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2016年3月22日 竹内みちまろ
全校生徒360人で、職員室と学食以外にエアコンが設置されていない公立の桜川高校は、生徒の母親や祖母の世代にとっては伝統ある名門校だったものの現在は「伝統と礼節を重んじるたいして優秀ではない」女子校。
桜川高校2年の草野敦子は、クラスの人間から迫害されるのを恐れ、周囲に同調することに必死。背が高く、小学6年生のときに剣道で全国優勝するも、中学3年生の夏に行われた県大会の団体戦決勝で、跳ぶと同時に足をひねり、剣道部は試合に負け、全国大会出場を逃した。
剣道部のメンバーは「敦子のせいじゃないよ。気にしちゃダメだよ」と敦子に声を掛けたが、学校裏サイトの掲示板に敦子であることが分かるように「A子」についての悪口が投稿され続けた。敦子が剣道をやめて、憧れだった文武両道の名門私立校・黎明館高校へのスポーツ推薦を断ると、すぐに、掲示板での「A子」についての書き込みは止まった。
敦子以外のメンバーがすべて黎明館高校に受かったと知ったとき、敦子の呼吸がおかしくなった。敦子は、寝る前にパソコンを開いて「学校裏サイト」を覗き、自分の悪口が書かれていないことを確認しないと安心できないようになった。
小学校1年生から通い始めた剣道教室「黎明会」で敦子と出会った桜井由紀は、桜川高校で敦子と同じクラス。小学5年生の途中に剣道をやめるまで一度も敦子に勝てたことがなかった。
由紀は、中学3年生の秋、敦子が過呼吸で初めて呼吸が上手にできなくなった時、保健室で布団を被って震えている敦子に鞄を届けた。それ以来、敦子が呼吸ができなくなると、由紀がビニール袋を敦子にかぶせて応急措置をしている。
由紀は、小学校5年生の途中に左手にケガをしてから、喜怒哀楽の感情を表に出さなくなった。ケガの原因は、敦子には、夜中に水を飲もうとしてグラスを割ってしまったと説明していたが、本当は、由紀が小学5年生になったばかりの頃に認知症になった祖母に傷つけられたのだった。
元小学校教師で校長まで上りつめた由紀の祖母は、自分が絶大な権力を持っていた時代に逆戻りして、教師時代に愛用していた50センチの竹のモノサシで、由紀を「藤岡」と呼んで、折檻するようになった。「父も母もわたしも、生傷がなかった日など一日もなかった」、「我が家は地獄だった」という日々を送る。
由紀は、小学校5年生の冬、夜中にこっそり祖母の部屋に入り、眠っている祖母の顔にびしょ濡れにしたタオルを置いた。そうすれば殺せると思ったからだ。
しかし、祖母はすぐにうめき声をあげて、顔からタオルをむしり取った。祖母は、そっと部屋を出て行こうとした由紀の背中に「−−自分が何をしたのか、わかっているのか。因果応報! 地獄に墜ちろ!」と浴びせかけt。シュッと空を切るような音が響き、由紀は振り返らずに駆けだした。部屋に戻ると、由紀の甲が割れ、血があふれ出していた。由紀は左手の握力を失い、竹刀を握れなくなったため剣道を諦めた。
高校2年生になったとき、敦子と由紀のクラスに、黎明館高校から滝沢紫織が編入してきた。
紫織は、学校で見せられた「人権映画」の話がキッカケで、敦子と由紀に、「ねえ、あんたたち、死体を見つけたことがある?」と声を掛けた。「あんたたちになら、話してもいいかな」と続け、2月に黎明館高校にいた頃の出来事を話し始めた。
今年の2月、高校に入ってから仲良くなったセーラが無断欠席した。紫織が、家が遠かったためにセーラの親がセーラのために学校の近くに借りたマンションを訪れると、セーラはバスルームで自殺していた。
紫織は「眼の前に姿は見えているのに、いないってわかるの。それが、本当の死なんだよ」、「だから、映画を観ても泣けない」と言い、「よかったら、これも見てくれる? 彼女の遺書」と携帯電話に保存された遺書を見せた。
由紀は、セーラの自殺を語る紫織を見て、「親友の死を悲しんでいる、というよりは、うっとりと自分に酔いしれているような……」と感じる。由紀は「紫織が見たのが死体なら、わたしは死ぬ瞬間を見てみたい」と感じた。
敦子は「裏サイトに悪口を書かれても、死ぬよりはマシ。なのに、こんなにも意識するのは『死ぬ』ってことがわかってないから」と「死」について考えていた。「あたしも強くなりたい」との願いから「そのためにはやっぱり、死を悟ってみたい」と思う。
さらに、由紀は、敦子には左手の傷の原因を隠していたにもかかわらず、紫織には敦子の前で祖母が原因であることを告げた。敦子はそのことがショックだった。
敦子と由紀の間には、由紀が敦子と由紀を題材にした原稿用紙100枚の手書きの小説『ヨルの綱渡り』を書いたことが原因で、今年1月から「微妙に息苦しい空気が漂うように」なっていた。敦子は「由紀抜きで死を悟らなきゃ、意味がない」と考えた。
激しい運動をすると呼吸ができなくなってしまうため体育の授業を見学していた敦子は、体育教師から、補習として夏休み中に生徒会で交流のある老人ホームでボランティア活動をしないかと持ち掛けられた。
紫織のように死体を見たら死を悟ることができるかもしれないと思った敦子は、老人ホームなら死体を見ることができるかもしれないと考え、ボランティアを引き受けた
。由紀は、たまたま見かけたチラシで、大学病院の小児科病棟や老人ホームで読み聞かせを行うグループが朗読ボランティアを募集していることを知った。大学病院の小児科病棟なら死に近い子どもたちが入院しており、人が死ぬ瞬間に立ち会えるかもしれないと思い、朗読ボランティアをやってみることにした。敦子との仲がギクシャクしていたので、朗読ボランティアのことを、敦子には告げなかった。
「死」をめぐる、敦子と由紀のひと夏の物語が始まった。
「少女」を読み終えて、「悪意」というものを考えました。
敦子の悪口を中学校の学校裏サイトの掲示板に書き込み、敦子の黎明館高校進学の夢を壊しておきながら、自分たちは黎明館高校に合格し、さらに桜川高校に入学した敦子を高校1年生の夏の花火大会で見かけると、わざわざ「−−敦子、久しぶり。ねえ、聞いてよ。インターハイ、あと一勝、ってとこでダメだったんだ。敦子がいたら絶対行けてたのに。なんで、黎明館こなかったのよぉ。剣道部にも入らなかったんでしょ。もったいな〜い」と声を掛けて来た女子たちには、若者が持つ残酷さを通り越して、醜悪さを感じました。
「悪意」という意味では、女子たちは「悪意」を持っているのだろうし、さらにタチが悪いことに、「悪意」を持っていることを認識しておきながら、その「悪意」を、相手のことを考えずに、自分が満足するためだめに利用しているように思えました。
また、「嘘チカン」をして金をせびっていた紫織にも「悪意」というものはあったのだろうと思います。
「少女」の一部の登場人物たちは、卑怯さを恥じる心や、社会に敬意を払うことや、良心を持つことや、自尊心を培うことなどとは無縁に生きており、残忍さや冷酷さや「悪意」というものを、何の後ろめたさもなく自己陶酔の道具として使っているように思えました。
ただ、ふと思ったのですが、中学生・高校生の年代は独特ではありますが、自我はまだ確立しておらず、ある意味で、子どもということもできると思います。
子どもたちの姿を考えるときに、忘れてならないのは、子どもは大人の姿を反映する鏡だということ。子どもを見れば親は見なくても分かるとも言われます。
子どもの世界にいじめがあるのであれば、必ず大人の世界にいじめがあると思います。子どもは親をはじめ周りの大人たちを見て育ちます。逆に、大人の世界にいじめがあるからこそ、子どもの世界にいじめが生まれるのだと思います。
現代社会を考えると、そもそも大人たちが、恥や尊厳や良心を失い、卑怯で卑劣なことを平気で行っているような気がします。
「少女」を読み終えて、子どもたちが「悪意」をばら撒くのは、大人たちが「悪意」をばら撒いているからかもしれないと思いました。
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