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2016年5月22日 竹内みちまろ
静岡県静岡市に生まれた望月美由紀さんは、3歳の頃から、片肌を脱いで「この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせねえッ」と時代劇『遠山の金さん』のマネをしていたというやんちゃな子ども。友達がバラエティ番組『オレたちひょうきん族』に夢中になっていた時も『水戸黄門』がお気に入りで、図書館に通っては落語のテープを借りて聴くという個性的な子どもだった。
美由紀さんが中学3年生になった1992年(平成4年)の秋、駿府城公園をメイン会場として「静岡大道芸ワールドカップ」が初開催。世界中から大道芸人やストリートパフォーマーが集まった。美由紀さんは、会場で、初代ワールドチャンピオンに輝いた雪竹太郎さんのパントマイム「人間美術館」を見学した。「人間美術館」は、額縁を手にした雪竹太郎さんが、ロダンの彫刻「考える人」、ムンクの絵画「叫び」などを表現し、ピカソの絵画「ゲルニカ」では観客にもポーズを取らせたという。美由紀さんは「私もこんなふうに人を楽しませたい!」と願った。
高校2年生のとき、美由紀さんは、「静岡大道芸ワールドカップ」の一環として市民クラウンを養成する大道芸カレッジが開催されていることを知り、2期生として講座に通った。
「クラウン」は日本語にすると「道化師」。「クラウン」は「ピエロ」のことではなく、愛されたいと願いながらも、お客さんに笑われてばかりいる「ピエロ」は、「クラウン」の中の役柄の1つともいえる存在。
美由紀さんは、市民クラウンとして「静岡大道芸ワールドカップ」をPRするイベントに参加した。高校を卒業する頃には、プロのクラウンを目指したいと思うようになっていた。医療事務の資格を取り、歯科医院でアルバイトをしながら、クラウンの修行を続け、22歳の時に、本格的にクラウンの勉強をするため、東京に出て1人暮らしを始めた。
東京でパントマイムやクラウンのレッスンを始め、新設されたプロエンターテイナー養成クラスにも通うことになってからは、医療事務とファーストフード店でのアルバイトに加えて、朝から晩までびっしり組まれているレッスンにも通うようになった。慣れないルームシェアも負担になり、頭痛に悩まされ、うつ病と診断された。2003年6月、26歳の時に、静岡の実家に戻った。
6月28日、親友から誘われて、八ヶ岳のコテージに遊びに行くことになった。その旅行のメンバーに、後に夫となる杉山一衛さんがいた。お互いの第一印象は最悪だったものの、一衛さんはバーベキューでは手際よく場を仕切り、火を起こすのも、料理をするのも上手だった。そんな一衛さんの姿を見て、美由紀さんは「この人だッ!」とピントきた。
山梨県韮崎市に住む28歳の一衛さんは、ハウスクリーニングや外食を営む会社で配達や営業の仕事をしていた。24歳のときに腎不全を発病し、週に3回、夜間に人工透析をしていた。
バーベキューの翌日、一衛さんが美由紀さんたちを、一衛さんの友人の送別会に誘った。送別会で急遽、美由紀さんが、パントマイムを披露した。美由紀さんが一衛さんに「メルアド、教えてもらえますか?」と声を掛けた。一衛さんは、一生懸命パントマイムをする美由紀さんに「人を楽しませたい」という自身と共通する思いを感じていたそうで、快く応じた。
山梨県と静岡県に住む2人の交際が始まった。半年後には交際は終わってしまい、美由紀さんが妹と一緒にワーキングホリデイを利用してカナダに行った。一衛さんが、美由紀さんがインターネットを利用して公開していた日記を見つけ、美由紀さんが仲間たちに出した一斉メールに、一衛さんが返信した。
美由紀さんはカナダから帰国し、一衛さんと6年ぶりに再会した。交際が再び始まった。美由紀さんは、一衛さんから「あのとき別れようって言ったのは、やっぱり病気のことが心配だったからなんだ」などと明かされた。一衛さんは、日常生活に制約が多く、合併症を引き起こすリスクも持っていた。一衛さんは「健康な人とつきあったほうがいいんじゃないだろうか」と美由紀さんを気づかっていたのだ。再会した2人は、お互いにかけがえのない人であることを話した。美由紀さんは、一衛さんを改めて尊敬し、一衛さんを支えていくことができるようになりたいと思った。
静岡と山梨に住んでおり、会える回数は少なかったものの、デートの日は、一衛さんの趣味のラーメン屋巡りをしたり、ミュージカルを見に行ったりした。冬には、美由紀さんが一衛さんのためにマフラーや帽子を編み、再会して1年の記念日には、美由紀さんは、流行っていたオシャレなステテコをプレゼントした。
「きっと彼と結婚するんだろうな……」と感じていた美由紀さんが、このままではずるずると時間ばかりが過ぎてしまうと焦るようになってきた頃、一衛さんが「首のところが腫れてきたんだ」と不調を訴えたことがあった。
お互いの両親へのあいさつも済ませ、美由紀さんは仲間たちの助けも借りて、一衛さんにプロポーズさせることに成功。2011年2月2日、「いいふうふ」に成りたいとの願いを込めて、婚姻届けを提出した。しかし、提出の前日にも、一衛さんは発病していた。年末頃から、体のだるさを訴える回数も多くなっていた。
2011年2月12日、2人は結婚式を挙げた。家族や仲間たちが趣向を凝らして式を盛り上げ、美由紀さんの妹は、カナダで親しくなった人たちからのビデオレターも用意していた。愛とサプライズに満ちた手作りの結婚式からの帰りに、一衛さんが再び39度の高熱を出した。
美由紀さんが看病するも、一衛さんは自力では歩けなくなっており、一衛さんは友人たちの助けを借りて車に乗せられ、2月22日に静岡市内の病院に入院。4月1日、一衛さんは36歳と2か月の生涯を閉じた。
一衛さんが亡くなってから、美由紀さんはクラウンの仕事を再開した。医療事務の講師をして生計を立てるという選択肢もあったが、「毎日を生きていくうえで笑顔がどれほど大切かということを伝えていきたいと思ったのだ」。
「泣き虫ピエロの結婚式」を読み終えて、一衛さんが亡くなった後に、美由紀さんがクラウンの仕事を再開したことが印象的でした。
美由紀さんは、仕事として、人を笑顔にするクラウンをしていました。しかし、仕事とは別に、うつ病にかかっていたときには、「もしかしたら、クラウンじゃないときも、顔の準備運動をすれば効果があるのかもしれない」と感じ、鏡を見て「つくり笑い」をすることを始め、笑顔を作り続けることで、うつ病を克服していました。
日常生活でも、美由紀さんは、サプライズを演出したりしていました。一衛さんにプロポーズさせることに成功した時は、一衛さんを庭園に連れ出し、施設に勤めていた知人に協力してもらって、さり気なく音楽を流してもらう手はずを整えたりしていました。実際には全てが計画通りに進んだわけではなかったのですが、プロポーズ作戦がいったんは失敗してしまったことも、同書を読み終えたあとでは微笑ましいエピソードだと思いました。
2人の披露宴は、一衛さんの弟が撮影、編集した映像が巨大なバルーンに映し出されることから始まっていました。そして、2人はなんと、そのバルーンの中からサプライズで登場していました。バルーンは、美由紀さんがクラウンの仕事でお世話になっている会社に頼んで、特別に仕込んでもらったものでした。一衛さんは、披露宴の最後に、「有難う」という言葉は「有る」ことが「難しい」と書くことに触れ、「結婚のご報告を、皆さんが我がことのように喜んでくださいました。そう有ることは難しいことだと、心から感謝しています」などとあいさつしていました。
美由紀さんも、一衛さんも、家族や友人達も、人を喜ばせたり、サプライズを用意したりなど、人に笑顔を届けることが好きな人たちなのだなと思いました。そして、結婚式からわずか数日で始まった病院での一衛さんの闘病生活の中でも、美由紀さんは、「そうか……私の笑顔を伝染させればいいんだ! クラウンとして子どもたちに接しているみたいに!」、「私はようやく気がついた。『笑ってごらん』じゃなくて、私が笑えば良かったのだ」と思い、「これからはいつも笑顔でいよう、そうすればきっと、かずくんも笑ってくれる。そして彼の『生きたい』という気持ちを奮い立たせるんだ……」と決心し、「もう絶対に、彼の前では不安そうな顔をしない。いつも笑っていようと自分自身と約束した」とも。
楽しいことを計画したり、サプライズを仕掛けたりということは、「演出」というマイナスのイメージを持ったり、恥ずかしかったり、面倒くさかったりしてやらない人もいるかもしれません。そして、どんなに辛い時でも笑顔であり続けることは、簡単にはできることではないと思います。
でも、美由紀さんも、一衛さんも、みんなに笑顔を届けていた人だったからこそ、2人の周りには、家族や仲間達が集まっていたのだと思います。
「泣き虫ピエロの結婚式」を読み終えて、人に笑顔を届けられる人は、かけがえのない人だと思いました。
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