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うつほ物語のあらすじと読書感想文

2018年7月27日 竹内みちまろ

 現存する我が国最古の長編物語である「うつほ物語」(室城秀之編/ビギナーズクラシックス 角川ソフィア文庫)を読みました。「うつほ物語」から50ほどの場面を選び、現代語訳と原文が掲載され、ストーリーの理解の助けとなる説明と解説が加えられています。あらすじと読書感想文をメモしておきたいと思います。

(1)俊蔭の秘琴伝授の旅

 清原の大君と皇女である北の方との間に俊蔭という男の子がいた。俊蔭は7歳のときに高麗人と詩を作り交わし、嵯峨帝の関心を引いた。

 俊蔭は、12歳で元服し、16歳の時に遣唐使の一員に選ばれた。しかし、唐に着こうとするときに暴風に遭い、船が波斯国に流された。浜に打ち上げられた俊蔭が観音菩薩に祈ると、青い馬が現れ、俊蔭を、清く涼しい木陰に下ろした。そこでは3人の人が虎の皮を敷いて琴(きん)を弾いていた。3人は琴ばかりを弾くので、俊蔭は3人の琴の奏法をすべて習得した。

 俊蔭は、遠くから響く木を切り倒す音を聞き、琴を作るのにふさわしい木だと思い、3年後、その木を求めて西に旅立った。さらに3年かけて、阿修羅のいる山にたどり着いた。

 阿修羅は、この木は天女が天上の音楽を奏でながら植えた木だといい、お前のものになどなるはずがないと怒りを見せたが、竜に乗った童が現れ、3つに分けた木の下の部分は俊蔭に与えると記された黄金の札を阿修羅に与えた。阿修羅が木を切り出すと、天稚御子(あめわかみこ)が天から下りてきて、30の琴を作って、天に帰って行った。天女が下りてきて、琴に漆を塗った。

 秘琴を得た俊蔭は、さらに西へ行き、天人が30の琴のうち2つに「南風(なんふ)」、「波斯風(はしふ)」と名付けた。俊蔭は、浄土の音楽が聞こえる極楽浄土の東にたどり着いた。俊蔭と、7つの山の山人が琴を弾くと、琴の音は仏の国まで届いた。西から仏が現れた。仏は、俊蔭の前世を語り、後の清原仲忠(なかただ)の誕生を予言する。

 俊蔭は、波斯国に戻り、帝や妃に琴を贈る。俊蔭は両親への孝行のため帰国したいと願い出て、帝から許された。

 俊蔭は、23年後に、12の秘琴と共に帰国した。が、両親は既に亡くなっていた。3年の服喪の後、俊蔭は結婚し、娘が誕生する。

(2)俊蔭の娘への秘琴の伝授

 娘が4歳の時に、俊蔭は、秘琴の伝授を始めようと思い、波斯国から持ち帰った12の琴を取り出した。「南風(なんふ)」と「波斯風(はしふ)」の存在は誰にも知られないようにし、それ以外の10の琴のうち、「竜角風(りゅうかくふ)」を娘の琴にし、「細緒風(ほそおかぜ)」を自分の琴にし、「宿守風(やどもりかぜ)」は屋敷に残し、残りの7つの琴を持って参内した。「せた風(かぜ)」を嵯峨帝に、「山守風(やまもりかぜ)」を妃に、「花園風(はなぞのかぜ)」を春宮(朱雀帝)に、「都風(みやこかぜ)」を春宮の女御に、「かたち風(かぜ)」を左大臣の忠経に、「織女風(おりめかぜ)」を右大臣の千蔭に献上した。

【12の秘琴】
・南風:隠す
・波斯風:隠す
・竜角風:娘
・細緒風:俊蔭
・宿守風:屋敷に置く
・せた風:帝(嵯峨帝)
・山守風:妃
・花園風:春宮(朱雀帝)
・都風:春宮の女御(仁寿殿の女御:源正頼と嵯峨帝の姫宮「大宮」との間の長女)
・かたち風:左大臣の源忠経
・織女風:右大臣の橘千蔭

 俊蔭の秘琴に驚いた嵯峨帝は、俊蔭に、春宮の琴の師匠になるよう命じたが、俊蔭は拒み、官位も辞して、三条京極の屋敷に引きこもって、娘に秘琴を伝授する日々を送った。

 娘は美しく成長した。俊蔭は、娘が15歳の年に、妻と相次いで亡くなった。俊蔭は、娘に、容易に人前で琴を弾かないことと、子どもが生まれたら秘琴を譲ることを遺言した。

 時を同じくして乳母も亡くなったため、遺された娘の生活は下向いて行った。

(3)うつほでの秘琴の伝授

 俊蔭の娘が15歳の年の8月ころ、若小君(わかこぎみ/藤原兼雅〉は父である太政大臣のお供として加茂詣でに訪れた際、途中で、俊蔭の娘を見初めた。若小君は加茂詣での帰路、荒れた京極の家に忍び込み、一夜を明かした。俊蔭の娘は、懐妊した。

 若小君の姿が見えなくなったことで太政大臣邸では騒ぎになったが、若小君は翌朝見つけられた。京極が盗人が多く治安が悪い地区だったため、以降、若小君は自由に出歩くことができなくなってしまった。

 俊蔭の娘は翌年、仲忠を生んだ。

 仲忠は幼い頃から母を養い、孝行を尽くしたので、感動した熊から、北山の杉の木の「うつほ」(大きな4の木が上の方で重なり合い、根元のところが空洞のようになって人も住めるようになっている場所)を譲り受けた。うつほの前には1間ほど離れて泉があり、小松がところどころに生え、椎や栗の実が流れてくるので、召使を1人雇ったかのように生活の拠り所を得た感じがした。うつほでは食べ物にも困らないので、俊蔭の娘は、うつほに暮らし、竜角風を仲忠の琴にし、細緒風を自分が弾いて、俊蔭から習った琴を仲忠に伝授した。琴の音を聞いた獣たちが感動してうつほの周りに集まってきた。俊蔭の娘と仲忠の琴の音を聞いた牝猿は感動し、季節の木の実を子猿たちを連れて運んできた。

 仲忠は7歳になり、祖父である俊蔭が持ち帰った7人の山人の奏法をすっかり弾き覚えた。

 草木を食べ、木の皮を着物とする生活だったが、12歳になった仲忠は輝く若者に成長。帝(朱雀帝)の北野の行幸のお供をした父親である右大将の兼雅(若小君)に見いだされ、母といっしょに都に迎えられた。

 仲忠は16歳で元服し、18歳で侍従となった。その年の五節の試みの日には、帝に召しだされ、せた風の琴を弾き、人々を感動させた。

 翌年の8月、兼雅の三条邸で、相撲の還饗(かえりあるじ)が催された。仲忠は、兼雅から琴を弾くように促された。仲忠の琴はすばらしく、左大将・源正頼は、(酒の席での座興ではあるものの)褒美として仲忠に娘(あて宮)を差し上げましょうと告げた。

(4)源正頼とあて宮

 清原俊蔭から、俊蔭の娘、藤原仲忠という3代に渡って秘琴が伝授されると、「うつほ物語」は、藤原氏の女との間の皇子だった御子が臣籍に降下し、源姓となった源正頼(藤原の君)の娘「あて宮」への求婚譚という側面を持ち始める。

 ***

 源正頼は、太政大臣の一人娘「大殿の上」の婿として迎えられ、さらに嵯峨帝の姫宮「大宮」(嵯峨帝の妃腹の一の宮で、現在の朱雀帝の姉)の婿としても迎えられる。正頼は、「大宮」が伝領した三条大宮にある広大な屋敷「三条の院」(「源氏物語」の六条の院のモデルと考えられる)で、2人の北の方(「大宮」と「大殿の上」)とともに暮らす。「大宮」との間には男君が8人、女君が9人生まれ、「大殿の上」との間には男君が4人、女君が5人生まれ、みな、三条の院で暮らした。

 正頼と「大宮」との間の女九の宮「あて宮」は、12歳で成人式にあたる裳着をした。顔立ちが美しく、才気もあり、明るい性格で、思慮分別もあり、大切に育てられた。

 正頼の兄で左大臣・源季明(すえあきら)の長男・実正と次男・実頼は、それぞれ、大宮腹の七の君と、大殿の上腹の四の君と結婚していた。季明の三男・源実忠は、あて宮に思いを寄せていたが、あて宮はいずれは春宮の元に入内するのではと思っていたため、あて宮の父の正頼に直接、願い出ることはせず、あて宮の同腹の姉で兄の結婚相手である七の君に頼んで、恋文をあて宮に渡した。

 源実忠のほかにも、物語には、あて宮の求婚者・結婚相手候補が多く登場する。

【あて宮の求婚者・結婚相手候補】
春宮
源涼
忠こそ(ただこそ)/橘千蔭の子
春宮のいとこの平中納言
嵯峨の院の皇子である兵部卿の宮
藤原兼雅
藤原季英(すえふさ/字は「藤英」)
上野の宮
三春高基
滋野真菅

(5)嵯峨の院の落胤・源涼(すずし)

 嵯峨の院の落胤・源涼(すずし)は、嵯峨の院が帝だったときに女蔵人として仕えていた人を母に持つ。母は死に、祖父の神南備種松(かみなびのたねまつ)という長者に紀伊の国の吹上の浜で育てられていた。涼は、かつて「俊蔭・弥行」と並び称されるほどの名手だった丹比弥行(たじひのいやゆき)から琴を伝授されていた。種松は、涼に帝の御子にも劣らぬ生活をさせたいと思い、涼は都から学問や管弦の師を招いて暮らしていた。涼の名声は都の人々の耳にも届いていた。仲忠は、吹上の涼を訪れた際、京極邸に残っていた宿守風を持参して、涼に贈った。

 吹上に自分の子がいることを知った嵯峨の院は、自ら吹上を訪れ、涼を伴って都に帰った。朱雀帝は酒宴の際、仲忠と涼に琴を弾くことを求めた。仲忠は、藤原兼経が酒宴のために持ってこさせていた「南風の琴」を、涼は、「南風の琴」に劣らない弥行から譲られた「すさの琴」を引いた。すると、天人が、天から下りてきて舞を舞った。(「うつほ物語」の中には、琴を弾いて天地が振動するような場面が何度も出てくるが、天人が舞い降りてきたのはこの場面だけだそう)

 朱雀帝は、仲忠と涼に正四位の位を授け、2人を近衛中将に任じた。涼の祖父・種松に従五位下の位を授け、紀伊の守に任じた。朱雀帝はそれだけでは満足できず、源正頼に、琴を弾いた今宵の禄として2人に与えるにふさわしいものをあなたなら与えることができるだろう、と告る。正頼は、私などがどうして、と畏れると、朱雀帝は機嫌よく笑って、めったにないほど美しい姫がいるので2人に与えるのこれ以上のものはないだろう、といい、朱雀帝は(酒宴での座興だったものの)、涼に「あて宮」を、仲忠に「女一の宮」(朱雀帝の娘)を与えると告げた。

(6)あて宮の結婚

 春宮には、源季明の大君、嵯峨の院の小宮、藤原兼雅の大君、藤原忠雅の大君、平中納言の姫君などがすでに入内していたが、春宮にはまだ御子がいなかった。あて宮が男の子を生めば春宮の次の帝になる可能性があり、仁寿殿の女御(源正頼と嵯峨帝の姫宮「大宮」との間の長女)などに相談しながら、あて宮の春宮への入内が実現した。あて宮は春宮に入内すると、第1御子、第2御子を生んだ。

 仲忠は、朱雀帝の思わく通り「女一の宮」(朱雀帝の娘)と、涼は、「さまこそ(さま宮)」(正頼の十四の君で大宮腹)と結婚。仲忠と結婚した「女一の宮」は、女の子「いぬ宮」を生んだ。

(7)仲忠の蔵開き

 中納言となった仲忠が、幼いころに暮らした京極低を訪れた。京極低は、俊蔭が俊蔭の娘に琴を伝授した場所だったが、荒れ果てていた。仲忠が大きな蔵を見つけると、蔵の扉の鎖に、祖父である俊蔭の名が書きつけられていた。仲忠が蔵を開くと、薬師書、陰陽師書、産経などの書物、香の入った唐櫃などがあった。仲忠は、京極邸を修復した。仲忠は、蔵にあった書籍のことを朱雀帝に報告し、朱雀帝の要請で、俊蔭が秘琴を求めて西へ旅をしたときの詩集や、遣唐使として息子である俊蔭を送り出す際の俊蔭の父親の悲しみが記された詩集などを、読んで聞かせた。

(8)朱雀帝の譲位と、立坊問題

 春宮はほかの妃たちには目もくれずあて宮にもとに居続け、その寵愛ぶりは、朱雀帝から注意をされるほどだったが、正頼は、あて宮が3度目の懐妊をしたタイミングで、ほかの妃たちから恨みを買っていたあて宮を、太政大臣の源季明が亡くなったことを理由に、三条の院に下がらせた。三条の院は、あて宮の里邸として整備された。

 源季明が亡くなり、政界では、藤原氏の勢力が強まっていた。右大臣・藤原兼雅の娘で春宮の妃の梨壺が、男の御子を生んだ。朱雀帝の后の宮で春宮の母は、同じ藤原腹となる梨壺の御子を次の春宮に立てるよう画策を始めた。

 里邸に退出していたあて宮も、春宮の第4御子で、自身の3男となる第3御子を生んだ。春宮からは、あて宮に、早く参内するように催促があったが、あて宮は参内しないまま、宮中での動向を探った。

 8月、朱雀帝が譲位し、春宮が帝となった。新しい春宮は決められなかったが、后の宮の暗躍があり、世間では、梨壺腹の御子の立坊のうわさが広まった。緊張が高まったが、新帝の意志で、あて宮腹の第1御子が春宮となった。あて宮は、新春宮とともに、第2御子、第4御子をつれて参内した。

(9)いぬ宮への秘琴伝授

 仲忠と結婚し「いぬ宮」を生んだ「女一の宮」が、男の子を生んだ。立坊争いが一段落して世の中に平穏がもどると、仲忠は、いぬ宮への秘琴伝授を思い立った。いぬ宮は6歳になっており、伝授の場所に選ばれた京極邸に、東西に2つの楼が建てられた。仲忠は、朱雀院に、秘琴を伝授することを報告し、嵯峨院のもとも訪れた。

 仲忠は、いぬ宮と、自身の母であり俊蔭の娘である尚侍(ないしのかみ)とともに、京極邸にこもった。「女一の宮」は、いぬ宮をとてもかわいがっていたが、伝授の場所となる京極邸に連れて行くわけにはいかないと心に決めた。

 秘琴伝授は、8月から始まり、翌年の8月15日に完了することになった。8月15日当日は、嵯峨院、朱雀院をはじめ正頼、兼雅、あて宮、梨壺、仁寿殿の女御など多くの人が京極邸に集まった。

 嵯峨院、朱雀院の要請で、まず、俊蔭の娘が、伝授の際に最初に習う竜角風を弾き、次に細緒風を弾いた。夜中になって、朱雀院がさらに俊蔭の娘に琴を弾くことを求め、俊蔭の娘は、波斯風を弾いた。俊蔭の娘は、自分に代わっていぬ宮に竜角風を弾かせることを思いつき、奏者が変わったことを告げずに、いぬ宮に竜角風を弾かせた。朱雀院は「琴の調べが変わったようですね」と告げたが、俊蔭の娘は「竜角風を暁の調べで弾いているのです」と奏者が代わったことを悟られないために告げた。

 仲忠はひそかに弾いているのは俊蔭の娘ではないのではないかと気付き、源涼も「おかしい。この竜角風の音色は、暁の調べではあっても、ほかのものと少し違っている。このような音色は、右大将(仲忠)は、これと同じように伝授を受けることはできなかったと聞いているのに」と声に出した。涼の声を聴いた朱雀院も「おかしいぞ」といぶかる。俊蔭の娘は、朱雀院に、実はいぬ宮が弾いているのだと知らせるために、いぬ宮に、「ほんとうに上手にお弾きになりますね」と声を掛けた。朱雀院が驚いて、記帳の帷子を引き上げると、いぬ宮がとても白い顔でかわいらしく弾いていた。

 嵯峨院は、ぜひとも聞きたいと思っていた俊蔭の奏法がいぬ宮に伝授されたことに感動し、高麗笛をいぬ宮の琴に合わせて吹き、「がまんができない」と言いながら立ち上がり、新羅舞を舞い始め、歌を詠んだ。

うつほ物語の読書感想文

 読み終えて、奥が深いなあと思いました。手に取った「うつほ物語」は、「ビギナーズクラシックス」というシリーズの中の1冊で、長い物語の中からストーリーが分かるように場面を抽出して解説などで補足するという形でした。なので、全訳をガッツリ読んだら、もっと長いようです。

 「うつほ物語」には、「俊蔭一族の秘琴の伝授」という側面と、「あて宮の結婚と皇子の立太子争い」という2つの側面があるように感じました。「あて宮の結婚と皇子の立太子争い」では、皇族から臣下にくだって源性を名乗った源正頼を総領とする源氏一族と、藤原氏一族が勢力を争っていました。源氏はあて宮を、藤原氏は梨壺を春宮に入内させており、それぞれが産んだ皇子を春宮に立てようと働きかけます。

 ただ、「源氏物語」を読んだときにも感じたのですが、「うつほ物語」でも、登場人物の多くが婚姻を通してどこかで源氏と藤原氏の双方に繋がっていました。どんなときでもはっきりと「私は源氏支持だ!」、「私は藤原氏支持だ!」と断言できる人は多くはないのかもしれないと思いました。解説にも書かれていましたが、子だくさんだった正頼は娘を藤原氏の有力な若者たちと結婚させて、婿として取り込んでいました。その正頼にしても、「藤原の君」という呼び名があったように、もともとは皇族と藤原氏の女性との間の皇子でした。

 ただ、当時の貴族が源氏と藤原氏しかいなかったわけではなく、「うつほ物語」にも、清原氏や橘氏が登場しています。春宮の妻で男の子を生んだのが源氏の女と、藤原氏の女だけだったと言われてしまえばそれまでなのですが、どこかで源氏とも藤原氏とも繋がっているということは、身近な人が婚姻関係を通じてさらに身近になっていくともいえ、同時にそれは、権力の中枢にいる人間たちがごく少数であり、権力の中枢にはいない/入れない人たちはたくさんいたのかなと思いました。

 「うつほ物語」の背景には、もちろん、律令制度を整えた国家としての日本が前提としてあるのですが、その帝を中心とする日本という国の権力の中枢は、意外と狭い世界の中だけで成り立っていたのかもしれません。権力の中枢の外側にいた人たちや、貴族でも物語に登場しない人たち、もっといえば、都の外側で暮らしていた人たち、農耕や狩りや漁に従事していた人たち、山に暮らした人たちや浜に暮らした人たちなど、たくさんの人がいたと思いますが、そんな人たちは、どんな暮らしをしていたのだろうと思いました。


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