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怪物はささやく/パトリック・ネスのあらすじと読書感想文

2014年5月22日 竹内みちまろ

 「怪物はささやく」(著=パトリック・ネス/原案=シヴォーン・ダウド/訳=池田真紀子/あすなろ書房)を読みました。シヴォーン・ダウドさん(1960−2007)の未完の遺作を、パトリック・ネスさんが形にし、池田真紀子さんが翻訳して日本の読者の元へ届きました。あらすじと感想をメモしておきたいと思います。

怪物はささやくのあらすじ(ネタバレ)

 イギリスの田舎町に住むコナー・オマリーは、13歳の少年。離婚した父親は6年前に家を出て再婚相手といっしょにアメリカへ行きました。コナーは闘病生活を送る母親と2人で暮らしています。副作用の強い薬を投与している母親は冷凍のラザニアを温めただけで疲れ切ってしまい、コナーは食事の支度や洗濯など家のことも行います。家の窓からは丘の上の教会を見渡すことができ、墓地の真ん中にそびえるイチイの木が見えました。

 コナーは、同じクラスの女の子リリー・アンドルーズとは別の家に住むきょうだい同然に育ちました。母親同士が友だちでした。しかし、1年と少し前、リリーはコナーの母親が重病にかかっていることを何人かの友だちに話します。その日の昼休みにならないうちに学校中に広まり、コナーが近づくとみんながおしゃべりをやめてしまうような空気ができあがります。先生たちですら、コナーになんともいえない表情で接するようになりました。

 コナーは、学校で孤立するようになり、授業中に手を挙げることもしなくなりました。コナーが孤立し始めてから急にコナーを意識するようになった優等生のハリーとしか口をきかないような日もあり、心を閉ざしていきます。ハリーのいじめからコナーをかばったリリーにも「助けなんかいらない」「一人で平気だ」と言い捨て、リリーとも目を合わせなくなりました。

 そんなコナーの元に、真夜中の12時7分、イチイの木の姿を借りた怪物がやってきました。怪物は歴史とともに過ぎた歳月と同じ数の名前を持っているといい、雄叫びをあげます。しかし、怪物よりももっと恐ろしい悪夢を見ていたコナーは、怪物を見ても失望しか感じませんでした。

 しかし、怪物が、3つの物語を話して聞かせる代わりに、3つの物語が終わったときに、コナーが第4の物語を話せといいます。怪物が「おまえは真実を語るのだ」と口した瞬間、コナーは「こいつが“あのこと”を知っているなんて」と戦慄します。

 怪物は、農民の娘を殺して国に平和をもたらした王子の物語/司祭から懇願されても司祭の娘を助けなかった薬剤師の物語/誰からも見えない男が怪物を呼んだ物語を話して聞かせます。

 コナーは授業中に呼び出され、病院へ向かいました。母親が最期のときを迎えようとしていました。怪物がコナーに「真実を話せ」と告げます。

怪物はささやくの読書感想文(ネタバレ)

 「怪物はささやく」を読み終えて、現代社会は、価値観が多様化し、判断基準が細分化していることを実感しました。

 怪物がコナーに聞かせた3つの物語は、どれも複雑な人間の心というものを反映しています。そして、ときに他人からは理解しがたい人間の心というものは、王子は娘を殺したが国に平和をもたらしたというように、現実社会の中で発生する現象に影響を及ぼしていきます。

 もちろん、王子が追放されて女王が国を治めたときに同じように平和がもたらされたり、女王は王子よりも国を繁栄させたかもしれません。ただ、それは仮定の話で、怪物が語って聞かせたのは「もし」の話ではなく、怪物が実際に見て来た「過去(=現実)」の話でした。

 そんな話を聞いたコナーは、「わからないな。この話の善玉はいったいだれ?」と首をひねります。そんなコナーに、怪物は、「物語にはかならず善玉がいるとはかぎらん。悪玉についても同じだ。たいがいの人間は善と悪のあいだのどこかに位置しているものだ」と告げます。

 コナーは、物語というものは勧善懲悪で作られ、何かしらの教訓や救いをもたらすものであると考えていました。しかし、怪物が語ったことは「物語」ではなく、「現実」だったため、勧善懲悪という結果になってはいません。

 「怪物はささやく」の時代背景は、13歳のコナーがパソコンでネットサーフィンをしたり、携帯電話が日常的に使われていますので、現代と考えていいと思います。

 怪物は、「これは実話だ。真実というものはたいがい、ごまかしのように聞こえるものだ」と言います。怪物は、「実話(=現実)」というものは複雑で、同時に、コナーが存在すると信じて疑わない「真実」というものこそが危ういことを伝えようとしているのかもしれないと思いました。

 この読書感想文の筆者は1973年生まれですが、筆者が小学生のころは、小学校の先生は「嘘も方便」ということわざの意味を授業で教える際に、「がんの人に『あなたはがんです』とは言えないでしょ。だから、『嘘も方便』は、嘘はいけないけど、時と場合によってはついてもよいということです」と言い切っていました。もちろん、その時代においては、先生が語ったことはまぎれもない「真実」だったのでしょう。同時に、価値観が多様化し、判断基準が細分化している現在社会では、「がんの人に『あなたはがんです』とは言えないでしょ」という言葉は「真実」として通用するわけではありません。むしろ、怪物が「物語は凶暴だ」とコナーに教えたように、「真実」を信じて疑わない人間が語る「物語」こそが危険ということを反面的に伝えてしまうことすらあります。

 コナーが明かした「第四の物語」に触れて、現代社会が複雑怪奇と呼ばれるのは、人間の心というものがそもそも複雑怪奇だからかもしれないと思いました。社会が発展し、世界が進歩してきた結果、「真実」というものが実は「真実」ではなかったことが明るみになり、その結果、勧善懲悪がもたらす「教訓」や「救い」が役割を終えたのかもしれないと思いました。

 そう書いてしまうと、ならどうすればよいのか? 物語の役割はどうなるのか? 物語の可能性は? などと考えてしまいますが、「怪物はささやく」のラストシーンで、コナーは「行っちゃだめだよ、母さん」「行っちゃいやだ」と母親を抱き締めて声に出します。この、コナーが心の中にたったひとつだけ残された「真実のなかの真実」を口にする場面を読んで、作者のコナーに対する限りないやさしい「まなざし」を感じました。それは、「やさしお」という言葉の他にも、善意や、思いやりなどと表現することもできますが、そういった「まなざし」がある限り、物語は永遠に続くのかもしれないと思いました。


→ 書評「オズの魔法使い」あらすじ&読書感想文


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