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2005年5月23日 竹内みちまろ
ジッドは、フランスの作家です。厳格なプロテスタントの家庭で育ちました。ジッドは、少年だったころに、従妹が母親の不義を知って絶望にくれる姿を見たそうです。子ども心に彼女を守ろうと思った体験が「狭き門」には反映されているようです。
「狭き門」(ジッド/山内義雄訳)は、それほど長くはない作品です。「狭き門」のあらすじを簡単にご紹介します。青年は、従妹へ愛を打ち明けます。従妹も青年を愛しています。しかし、彼女は青年の愛を受け入れませんでした。従妹は衰弱します。死にました。従妹が死んだ後に、青年に送られてきた従妹の日記により、青年が従妹の心を知るというストーリーでした。2人の恋には、障害はありませんでした。周りの人間は、むしろ好意的に2人を結び付けようとさえします。しかし、従妹には、心の中に、愛を受け入れられない要因がありました。従妹は、日記に書き連ねます。
「まず神の国と神の義とを求めよ」
「人間が近づいていってまちがいのないのは、ただ主のほうだけですの」
「わたしたちは、幸福になるために生まれてきたのではないんですわ」
解説には、「狭き門」は、「清教徒的な克己主義の悲劇」を描いていると書かれていました。日記に書かれた従妹の言葉には、ルターやカルヴァンが求めた(ある種の)厳格さを感じました。この世は試練の場所である、人間的な幸福を求めてはならない、人生の目的は神への愛を貫くことである、……うまく言えませんが、従妹は、目の前にいる人間を見ないで、天空のはるか彼方にいる「神」だけを見ていたように感じました。従妹は、日記に書きます。
「ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうたその路は狭いのです――二人ならんでは通れないほど狭いのです」
従妹は、青年を愛するがゆえに、犠牲となって、狭き門を一人でくぐることを選びました。衰弱死することがなんで犠牲になるかというと、従妹は、自分の存在が青年が神への愛を貫くことの邪魔になると考えたからです。
ジッドは、20世紀を代表する作家である一方で、その評価はまちまちだと、「狭き門」の解説には書かれていました。ジッドの生涯には、ときにキリスト教と決別したり、共産主義への共感を示した時期もあったようです。ジッドの作品は、「彼が人間性の自由を探求し求めて彷徨したその巡礼の途上に打ち立てられた道標である」という見方がされているとありました。
「狭き門」のヒロインは、この世に幸せを求めません。魂の救済すらも求めていないように見えました。ひたすらに「神」だけを見つめています。「清らか」であろうとして、狭き門を一人でくぐりました。その先には何があるのかは、一切、書かれていませんでした。正直に言いますと、「狭き門」はみちまろには手に負えない作品でした。みちまろは、キリスト教を基盤とする社会で育ったわけではありません。いまも昔も、(生活空間の中に)キリスト教が存在する環境で生きたことがありません。生活の身近なところにキリスト教がある人は、「狭き門」は、いろいろなことを考えさせられる作品ではないかと思いました。みちまろが「狭き門」を一読して感じたことは、いわゆるカトリック作家と言われる人たちの小説とは、何かが違うということでした。
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