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2013年1月31日 竹内みちまろ
2005年に発刊され、ベストセラーになった「国家の品格」。著者は、作家の新田次郎さんと、藤原ていさんの次男・藤原正彦さんです。正彦さんは欧米の大学でも教鞭をとった数学者で、満州からの引き揚げの様子を描いたていさんの「流れる星は生きている」の中では、父親から特に愛され、ていさんに抱かれて朝鮮半島の38度線を越えた3歳の少年として登場します。あらすじと読書感想文をまとめてみたいと思います。
「国家の品格」は、アメリカ式の市場経済原理が席巻する日本の行く末を案じ、戦後の占領政策で品格が失墜した日本に警笛を鳴らす書です。
著者は、人種のるつぼと言われるアメリカでは、論理の応酬だけで物事を決めるほか術がなく、アメリカ式のマネーゲームには、敗者への配慮や敬意は存在しないといいます。著者は30代のころ、アメリカの大学で教え、40代では、伝統や、誠実さや、ユーモアが重んじられるイギリスの大学で暮らすことがありました。イギリスから帰国後、著者の中で論理の地位が低下し、「情緒」や「形」というものの地位が向上します。「情緒」とは、喜怒哀楽のような感情ではなく、「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」で、「形」とは、「主に、武士道精神からくる行動基準」といいます。アメリカ化が浸透した日本人は、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも、下品とも思わなくなりました。進行中のグローバル化とは、世界を野卑な論理で均一化することであり、日本は「情緒」と「形」を取り戻し、グローバル化に抵抗し、世界の中で「孤高の日本」を貫かねばならないと主張します。
現在、すべての先進国が荒廃しています。歴史的に、論理が通っていれば、いかに非道なことでも、人間はなぜかそれを受け入れてきました。ヒトラーのナチ党は、民主的な選挙で選ばれ、アメリカ国民は、アメリカの外でアメリカ兵の血は一滴も流さないと公約しておきながら第2次世界大戦に参戦したルーズベルトを支持しました。
一方で、第1次世界大戦で、アジアで唯一の戦勝国となった日本が、大戦後にパリ講和会議で、本気で提案した「人種平等条約」は否決されます。「自由」「平等」「民主主義」をうたう近代合理精神とは、一見すると論理が通っているように見えますが、その論理が、そもそも仮説から始まっています。従って、どの論理を(どの仮説を)選ぶのかは、主に選択者の「情緒」によります。「情緒」とは、論理以前のその人の「総合力」。情緒力がないのに論理的な人は最悪で、出発点に選んだ仮説が間違っていると(例えば、未開な人間たちに変わって先祖伝来の国を統治してやることはその人たちのためにもなる、など)、その後の論理には完璧に筋が通っているだけに、どこまでも暴走します。
また、「民主主義」「主権在民」には、「国民が成熟した判断をすることができる」という大前提があります。アメリカは、ひたすら戦争を続け、国民がひたすら戦争を許容、支持、熱望し続けています。また、司法ですら国民感情に配慮する現状では、民主主義=世論であり、世論はマスコミによってつくられるので、実質的に、マスコミが司法の上に立っています。歴史的に、ヒトラーをはじめとする独裁者や、軍国主義は、マスコミを利用して台頭しました。
人間にとって最も重要なことの多くは論理的に説明できないといいます。論理的にいうなら、「人を殺してはいけない理由」も「人を殺していい理由(死刑制度など)」もいくつでも挙げることができます。しかし、理屈ではありません。人を殺してはならないのは、「駄目だから駄目」です。「以上、終わり」。「もっとも明らかのように見えることですら、論理には説明出来ないのです」とのこと。
「自由」という言葉は、日本の中世では、しばしば「身勝手」の意味として使われていました。江戸時代、明治のころまでは、日本の教育水準は高く、日本にもエリートがいました。真のエリートは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった「何の役にも立たないような教養をたっぷりつ身につけ」、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持ち、いざとなれば、国家のため、国民のために喜んで命を捨てる気概と、俗世に拘泥しない精神性が求められるといいます。現在でも、イギリスやフランスは真のエリートを育てており、それらの国では、女性スキャンダルはありますが、わいろや汚職はほとんどありません。国民に奉仕する気概のある人間は国民を欺くようなことをしないからとのこと。
日本には、情緒と形を生む条件がすべて整っています。繊細な感受性を育む豊かな自然は、「すべては変わりゆく」というドライな達観から派生し、弱者へのいたわりや、敗者への涙という無常観、さらには、抽象化された「もののあわれ」という情緒になりました。欧米にも「もののあわれ」はありますが、日本では誰でも当たり前に持っているこの情緒は、欧米では選ばれた詩人だけが持っているといいます。また、「家族愛」「郷土愛」「祖国愛」「人類愛」を生む「懐かしさ」の情緒もあります。
もともと、鎌倉時代の戦いの掟だった「武士道」は、「武士道精神」として浸透し、儒教的な家族の絆とともに、培われました。「卑怯を憎む心」や、「親を泣かせる」「先祖の顔に泥を塗る」という考えを生みます。誰も見ていなければ万引きをする(=法律で罰せられないから万引きをする)ような人間はいませんでした。万引きは法律違反だからいけないのではなく、「お天道様が見ている」からしてはならないのです。
美的感受性や、武士道精神に培われた弱者への「惻隠の情」などを身に付ければ、人間の器が多きくなります。外国語を学ぶよりもまず、読書で日本の文学に触れ、日本人が「情緒」と「形」を取り戻すことが、世界平和にもつながります。
『国家の品格』を読み終えて、すっきりしたことがあります。それは、ダメなものはダメということでした。会津藩の武士道でいえば、ならぬものはならぬのです、というやつです。なぜ人を殺してはならないのかは、ダメだからダメ、それでで終わり、なんともすっきりしました。
思えば、例えば、なぜ人を殺してはならないのかという命題(仮説)に対して、権利がどうだ、法律がどうだ、道徳がどうだと論理を重ねて議論することは、もちろん、必要だと思います。でも、子どものころに、「なんで」と問いかけをしたことに、「問答無用にダメだからダメ」と答えてもらった経験は、残念ながら、すぐに思い浮かびませんでした。同様に、自分が大人になってから、「なんで」と問われたとき、無条件に、「ダメなものはダメだから」と答えたこともありませんでした。
著者は、日本でもアメリカ化が進んでいるといいます。確かに、「ブラック企業」という言葉が生まれたように、法制度の網目をぬって何でもやる会社もあるように思えます。いわゆる「ブラック」な職場でなくても、そう決まっているから…、誰々がそう言ったから…、自分は何も言われていないから…、自分は担当者ではないから…、などという論理で、場の空気も、組織の利益も、相手の立場も考えずに、自分に都合のいい論理だけを振りかざす人は多いと思います。自分の考えや思惑を捨て、決まりごとだけに忠実に(=内実は自分の保身だけを考えて)いればいちばん楽だし、波風も立ちません。しかし、心の中に沸いた、それは違うんじゃないか…、どうもおかしいぞ…、という声(著者によると「情緒」や「形」から生まれる行動基準)を無理していると、いつか、自分が持っていたはずの、論理にして説明することはできない「情緒」や「形」までも失ってしまうのかもしれません。企業は、コンプライアンスという論理すらを声高に叫ばなければならないところまで来ていますが、一人一人が、しっかりとしていれば、そもそも、コンプライアンスという言葉を叫ぶ必要はないのではないかとすら思えました。
何が良くて、どうするべきかは簡単に言えることではありませんが、まずは、心を殺して金のためだけに働くのではなく、金はさておくとしても自分がすべてを捧げるに値する仕事を見つけ、それを手にすることができたら、目の前の仕事に全力を傾けることが大切なのではと思いました。すべてを捧げるに値しないような仕事だったら、やはりどこかに無理が出て、悪いと思っていてもみんなやっているからだとか、黙っていればいいやだとか、見なかったことにすればいいやという気持ちも生まれてしまうのかもしれません。自分自身の尊厳を保ち、恥を知り、夢中になって、全力投球できることを見つけることが、自分自身の品格を保つ早道であり、国家の品格を向上させることにもつながるのではと思いました。
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