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2007年10月9日 竹内みちまろ
「愛人/ラマン」(マルグリット・デュラス/清水徹訳)のあらすじと読書感想文です。
一九二九年の仏領インドシナ(ベトナム)が舞台です。十五歳のフランス人少女がヒロインです。資本家の息子である中国人青年と出会います。二人は情事を重ねるようになりました。「愛人/ラマン」のストーリーの基本軸は、少女が十五歳の時に青年と出会ってから十七歳の時にフランスに帰るまでの物語です。「愛人/ラマン」の中では、ヒロインの三歳上の兄が六十五歳ほどで死んだことも語られています。「愛人/ラマン」は、人生を積み重ねてきたヒロインによって語られる回想の物語のようです。
「愛人/ラマン」では、ヒロインの母親が三歳上の兄を自分と同じ場所に埋葬してほしいと頼んでいたことが紹介されていました。二歳上だったもう一人の兄は若いころに死んでいました。ヒロインは墓地の場所は忘れてしまっていましたが、母親と三歳上の兄が同じ墓に入っていることが語られました。母親は、三歳上の兄のことを、その気になれば一番の芸術家になれた子、私を一番に分かってくれた子、私を一番に愛してくれた子と偏愛していました。語り手は、「彼らふたりだけ。それは正しい。この映像は耐えがたい壮麗さをもって輝く」と感慨していました。「愛人/ラマン」は、語り手であるヒロインの心に残っている「映像」をたどりながら、つむがれる物語でした。
ヒロインは、初めて中国人青年と情事を重ねた時に、「縫ったストッキングをはいた女の幻像が部屋を横切った」と回想していました。母親は、暑い南国でもフランス式にストッキングをはいていました。また、「年若い暗殺者」の影もきっとこの部屋を通りぬけていったに違いなかったと回想している場面もありました。年若い暗殺者とは三歳上の兄のことですが、少女でしかなかったヒロイン自身は、「わたしはまだそれを知らなかった」と語っていました。少女が二歳上の兄の話を持ち出して、中国人青年を欲情させる場面もありました。ヒロインは、「わたしは彼に、その年若い狩人の身体のことを話した、そのセックスのことも、その言うに言われぬ滑らかさを、黒豹の待ち伏せする森や河でのその狩人の勇敢さを」と回想していました。年若い狩人とは、ヒロインの二歳上の兄のことです。「年若い狩人」のエピソードは、母親が買った払い下げ地のバンガローでの思い出の中に登場します。解説には、善良ですが世間知らずの未亡人で庇護者のない母親は、役人を買収することを知らずに、耕作不能な土地を買わされていたことが紹介されていました。しかし、そんな不幸も、ヒロインにとっては、「狩人の夜の子供たちの暗殺者に眼のまえにいられるよりはましだった」そうです。三歳上の兄はフランスの学校に行かされており、家族とは離れていました。母親と二歳上の兄とヒロインは、三人でヴェランダに出て森を眺めます。ヒロインは、自分と二歳上の兄は「大きくなってしまったので、もう川がいくつもの小さな急流になって海に流れ落ちるところで水浴びをすることもないし、河口の沼地に黒豹狩りに行くこともない、もう森にはいりこむこともないし、胡椒畑のひろがるあちこちの村に遊びに行くこともない」と感慨します。母親はまゆをひそめていましたが、ヒロインと二歳上の兄は、インドシナの人々と区別がつかないくらいに日に焼けて、米や魚しか食べずに、インドシナの地を裸足で駆け回っていました。しかし、そんな時間はすでに終わっていたようです。いつしか、「わたしたち兄妹も奇怪な何ものかに犯され、母に取り憑いたと同じ緩慢さがわたしたちにも取り憑いてしまった。じっと森を眺め、待ち、涙をこぼす、そうやって何ごとも学ばなかった」日々に変わっていきます。ついには希望が放棄されます。ヒロインは、「ヴェランダの日陰で、わたしたちはシャムの山なみを、白昼でもとても暗い色の、ほとんど黒々とした山なみを、じっと見つめる。母親はようやく冷静となり、内にこもっている。わたしたちはけなげな子供たち、絶望した子供たちである」と回想していました。
「愛人/ラマン」では、クライマックスが印象に残っています。フランスに帰る途中での出来事でした。ヒロインは、十七歳でした。船は大海原を渡り、船内は寝静まっています。ヒロインにとって、「いくたびもの夜また夜のなかに溶けこみ見失われてしまった夜」であったことが語られます。星のきらめく空の下でショパンのワルツが鳴り響きました。ショパンのワルツは、ヒロインの心には、「何かしらに関する天からの厳命のように、内容の知れぬ神の命令のように」響きました。ヒロインは、中国人青年を愛していなかったことに確信を持てなくなります。ヒロインは、愛は確かに存在していたのですが自分にはそれが見えていなかったことを見出します。ヒロインは、涙を流しました。
ヒロインの中国人青年への愛は、ヒロインの家族への愛情と憎悪の屈折した表れのようにも思えました。ヒロインは、母親を愛して、二歳上の兄を愛して、三歳上の兄を憎み、自分にはこの家族をどうすることもできないことを悲しみ、この家族はどうにもならないことに絶望していました。母親や兄たちへの愛情と憎悪も単純なものではないように思えました。ショパンのワルツが聞こえた瞬間に、ヒロインには何かが起きたのだと思いました。ヒロインの中で、何かが死んで、同時に、何かが生まれたのかもしれません。ヒロインは、愛情も、憎悪も、そして、自分自身の存在すらも吸い込んでしまう砂漠を見たのかもしれません。それは言葉では説明することができる現象ではないと思いますが、そんな瞬間を体験してしまった人間は、もはや、それまでとは同じようには生きることができないのではないかと思いました。
「愛人/ラマン」では、フランスにたどり着いてからのヒロインの軌跡も語られていました。最初のユダヤ人の夫は強制収容所に送られていました。二歳上の兄がサイゴンで死んだときには、ショパンのワルツを聞いた時と同じような体験をしたことも紹介されます。個人の問題の政治による解決を信じて共産主義運動に参加していた時期があったことも語られています。離婚を何回か経験して、本を書き始めていました。仏領インドシナで育った少女と、フランスに帰ってからのヒロインは、別人になっていると思いました。
「愛人/ラマン」の冒頭で、ヒロインが、十五歳の少女だったころの自分が映っている映像を思い浮かべて、これが本当の私なのだと言って懐かしがっている場面がありました。「愛人/ラマン」を読み終えて、「愛人/ラマン」で語られた物語は、最後には、冒頭のこの場面に回帰していくのかもしれないと思いました。
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