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雪の女王/アンデルセンのあらすじと読書感想文

2015年12月24日 竹内みちまろ

雪の女王(木村由利子訳)のあらすじ

 大きな町で向かいの家に住む男の子のカイと、女の子のゲルダは、きょうだい同然の仲良し。

 ある冬の夜、カイは、椅子に乗って窓から外を覗きました。植木鉢の縁に落ちた雪がどんどん大きくなって1人の女の人になりました。雪の女王でした。雪の女王は、頷いて、手を振りました。カイは驚いて椅子から飛び降りました。その日から寒気がゆるみ、春になりました。

 夏、カイとゲルダが絵本に見入っていると、5時を告げる教会の鐘が鳴りました。カイが「いたい! 心臓のへんになにかささったよ。目にもなにかはいった!」と叫びました。ゲルダがカイの首を抱きかかえると、痛みはすぐになくなりました。しかし、カイの目と心臓には、悪魔の鏡の割れた小さな欠片が入ったのでした。

 悪魔の鏡は、良いものや綺麗なものは見えないくらいに小さくなってしまい、碌でもないものや醜いものは広がってさらに凄まじい姿に映るという鏡。カイは、目に入った鏡の欠片のため、町の人の醜いところばかりが見えるようになり、ゲルダまでいじめました。心臓に刺さった鏡の欠片のため、心臓は冷たく、氷の塊のようになりました。

 カイが広場でそり遊びをしていると、白い毛皮と帽子に身を包んだ雪の女王が大きなそりでやってきました。カイは、毛皮と帽子のため、誰が乗っているのか分かりませんでしたが、自分のそりを、雪の女王のそりに結びつけました。大通りで、雪の女王は頷きかけます。カイが縄をほどこうとするたびに、雪の女王が頷きかけるので、カイはそりに引かれたまま町の門の外に出ました。

 雪が降りしきり、そりは風のように速く走ります。カイはそりを繋いでいる縄をほどけなくなりました。そりが止まります。雪の女王がカイのおでこにキスをすると、カイは、ゲルダのことも、優しいおばあさんのことも忘れてしまいました。カイと雪の女王は、雲の上に登り、森を越え、湖を越え、海や陸の上を飛んでいきました。カイの目の前に長い長い冬の夜がひろがっていました。夜が明けると、カイは、雪の女王の足元で眠りました。カイは雪の女王に捉われてしまいました。

 町では、カイがそりに乗って門から外に出た後にどうなったのかを知る人はいませんでした。みんな、カイは死んだと言い始めました。ゲルダが「カイは、死んでしまったの」と尋ねると、日の光も、つばめも、「そんなはずがない」と答えます。ゲルダはカイを探しに行きました。

 ゲルダは、小舟に乗って庭に花が咲き乱れる家に着きます。からすと友達になり、お城の中に入ります。王女に、カイを探していることを話すと、王女が純金の馬車を出してくれました。ゲルダは従者といっしょに馬車でカイを探しに出ましたが、山賊に捕まってしまいます。山賊の統領の娘に、これまでのいきさつを話しました。

 ゲルダは、森鳩から、雪の女王はラップランドに向かっただろう、と聞きます。山賊の娘は、山賊の統領である母親が酒を飲んで寝たすきに、トナカイをつけてゲルダを逃がしてくれました。

 ゲルダは、ラップランドに着き、年老いたラップ女に会いました。フィンマルケンではフィン女に会います。フィン女は、カイは雪の女王の所におり、カイはそこが世界一いい所だと思っていますが、それは心臓に鏡が突き刺さり、目に鏡の粒が入ったからで、鏡を取り除かなければ、カイはいつまでも人間の世界に戻れず、雪の女王の思うがままだと告げます。また、ゲルダを見て、「この子はなにも、わたしたちの力を借りなくてもいいのさ。力は、この子の心に宿っている。この子がやさしい、けがれのない子どもだからこその、力なんだ。この子が一人で雪の女王のお城にのりこんでいって、カイの中のかがみのかけらをとりのぞけないのなら、わたしたちにもなにもしてやれない」とも。

 ゲルダはトナカイの背中に乗って、2マイルほど先にあった雪の女王の城の庭まで着きました。トナカイは庭からフィン女の所に戻って行きました。1人で残されたゲルダは走りました。が、雪の怪物の大軍が押し寄せてきました。ゲルダは天の神様に祈りを捧げます。ゲルダの吐く息から、天使の軍団が現れ、雪の怪物の大軍を雪の欠片にしてしまいました。

 ゲルダは、雪の女王の城に辿り着きます。雪の広間の真ん中に湖があり、カイは寒さで、どす黒くなっていました。カイの心臓は、氷の塊のようになっていました。雪の女王は、カイに、氷の欠片で「永遠」の言葉を完成できたら自由にするといい残して、温かい国へ飛んで行っていました。カイは必死に試しますが、鏡の欠片が目に入ったカイはどうしても完成させることができませんでした。

 ゲルダは、固くなって動かないカイに首に抱き付きます。ゲルダは、泣きました。ゲルダの涙がカイの胸にこぼれ、カイの心臓まで染み込み、鏡の欠片を流し去りました。カイが目を開けたので、ゲルダは、「ばらの花 しげる谷間に おわします おさなごイエス」という讃美歌を歌いました。カイが泣き始め、カイの目から鏡の粒が目から流れて行きました。

 ゲルダは嬉しくてカイに抱き付きます。氷の欠片までが嬉しそうに踊り始めました。いつしか、氷の欠片が、雪の女王が言いつけた「永遠」の言葉の形になっていました。

 ゲルダとカイは手を取り合って、雪の女王の城から抜け出します。まず、フィン女の家に行きます。ラップ女にも別れを告げて、山賊の統領の娘に再会し、教会の鐘が鳴り響く懐かしい町に帰り着きました。

 ゲルダとカイは、おばあさんの家に入ります。何もかもが昔のままでしたが、2人とも、自分たちがすっかり大人になっていることに気が付きました。ゲルダとカイは、「雪の女王の、つめたくむなしい美しさを、悪いゆめだったように、わすれてしまっていました」。

 おばあさんが声を出して聖書を読みます。「おさなごのようにならねば、神のみ国へははいれないのです」。ゲルダとカイはお互いを見つめ合って腰掛けました。「ばらの花 しげる谷間に おわします おさなごイエス」という讃美歌の意味を悟りました。

「そこにこしかけている二人は、おとなであって、子どもでした。心はいつも、子どもでした。時は夏、あたたかい、めぐみの夏でした」で『雪の女王』は終わります。

雪の女王(木村由利子訳)の読書感想文

 『雪の女王』を読み終えて、「悪意」というものについて、考えました。

 悪魔の鏡は、悪魔が作ったのですが、我々が「悪意」と呼んで特別な意味を付加している意思は、鏡を作った悪魔には感じられませんでした。むしろ、悪魔にとっては、悪魔の鏡を作ったという現象は、当たり前のことを当たり前にしただけという印象があります。いうなれば、カイやゲルダが純真な子どもの心を持ち続けていたのと同じ次元の現象として、悪魔は悪魔として純真な悪魔の心を持ち続けていただけなのかもしれません。

 「悪意」という言葉を、悪い意図を特別に込めた意思、と定義した場合、悪魔はただ、当たり前のことをしただけで、悪魔の行動について悪意があるとか、ないとかを考えても的外れなのかなと思いました。そういった意味で、悪魔には、自然な行動しか存在せず、「悪意」を持った行動というものは存在しないのかもしれません。

 そのうえで、雪の女王には「悪意」があったのだろうか、と考えました。雪の女王に関する記述は少なくて、唯一、雪の女王を掘り下げていると思われる記述は、地の文で「つめたくむなしい美しさ」を持った存在であると定義されている個所だけのように思えました。

 ただ、それとて、語り手である人間が人間を基準にして、自身の価値判断を加えて「つめたくむなしい美しさ」と言っているだけで、雪の女王にとっては、「つめたくむなしい」ことではなく、ごく自然なことなのかもしれません。美しいかどうかは、それはもう、個人の価値判断なので、美しいと考える人もいれば、逆に、醜いと考える人もいるでしょう。

 雪の女王を掘り下げた記述がそれ以上ないので、雪の女王というものがどんな存在で、なぜカイを虜にしたのかは分かりませんでした。悪魔と同様に、雪の女王というものが、そもそも人間をさらうものだとしたら、カイをさらったという雪の女王の行動には「悪意」は介在しないのかもしれません。

 一方で、純粋な子どもの心を持つゲルダには、「善意」という意識や思想は存在しないのかもしれないと思いました。同時に、カイを探し、連れ戻すという行為には、善意や使命感(ミッション)というものが介在しないのかもしれません。

 『雪の女王』は、いわゆる宗教説話の部類に入る物語だと思いますが、うがった見方をすれば、途中で何がどうなろうとも最後にはこれしかないという「正解」に辿り着くという点において、結末は最初から決まっている物語なのかもしれません。宗教説話というものは、教義ありきなので、結末が、教義の通りになることは、ある意味で自然だと思います。ストーリー展開においても、天の神様に祈れば天使の軍団が現れることは、お約束です。

 ただ、『雪の女王』は、悪魔や、雪の女王や、ゲルダやカイなどの登場人物の行動原理の中に、悪意や善意、ミッションなどというものが介在していませんでした。みんながみんな、当たり前のことを自然にしているだけという印象を受けました。

 『雪の女王』は、宗教説話を読むときに感じることがある違和感をまったく感じないで読めました。もし、ゲルダが宗教的なミッションを持って雪の女王の城に乗り込み、そこで、祈りを唱えて天使の軍団が現れたのなら、もしかしたら、最初から結末が決まっている物語をお約束通りに結末に導くためだけのご都合主義とでもいえるのかもしれない、うさん臭さのようなものを感じたかもしれません。

 『雪の女王』では、「天の神様」や「おさなごイエス」が直接称えられることもなく、最後まで、純真な子どもの心を持ち続けているゲルダとカイの姿がクローズアップされていました。

 『雪の女王』が世界中で読まれているのは、宗教観を行間に埋め込んで、純真な子どもの心を持ち続けているゲルダとカイの姿を提示することにより、“人間が生きていくこととは?”という、(ある意味では、宗教では解決できないのかもしれない)普遍的な命題を提示することに成功しているからかもしれないと思いました。


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