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2008年4月27日 竹内みちまろ
「たけくらべ」の主要な登場人物は三人です。美登利はいずれは遊女になる少女で14歳です。13歳の正太郎は美登利と仲の良い近所の男の子。信如(のぶゆき)は15歳で、僧侶の息子です。美登利と信如は同じ学校に通っているようです。
祭りの日に、正太郎は、美登利の夕化粧の長さに待ちぼうけをしています。そのうちに、頼まれごとで手が離せなくなってしまいました。美登利や正太郎が住む界隈は、横町組と表町組に分かれていました。子どもたちの間でもけんかが始まります。手が離せなくなっていてたまたまそこにはいなかった正太郎の悪口を言う相手とのけんかに入って行って、乱暴者からぞうりを投げつけられるほどに、美登利は、勝気で、お転婆な女の子でした。
正太郎と美登利は、「美登利さん」、「正太さん」と呼び合い、美登利は「正太の頬をつつい」たり、お嫁さんにするのは「それでは美登利さんが好いのであらう」とひやかされて、2人して顔を赤らめたりするような仲でした。しかし、それは、子どもどうしの関係でしかありませんでした。美登利は、ある雨の日に、軒先でげたの鼻緒を切らせて困っている人を見かけました。たいへん、たいへんとのぞくと、信如でした。美登利は、いつもならば憎まれ口の一つもきくのですが、その時は、どうしてか、あわててかげに隠れてしまい、顔を出すことができませんでした。
その年の三の酉の大鳥神社の賑わいはすごかったようです。正太郎は、「お前は知らないか美登利さんの居る処を」と探し回ります。美登利は、髪の毛を大島田に結い、花かんざしをつけていました。「おとうと」(幸田文)を読んだ時に、島田に髪を結うということが女性にとっては、あるいは、社会的には、どんな意味があるのかを知りました。たとえば、結婚適齢期(と社会的には考えられていた年齢)を越えた独身の女性が島田に結うと「催促島田」などと揶揄されたそうです。島田に結って「京人形」のように着飾っていた美登利ですが、様子が少しおかしいです。つきまとう正太郎を、「一処に来ては嫌だよ」、「後生だから帰ってお呉れよ」と避けます。正太郎は、「夫れならば帰るよ、お邪魔さまで御座いました」とふてくされて行ってしまいました。美登利は、「大人に成るは厭やな事、何故このように年をば取る」となげきます。7個月、10個月、1年前に戻りたいと考えていました。美登利の母親は、「少し経てば治りませう」と「妖しき笑顔」で言っていました。
美登利は、大島田に髪を結ったその日から変わってしまいました。友達が遊ぼうよと誘いに来ても、「今に今に」と答えるだけで外に出ませんでした。母親だけは、意味ありげなことを言って笑っています。美登利がそんな時間を過ごしていた時のことでした。ある霜のおりた朝に、水仙が門前に置かれていました。聞くところによると、まだ先と言われていた信如が僧になるための学校に入る前日でした。
「たけくらべ」を読み終えて、上品な作品だと感じられました。一葉が描いたのは、時間の流れではないかと思われました。信如は、正太郎が敵対する組に属しており、正太郎にとってはライバルです。同じ組の美登利にとっても敵でした。しかし、信如が僧になるための学校に入って違う服をまとってしまえばもう手出しができないと言う、正太郎のせりふがありました。信如にとっての子どもの時間がその時点で終わってしまうということだと思いました。
美登利の変化については、初潮とする考えや、水揚げ(=平たくいうと吉原デビュー、初売春)とする考えや、水揚げを前にして(性病などの)正式な検査を受けさせられたとする考えなどがあるようです。いずれにせよ、美登利にも変化が訪れていました。美登利は、大人にはなりたくない、大人になるのは嫌だと嘆きます。しかし、時間は、そんな美登利とは無関係に流れていきます。美登利は髪の毛を島田に結いました。あるいは、結わされました。それは、美登利にとっては、少女の時間に区切りをつけて、女になるための儀式だと思われます。信如が僧門に入ることも、美登利が吉原の女になることも、もしかしたら、決められた定めだったのかもしれません。人間はいつまでも子どものままでいるわけにはいきません。必ず、大人にならなければなりません。信如も、美登利も、自分は何をするべきかや、自分は何に成りたいのかという発想を持って生きているわけではないように感じられました。いい悪いは別にして、それが当時の生き方だったのだろうと思われます。ただ、大人にはなりたくはない、子どものままの時間でいたいという願いだけが2人の根底にはあるように思われました。信如は、なんらかの外部的な要因のために、まだ1年先だと言われていた僧門へ、繰りあげて入らざるをえませんでした。時間の流れが無常です。信如と美登利は、子どもの時間の最後のひと時をお互いを(無意識に)思いながら過ごしたのかもしれません。子どもであったゆえに、その気持ちを相手に伝えることもできませんでしたし、もしかしたら、それが恋であることにも気がついていなかったのかもしれないと思われました。美登利は、何故だか分からないけれども、鼻緒を切ってしまった信如の前に姿を現すことができませんでした。繰りあげで一足先に大人になるという運命がやってきてしまった信如は、美登利には会うことをせずに、水仙の花だけを置いて静かに去っていきました。
しかし、大人になってしまえば出会うことのない2人でもありました。信如は、なぜ父親は僧門に入りながらもあんなに俗世界に身を染めているのだろうと思い悩む少年でした。美登利は、大人になってしまえば、遊郭の内側だけで暮らす定めにあります。僧門の中で真面目な学研の徒としての人生を歩むであろう信如の世界と、遊郭の中に限定される美登利の世界は交錯しません。大人の世界の周縁にありながら、まだそこには完全に属さないで、独自の世界を持っている子どもだからこそ2人は出会えたのかもしれません。しかし、そんな2人の不器用な恋とは無関係に、時間は流れます。2人は、子どもであることに終わりを告げて、大人の時間に入って行きました。
また、「たけくらべ」からは、一葉の「まなざし」というものも強く感じられました。それは、美登利とか、信如とか、男とか、女とか、幸せとか、生きざまとかではなくて、さらに、一人の人間、一つの現象、一つの社会、一つの時代というものをも超越した何かを見つめている視線でした。一葉は、静かに、ただ静かに、人間の生をも越えた何かを見つめていたのではないかと感じられました。そして、そこに「詩」を感じて、それを「たけくらべ」という器の中に落とし込んだのではないかと思われました。
みちまろには、「にごりえ」を読んだ時にも、一葉の「まなざし」が感じられました。お力の生きざまとは別の次元の現象として、一葉は「にごりえ」という器に託した「詩」を見ていたような気がします。「にごりえ」では、一葉の「まなざし」は「激しく燃えあがる炎」となって昇華されて、「たけくらべ」では、一葉の「まなざし」は「静かにわきあがる情念」として内包されたような気がします。もしかしたら、「たけくらべ」や「にごりえ」という物語は器でしかなくて、同時に、お力や美登利というヒロインは道具でしかなくて、一葉がほんとうに書き残そうとしていたものは「まなざし」であり、そして、その「まなざし」をとおしてしか表現することができない「詩」なのかもしれないとさえ思われました。もし、そうであるのであれば、芸術家の役割、あるいは、使命というものは、世界の中に見つけ出した「詩」を、自らの「まなざし」というフィルターを通して、作品という器の中に落とし込むことなのかもしれないと思われました。
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