平成くんも返答できるようにしたのだった。しかし、その声はリアルタイムの平成くんの声なのか、スピーカーに用意された声なのかはわからないようになっているという。つまり、平成くんが、生きているのか、死んでいるのか、愛にはわからないということであった。愛はスピーカーを受け取り、平成くんとの別れを感じた。
そして月日は経ち、平成が終わる最後の日、愛は平成くんではない別の男性と夜を過ごしていた。レストランで料理を食べながら、平成くんから安楽死したいと言われたときのことを思い出した。愛は彼と別れ1人で家に帰った。そして、愛は平成くんからもらったスマートスピーカーに久しぶりに「ねえ、平成くん」と声をかけた。生きているのか死んでいるのかわからない平成くんからは機械のように返答がある。何度かやりとりをして、愛は最後に「平成くん、さようなら」と言ってスマートスピーカーの電源を抜いた。どこか遠くで花火が上がったような気がした。愛は、いつ平成が終わったのかわからなかった。
この作品は、安楽死が合法化している世界の中で、平成の終わりに向かって安楽死することを望む平成くんとその恋人の愛の物語です。平成くんという愛称はインパクトがあって、特に平成から令和に元号が変わる瞬間を過ごした現代の人からすれば、時代を象徴する名前だと思います。作中では、平成を代表するような言葉もちりばめられており、平成を生きた人たちにとっては時代を感じる作品にも思えると思います。「安楽死」という重たいテーマを扱っていますが、文章は軽く、重苦しさを感じることなく読み進められます。少し変わった平成くんと、愛とのやりとりもほっこりするものもあって、温かい気持ちにもなります。「安楽死」というテーマを通じて「死に方」よりも「生き方」を考えさせられる作品だと思いました。
平成くんが安楽死を望み、実際に安楽死を選んだ人を調べていくシーンを読み、不思議とそう考える人がいてもおかしくないなと受け入れられる自分がいました。死に対する価値観は、もしかしたら時代と共に変わってきていて、肉体の寿命と精神の寿命の隔離に悩む人が出てくるのかもしれないなと思いました。技術の発展によって、人が肉体を生存させていくための技術はどんどん発達していくと思います。しかし、肉体は生きていても、精神的な意味で生きることを望まない、死んだように生きている人もいるのかもしれません。そうした人にとって、安楽死という選択はもしかしたら、幸せであり、救いなのかもしれません。
しかし、一方でこの作中では、安楽死を選んだ人の周囲の人の悲しい想いについても考えさせられます。平成くんに死んで欲しくないと伝える愛の気持ちも非常に理解できます。もし愛する人から安楽死を選びたいと言われたら、と考えるだけで辛く複雑な気持ちになります。たとえ、その選択がその人にとって幸せだとしても、すぐに納得できるものではないと思います。死にたいと願っている人に生きていて欲しいと伝えるその行為は、良い事なのか悪い事なのか、考えても、考えても、正解がわかりませんでした。最後、平成くんが残したものは、どう肉体を消すのかという「死に方」ではなく、平成くんが愛の中で生きていく「生き方」を示すものだったのかなと思いました。
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