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2007年10月28日 竹内みちまろ
魯迅の「狂人日記」(竹内好訳)のあらすじと読書感想文です。「狂人日記」は、「吶喊(とっかん)」という題がつけられた短編小説集の一番目に収録されている作品です。「吶喊」とは、文庫の訳注を見ると、「開戦に当って両軍の兵士が叫び声をあげること。雄叫び」とありました。「吶喊」には、有名な「阿Q正伝」も収録されています。
短編小説集「吶喊」には、「自序」がありました。「自序」は、「私も若いころは、たくさん夢をみたものである」という文ではじまっています。魯迅が「吶喊」に収められた作品を書くに至った経緯が記されていました。魯迅は、母親の着物やかんざしを質屋に入れては、薬屋に寄って、評判の名医から指示された「つがいのコオロギ」などを買って帰り、病気の父親に飲ませていました。父親は、死んでしまいました。進学した魯迅は、広く信じられている漢方が、一種のかたよりに過ぎないことをさとりました。日本の明治維新が西洋医学に端を発している事実を知ります。魯迅は、官費生として日本の医学校に留学します。魯迅は、帰国して、かたよられた病人とその家族たちを救い、国民の維新への信念を高めることを夢に見ていました。
ちょうど日露戦争の最中でした。魯迅は、スライドを見ました。日本の学生たちは、スライドに喝采しています。居心地の悪さを感じていた魯迅の心を、一枚のスライドが捉えました。なつかしい母国の人間たちが大勢映されていました。ロシア軍のスパイを働いた中国人が縛られています。日本軍による処刑が行われようとしているところでした。処刑を見に来た人たちが取り囲んでいました。縛られた男も観衆も、いい体格をしているのですが無表情だったそうです。魯迅は、「愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいがくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ」とさとります。彼らの精神を改造するためには、医学ではなくて、文芸がまず第一に必要だと感じました。
魯迅は、文芸運動を起こします。同人を集めて文芸誌の発行を試みましたが、雑誌「新生」は発行には至りませんでした。魯迅は、経験したことのない寂寥感に取り付かれました。しかし、魯迅は、自分の身の程を知り、「新生」の失敗は、自分を見つめさせるきっかけとなりました。ただ、魯迅は、この寂寥感だけは「あまりにも苦痛だった」ので、取り除かないわけにはいかなかったと書いていました。魯迅は、自分の魂をマヒさせるために、自分自身も愚かな一人の国民になってしまおうと試みたり、古典に没頭したり、もっと大きな悲しみを体験しようとしたりしました。それは、魯迅にとっては、思い出すに耐えない経験でしたが、とにもかくにも、魯迅は、青年期の寂寥感に沈むことはなくなったそうです。
魯迅は、空き家に住み込んで古い碑文を写すことに自分を埋没させていました。魯迅は、そこではてるつもりでした。そんな魯迅のもとに、古い友人が訪れます。友人は、「こんなものを写して、何の役に立つのかね?」と問います。魯迅は、「何の役にも立たんさ」と答えます。友人は、発行している「新青年」という雑誌に魯迅に寄稿させるために訪れたのでした。魯迅は、窓一つない鉄の部屋の中で眠りについている大勢の人たちに語りかけて何になる、たとえ数人が起きたとしても、その人たちは、不幸にもまもなく窒息死してしまうのだ、だったら、そのまま寝かせておいてあげたほうがいいに決まっているじゃないか、とかみつきました。友人は、「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか」と返します。魯迅は、寄稿を承諾します。それが「狂人日記」だそうです。
「狂人日記」(竹内好訳)は、「狂人」の視点で書かれた日記ですが、日記の前には序文的な文章が加えられていて、ある人が「狂人日記」を手に入れた経緯が記されていました。ある人がいて音信の途絶えていた友が大病をわずらったことを聞きます。故郷に帰るかたわらに見舞いに訪れますが、大病をわずらったのは友の弟で、その弟もすでに回復して任官のために別の土地へ旅立っていました。ある人と友は、勘違いが起こしたそんなてん末に大笑いします。友は、弟が病気をしている最中に書いた日記があるので、病状を知るにはもってこいだから読んでみるようにと渡しました。ある人は、病気が「被害妄想狂」のたぐいであることを知ります。以下に、その日記の内容を記すという感じで、本編に続きます。
「狂人日記」は、「発狂」していく過程が手短に記されることで始まります。日記の筆者は、犬がなぜ自分をにらんだのかにこだわります。用心しなければならないぞと自分に言い聞かせています。次には、人々が、みんなで耳打ちをしながら、自分のことを言い合っていると感じます。なかでも一番に人相の悪いやつが、大口をあけて自分を見て笑ったことを見て、頭のてっぺんから足の先まで、ぞっとしました。「すっかり手はずをととのえたな、と思った」と記していました。筆者は、人々にうらまれるようなことがあったかと考えます。何も思い当たりませんでした。しかし、子どもたちまで、自分を殺したいようなへんな眼つきで見ます。不思議なことだし、悲しいことだし、恐ろしいことだと思いました。筆者は、「そうだ、わかった。親たちが教えたんだ」と書いていました。
筆者は、みんなは、自分を食おうとしているのだと思い始めました。どこかの村では、大悪人をみんなで殴り殺して、そいつの内臓を食べた人がいることを聞いたと記しています。歴史書をひっくり返してみると、どのページにも「仁義道徳」といった文字が詰まっていますが、一晩じゅう研究してみると、字と字のあいだから、「食人」の文字が浮き上がってきたと記していました。筆者は、みんながよってたかって自分を食べようとしているという妄想に取り付かれたようでした。
「狂人日記」では、「狂人」の視点から記された自分を食べようともくろんでいる人々の様子が印象に残っています。
・やつらは仲たがいすると、すぐ相手を悪人呼ばわりする。
・医者を連れてきたり、「気ちがいは見世物じゃない!」と人々を追い払ってくれる兄貴ですら、論文の書き方を教えてくれた時に、善人をけなすと褒めて、悪人を弁護すると褒めてくれた。
・人間を食いたがっているくせに、へんにびくびくして、体裁ばかりを気にして、自分では手をくだせない。
・ばっさりやってしまうのは、やりたくないし、やれないから、みんなで連絡しあって、網をはりめぐらせて、俺を自殺させるように仕向けている
・やつらは死肉しか食えない
・自分では食いたいと思いながら、他人からは食われまいとするので、疑心暗鬼になってお互いに相手を盗み見ている。
・あらかじめ「気ちがい」という口実を俺にかぶせておくことで、自分たちを正当化しようとしている。
筆者は、人を食うようなことはやめて、安心して仕事をして、往来を歩いて、飯を食って、寝たらどんなに気持ちがいいだろうとせつなくなります。でも、ほんの一歩だけ足を踏み出すだけでいいのに、やつらは、親子、兄弟、夫婦、友人、師弟、仇敵、それに他人までもがいっしょになって、お互いに励ましあい、牽制しあって、死んでもその一歩を踏み出そうとしないと記していました。
「狂人日記」の筆者は、一つの疑問に突き当たりました。こいつらは、人を食うことに対してどう思っているのだろうという疑問でした。もしかしたら、人々の中には、食うのが当たり前だと思ってなんとも思っていない人と、食ってはいけないと知りつつも食いたがる人の二種類がいるのではないかと考えていました。筆者の疑問は、兄にも向けられました。兄は、なんで、みんなとぐるになって、自分を食おうとしているのだろう、慣れっこになって悪いとは思わないのだろうか、それとも悪いと知りつつやっているのだろうかと心を砕きます。筆者は、兄を、「やつらは、ぼくを食うんです。そりゃ、兄さんひとりじゃ、どうしようもないでしょう。だからといって、仲間入りすることは、ないじゃありませんか」と問い詰めます。
「狂人日記」の筆者の疑問は、最後には、自分自身に向けられました。筆者は、家族で暮らした昔を思い起こします。筆者の家には妹がいたそうです。妹は五歳の時に、「兄貴に食われた」と書かれていました。兄は、泣き続ける母親に、「あまり泣くな」と言ったそうです。「狂人日記」の筆者は、自分が食ったものだから、気がとがめるのだろうと書いていました。「狂人日記」の筆者は、母親は、兄が妹を食ったことを知っていたのだろうと思います。おそらくは、それを当たり前のことだと思っていたのだろうと書きます。兄が「父母が病気になったら、子たるものは自分の肉を一片切り取って、よく煮て父母に食わせなくては、りっぱな人間ではない」と言った時に、母親は、それがいけないとは言わなかったと回想していました。
「狂人日記」の筆者は、、兄が家を仕切っていた時に妹が死んだ以上は、自分もいつのまにか、こっそりと料理に混ぜられた妹を食ったのかもしれないとさとりました。「狂人日記」の筆者は、自分自身の中にも、四千年も前から脈々と受け継がれてきた食人の歴史が流れていることを知りました。
「狂人日記」(竹内好訳)を読み終えて、一番に印象に残ったのは、「狂人」である筆者が、この人たちはわかっているのだろうかと心を砕く場面でした。疑問は兄にも向けられます。「狂人」である筆者は、兄は、人を食うことが当然だと認識しているのだろうか、それとも、当たり前すぎて人を食っていることがわからなくなってしまっているのだろうか、それとも、悪いと知りつつもやめられないのだろうか、と兄の心を理解しようとします。そして、なぜ勇気を出して人を食わなくても済むようなまっとうな暮らしをするための一歩を踏み出そうとしないのかと、兄に疑問を投げかけます。日記の筆者には、なんでそんな簡単なことがわからないのですか、なんでそんな当たり前のことをしようとしないのですか、という思いがあったのかもしれないと思いました。兄は、そんな筆者に対して、複雑な対応をします。もちろん、筆者は(精神の)大病に犯された患者ですので、兄には、筆者の疑問は、症状が言わせるたわ言としか映っていないことは作品から理解できました。兄と弟であっても、心をわかってもらうことができないかなしさ、心に思っていることを思っているとおりに伝えることができないせつなさというものを感じました。
魯迅は、「狂人日記」を、わかりあえない悲しさでは終わらせていませんでした。「狂人日記」の筆者は、自分も、いつのまにか、人食いの歴史の中に組み込まれていたことを知ります。ここにおいては、「狂人日記」の筆者は、かなしさとか、せつなさとかを通り越して、現実に打ちのめされているような気がしました。「狂人日記」は、せめてまだ人間を食ったことがない子どもはいないだろうかと思う場面で終わっています。魯迅は、希望を提示することができずに、せめて希望はまだあるのだろうかと書くことが精一杯だったのかもしれないと思いました。ただ、四千年来、絶えず人間を食ってきた場所ですので、まだ人を食ったことがない子どもがいても、人食いの歴史の中に飲み込まれてしまうような気もしました。また、たとえ自分では人を食ったことはないと言っている人でも、本人がわかっていないだけで、いつのまにか、人食いの歴史に加担している人もいるのかもしれないと思いました。
「狂人日記」の筆者は、日記を、どうにもならない形で終わらせているような気がしました。魯迅は、じゃあどうすればいいのか、何がどうなれば正しいのか、何をどう思っているのかという思考は、すでに失ってしまっていたのかもしれないと思いました。「狂人日記」は、まさに、雄叫びだと思いました。そして、その雄叫びすらも、(精神の)大病に犯された患者の症状としか映らないという現実を提示しているようにも感じました。「狂人日記」の根底には、青年期から魯迅の中を失うことなく流れている寂寥感があるように思えました。
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