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1973年のピンボール/村上春樹のあらすじと読書感想文

2012年3月13日 竹内みちまろ

1973年のピンボールのあらすじ

 『1973年のピンボール』の主人公の「僕」は、「十年も昔」に故郷や出身地の話を聞いて回ったことがあります。みんな熱心に語り、「僕」は真剣に聞きました。「誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた」と「僕」は語ります。

 「僕」が話を聞いた中に、「土星生まれ」で「ある政治的なグループに所属」する大学生がいました。せりふの描写からすると大学生は吃音者のようですが、「気持ち良く晴れわたった十一月の午後、第三機動隊」が突入した伝説の九号館で、土星生まれのその大学生に、もっと暮らしやすい星だってあるのになぜみんな出ていかないのかを尋ねます。大学生は「わからないね。多分生まれた星だからだろう」と答えます。「とにかく遠く離れた街の話を聞くのが好き」だった「僕」は、そういった街を貯め込み、「遠くの、そして永遠に交わることもないであろう人々の生のゆるやかな、そして確かなうねりを感じることもできる」といいます。

 また、「僕」は、「いつだってゆっくりと、そして正確な言葉を捜しながらしゃべった」「直子」と2人で、周囲から距離を置いた2人だけの世界を作りながら、「僕」と「直子」が20歳になった1969年の春に、「プラットフォームの端から端まで犬がいつも散歩してる」駅の話を聞きます。

 目を覚ますと「僕」の両脇に双子の女の子がいました。「僕」は「直子」が消えたあとも「直子」が一人で笑った顔が消えず、1973年の5月に、「僕」は一人で、犬を見るために、「その駅を訪れ」ます。しかし、「犬の姿は見えなかった」。「僕」は、帰りの電車の中で、「全ては終っちまったんだ」「もう忘れろ」「そのためにここまで来たんじゃないか」と自分に言い聞かせます。しかし、「直子を愛していたことも」「彼女がもう死んでしまったことも」、結局は何ひとつ終わっていなかったため、忘れることができませんでした。

 金星生まれのもの静かな男は、金星人は早死にする分、生きているうちに愛しておくので「たとえ今日誰が死んだとしても僕たちは悲しまない」と「僕」に告げました。「そうでもしなければ、金星は悲しみで埋まってしまう」

 「小説」は、お互いに700キロも離れた街に住んでいた「僕」と「鼠と呼ばれる男」の話。「一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない」

 ***

 1972年の春に、友人と2人で渋谷から南平台へ向かう坂道のマンションを借りて、「僕」と友人は翻訳事務所を開きます。繁盛し、女性事務員を雇いました。「僕」は仕事が終わると双子が待つアパートに帰るという生活をしていました。「何ヶ月も何年も、僕はただ一人深いプールの底に座りつづけていた。温かい水と柔らかな光、そして沈黙。そして、沈黙……」「僕は自分が本当に遠くまで来てしまったんだと実感する」

 1973年の秋、「大学を放り出された」「金持ちの青年」である鼠は、ジェイズ・バーのバーテンで中国人のジェイを相手にビールを飲んでいました。鼠は、「三年ばかり前」に大学を去ってから「時の流れがその均質さを少しずつ失い始め」ていました。「夏のあいだに休暇で街に帰っていた数少ない彼の友人たちは、九月の到来を待たずに短い別れの言葉を残し、遠く離れた彼ら自身の場所に戻っていった」

 「僕」と「鼠」がジェイズ・バーでビールを飲み続けていた1970年、バーには「スペースシップ」というピンボールがありました。「僕」は「僕だけが彼女(=スペースシップ)を理解し、彼女だけが僕を理解した」と語ります。スペースシップは、「あなたのせいじゃない」「あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない」と「僕」をなぐさめます。「僕」は「違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ」と答えます。スペースシップは「人にできることはとても限られたことなのよ」とさらになぐさめます。「僕」は「でも何ひとつ終わっちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ」となお、こだわります。スペースシップは「終わったのよ、何もかも」と言います。

 やがて、ジェイズ・バーは閉店し、チェーンのドーナツショップになります。「僕」は、スペースシップの行方を、業者やピンボールマニアの助けを借りて見つけ出し、倉庫に並べられたスペースシップを発見します。「僕」は、「こんな風にして彼女と会いたくはなかった。彼女にしたところでそうだろう……おそらく」と思います。「僕」はスペースシップに、「やあ」と語りかけ、ガラス板に手をのせます。スペースシップは「やっと目覚めたように僕に微笑」み、「ずいぶん長く会わなかったような気がするわ」「寒くない?」「何故来たの?」などと質問します。「僕」は「君が呼んだんだ」と答えます。

 「僕」は、「僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた」と感じます。スペースシップは「もう行った方がいいわ」「会いに来てくれてありがとう」「もう会えないかもしれないけど元気でね」と告げます。「ありがとう」と告げた僕は、電源を切り、扉を後ろ手に閉める間、一度も振り返りませんでした。

 ジェイは、鼠に、「問題は、あんた自身が変わろうとしていることだ」と告げました。鼠は女と別れ、「これで終わったんだ」と思います。ジェイに「街を出ることにするよ」と告げます。「霊園」の林の中で、鼠は、あらゆる言葉を失くし、「これでもう誰にも説明しなくていいんだ」「いや、もう何も考えたくない」などと思います。

 「ピンボールの唸り」が「生活からぴたりと消え」、「そして行き場のない思いも消えた」「僕」は、耳が聞こえなくなり耳鼻科へ行きました。双子は「もとのところ」へ「帰る」と言いました。「またどこかで会おう」と双子を送り出すと、「僕」は一人で部屋に戻り、窓の外を眺めます。「何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった」

1973年のピンボールの読書感想文

 「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」で始まる『1973年のピンボール』ですが、読み終えて、「何人もの人間が命を絶ち、頭を狂わせ、時の淀みに自らの心を埋め、あてのない思いに身を焦がし、それぞれに迷惑をかけあっていた。一九七〇年、そういった年だ」という文が心に残しました、1970年、あるいは69年に何が起きたのかは、けっきょく最後まで語られませんでしたが、「僕」にとってはとてつもなく大きなことがあったのではないかと思います。また、すでに『ノルウェイの森』を読んでいるからですが、回想の中に登場する死んでしまった女性「直子」も登場します。しかし、直子についてはほとんど何も語られません。また、「僕」がこだわっていることが、はたして直子と関係することなのかも不明です。でも、愛していた存在、死んでしまった存在、つまりは、取り返しのつかない存在として、大きな存在感を示していました。『1973年のピンボール』は『ノルウェイの森』のモチーフになっている作品なのかもしれないと思いました。

 『1973年のピンボール』から印象的な個所をピックアップしてみました。

「多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めていた」

「どんなものにも価値も意味も方向もないように思える」

「何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるのか?」

「様々な夢があり、様々な哀しみがあり、様々な約束があった。結局はみんな消えてしまった」

「二十四年間、すぐに忘れてしまえるほど短い年月じゃない。まるで捜し物の最中に、何を捜していたのかを忘れてしまったような気分だった。いったい何を捜していたのだろう?」

「僕は体じゅうの傷を二人(=双子)に見せた」、サッカーでつくった傷、自転車でつくった傷、「そして叩き折られた歯……」

「無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ」

 双子との会話も、ときに味わい深いことがありました。双子が体の隅々が石のように硬くなる病気にかかった猫の話をする場面があります。「僕」は「死なせたくない」とため息をつきます。双子は、「気持ちはわかるわ」「でもきっと、あなたには荷が重すぎたのよ」となぐさめます。「僕はあきらめてコーヒーを飲んだ」という展開をします。文脈の上では、「僕」と双子の会話はかみあっておらず、作品の内側で提示された情報の範囲内では、論理的整合性を見出すことができません。でも、「でもきっと、あなたには荷が重すぎたのよ」という双子のせりふは、「僕」がこだわっている何かに関係しているような気がして、作品の内側では語られない「僕」の物語の存在を感じました。

 『1973年のピンボール』を読み終えて、「僕」は自分の中で止まってしまっている時間を、必死になって進めようとしているのではないかと思いました。そのために、何かを探して、何かにけじめをつけて、前に進もうとしていることを感じました。翻訳事務所で働く「僕」は、決められた時間の中で決められた仕事をこなし「アウシュビッツヴィッツでならきっと重宝がられたことだろう」と語ります。続けて、「問題は、と僕は思う、僕に合った場所が全て時代遅れになりつつあることだった。仕方のないことだと思う。なにもアウシュビッツヴィッツや複座雷撃機に遡るまでもない」と語ります。もちろん、「僕」に限らず、読者のすべてが、「アウシュビッツヴィッツや複座雷撃機」に遡る必要などないことは理解できます。同時に読者は、そんな誰にでもわかことをあえて語る以上は、「僕」には、「アウシュビッツヴィッツや複座雷撃機」ではない「僕」自身にかかわる過去の出来事にこだわっており、そのために、「僕」の中で時間がとまってしまい、「僕」は時計を進めることができず、「僕」は苦しんでいることを感じると思います。同時に、「アウシュビッツヴィッツや複座雷撃機」はわざとらしいのですが、「B52」とか「叩き折られた歯……」などは別に意味でわざとらしくて、「僕」は、学生運動やベトナム反戦運動らの中で何かがあったのだろうと思うのではないかと感じました。

 「僕」が翻訳事務所で働く女性事務員と食事をする場面がありました。事務員は「あなたは二十歳のころ何をしてたの?」と聞きます。「僕」のせりふの番には、

「『女の子に夢中だったよ。』一九六九年、我らが年」

 と書かれています。「女の子に夢中だったよ」などとニヒルに語りますか、「一九六九年、我らが年」という地の分が、それ以上の何か、それとは別の何かの存在を感じさせます。

 また、「僕」のニヒルな答えを聞いた彼女も、そんな「僕」に何かを感じたのかもしれません。「幸せだった?」「寂しくないの?」などと質問を向けます。僕は、「欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。わかるかい?」「三年ばかり前にそれに気づいた。そしてこう思った。もう何も欲しがるまいってね」と、「僕」の核心に迫りそうなことを語り始めます。女性は「一生そんな風にやっていくつもり?」と尋ね、「おそらくね。誰にも迷惑をかけずに済む」と「僕」は答え、女性は「本当にそう思うんなら」「靴箱の中で生きればいいわ」と告げます。「僕」は、「素敵な意見だった」と語ります。いよいよ核心に迫るのかと思いますが、この場面は、2人が店を出ることで終わり、女性は「本当に寂しくないの?」ともう一度聞きますが、「僕がうまい答を捜しているあいだに電車がやってきた」と展開します。「僕」も女性も、現在の「僕」ではいけないことを感じており、何とか前にすすまなければならないことを知りますが、ストーリーは2人にそれ以上の話をさせません。時間切れを利用して、核心に迫る物語はその存在だけが提示され、内容は語られない形で終わってしまいました。

 「僕」がスペースシップと再会する場面は、心に染みました。「僕」はピンボール台の間をゆっくり歩いたり、ピンボール台の数をていねいに何回も数えたりします。「ひどく寒い」などと口に出してみます。「ピンボール……ピンボールだ。そのためにここまで来たんじゃないか。寒さが頭の動きまでを止めてしまいそうだった。考えろ」。鼠も自分自身に「考えろ」と投げかけていましたが、スペースシップと再会した「僕」は「こんな風にして彼女と会いたくはなかった」と思います。しかし、「僕」の中では時間が止まっていても、「僕」の外側に広がる世界では時間は流れています。だから、「僕」も時計を進めなければならないのかもしれませんが、そのことを本能的に感じた「僕」は、スペースシップを捜し出し、スペースシップと再会し、自分自身の心の中にある何かにけじめをつけたかったのではないかと思いました。

 最後まで読み終えても、「僕」の時間の流れを止めてしまった「僕」の心の中にある本当の物語は語られませんでした。でも、そんな「僕」がスペースシップと再会することを通して時計のはりを進める物語を描き切っているために、「1973年のピンボール」は味わい深い作品になっているのだと思いました。


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