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2010年7月15日 竹内みちまろ
岩波少年文庫に収録されている「ネギをうえた人 朝鮮民話選」(金素雲編)をご紹介します。三十三編の朝鮮民話が掲載されています。一編一編はとても短くて、十分程度で読める分量です。本屋さんに行ったら棚にありました。今までに朝鮮や韓国の文学作品を読んだ記憶が無いような気がしました。興味を覚えて買ってみました。今日は、「ネギをうえた人 朝鮮民話選」から三編を取りあげてご紹介してみたいと思います。
「ネギをうえた人」という話がありました。まだ人間がネギを食べなかったころの話だそうです。そのころは、よく人間が人間を食べていたそうです。お互いが牛に見えたからでした。ある人が自分の兄弟を食べてしまいました。その人は、「ああ、いやだいやだ。なんて、あさましいことだろう。こんなところに暮らすのは、つくづくいやだ。」と旅に出ました。「人間が人間に見える、まともな国」を見つけだそうと心に決めました。ある人は、人間は人間に、牛は牛に見える国にたどり着きました。みんな仲良く暮らしていました。老人から、この国でも昔は人間が牛に見えて間違いが起こっていましたが、ネギを食べるようになってからは人間が人間を食べることは無くなったことを聞きました。ある人は、大喜びで、ネギの種を分けてもらいました。自分の国に帰りました。まっさきにネギの種を植えました。安心して、なつかしい友人をたずねました。誰の目にも、ある人は牛に見えました。「ちがいます。ちがいます。よく見てください。わたくしは、あんたたちの知りあいです。」といくら言っても、「おや、おや。なんてまあ、よく鳴く牛だろう。」、「ほんとうだ。なんでもいいから、早くつかまえてしまえ。」と言われて、その日のうちに食べられてしまいました。しばらくたってから、畑に見たこともない青い草が生えるようになりました。ためしにつまんでみると、いい匂いがしました。ネギを食べるようになってからは、その国でも、人間が人間を食べることがなくなったそうです。ネギをうえた人のことは誰も知りませんが、その人の真心は、大勢の人を幸せにしたそうです。
「物語のふくろ」という話がありました。昔、ある所に、男の子がいました。物語を聞くことが好きでした。聞くたびに、「物語をためておくんだ。」と言って、腰の袋の中に物語を押し込んでいました。男の子は、立派な青年になりました。男の子がお嫁さんを迎えに行く前日に、古い従者が壁にぶら下がっている袋から漏れる話し声を聞きました。「おいみんな、あしたは、あの子どもの結婚式だね。おれたちを、こんなにぎゅうぎゅうおしこんで、おれたちを苦しめたんだから、かたきを取ってやろよ。」と物語たちが悪さの相談をしていました。従者があれやこれやと活躍をして物語たちの悪さを食い止めます。青年は、悪だくみを知らないので、従者を叱りますが、最後の悪さを食い止めた後に、従者がわけを話しました。「だから、物語を聞いて、しまっておいたりなぞしないものです。聞いた話は、つぎからつぎへと、人に聞かせなければなりません」というおちでした。
「あいずの旗」という話がありました。目の見えない老人の話です。おじいさんは、目が見えない代わりに、不思議な力を持っていました。人には見えないオニが見えます。オニを封じる術にも通じていました。オニに苦しめられている人たちを助けます。おじいさんは、みんなから大切にされていました。あるときに、おじいさんは、小僧が背負っているお菓子の山の中に一匹のオニを発見しました。おじいさんは、小僧のあとを追いました。結婚式の時に、お菓子を食べた花嫁が息絶えてしまいました。みんなはうろたえます。おじいさんの登場です。部屋を全部、すみからすみまでふさいでおくようにと言い残して、花嫁の部屋に入ります。若い召し使いが、小さな穴を開けて部屋をのぞいてしまいました。お嫁さんは生き返りましたが、おじいさんはオニを取り逃がしてしまいました。オニは穴から逃げてしまいました。おじいさんの評判は王の耳にも入りました。目が見えないのにオニが見えるはずがない、きっと怪しい術で人々をたぶらかしているのだろうと思います。おじいさんを呼びました。おじいさんの目の前にネズミの死体が置かれました。おじいさんは、これは三匹のネズミですと答えました。王は、怒っておじいさんに極刑を言い渡しました。おじいさんを連れて行かせたあとに、王は、ネズミだとわかったのだからオニが見えるのも不思議ではないなと思いました。それにしてもなんで三匹と言ったのだろうと思って、念のためにネズミの腹を割くと、二匹の小ネズミが入っていました。王は、極刑の中止を言い渡しました。けらいが、やぐらに登ってあいずの旗を振りました。旗は、右で助命、左で処刑となっていました。けらいは、旗を助命の右に振ろうとしました。しかし、にわかに、風がふいて旗を左になびかせてしまいました。おじいさんは、首をちょん切られてしまいました。旗のそばで、いつかおじいさんが取り逃がしたオニが、カラカラと笑っていたそうです。
「ネギをうえた人 朝鮮民話選」から三つの民話をご紹介しました。
「ネギをうえた人」では、親兄弟の間であっても、人間と牛の区別がつかなくなって、みんなけっこう平気な顔をして、けろっとしながら、さも当たり前のように、人間が人間を食べてしまうという設定が、なかなかに興味深かったです。ある人は、そんな状況が嫌になって旅に出ます。でも、ネギを持って帰ってきたある人は、けろっとしながらさも当たり前のような顔をした人たちに、ぺろっと食べられてしまいます。食べてしまった人たちは、誰も旧知の友だちを食べてしまったことには気がついていないような気がしました。みんな、おなかいっぱいになって、家でぐーすか寝ているのでしょうか。ある人の苦悩や人間が人間に見える「まともな国」への願いには誰も気がついていません。ネギのおかげで人間を食べずに済むようになってからも、そんな人たちは、けろっとしながらさも当たり前のような顔をしてネギをおなかいっぱい食べて、人間が人間を食べていたことなどすっかりと忘れて、家でぐーすか寝ているような気がします。
「物語のふくろ」は、ストーリーがうまいなあと思いました。物語を聞いたら一人でため込まないでみんなに話してあげましょうというテーマも鮮やかに描かれています。真相を知らない青年と、真相を知っている従者の間に起こる行き違いも人間の心の根っこの部分をくすぐります。読み終えて、教訓や説教や利害を超えた英知や人間愛とでもいうようなものを感じました。
「あいずの旗」は、悪魔がうすら笑いを浮かべるようなおちでした。目が見えない代わりに人には見えないものが見えるという設定は、古今東西を問わずに、どこにでも有るのだなと思いました。人には見えないものが見えるので、人にはできないことができます。そのために、人々を助けることができます。一方では、気味悪がられて、人々との間に隔たりができてしまいます。王は、なかなかの人物で、激情に駆られることもありますが、自分の目で自分なりに状況を見極める冷静さと、あやまりを認めてただちに修整するだけの器量がありました。「あいずの旗」は、人々や王と、おじいさんとの間に発生した関係性の物語というよりは、特殊な能力を持ったおじいさんと、おじいさんにしか見えない敵との戦いが描かれていたような気がします。周りのみんなと同じようなものを見てオニを見ることの無い普通の人々にとっては、異世界の物語をかいま見たような感じになるのかもしれません。
「ネギをうえた人 朝鮮民話選」には、ここで取り上げた三編のほかにも興味深い作品が掲載されていました。機会があったらご紹介したいと思います。
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