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蜜柑/芥川龍之介のあらすじと読書感想文

2011年2月10日 竹内みちまろ

蜜柑/芥川龍之介のあらすじ

 「蜜柑」の主人公の「私」は「云ひやうのない疲労と倦怠」を持っています。二等客車で発車を待っていると、車掌の何かののしるような声がして、娘が入ってきました。

 娘は、油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結わいています。ほほを赤く染め、大きな風呂敷を持ち、あかぎれの手に三等の切符を持っています。娘の身なりの不潔さや容貌、また、二等と三等をわきまえない愚鈍さに不機嫌になった「私」は、娘の存在を忘れようと、夕刊を広げます。

 ひざの上に広げた夕刊が突然、電光に照らされます。「云うまでもなく汽車は今、横須賀線に多い『トンネル』の最初のそれへはいつたのである」。トンネルに入った瞬間、「私」は、一瞬、汽車が逆走しているような錯覚を覚えます。「平凡な出来事ばかり」の記事を機械的に眺めますが、「私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を『ほう』り出」し、死んだように目をつぶってうとうとします。

 何分か過ぎると、娘がいつのまにか隣に来ていて、窓の戸を下ろそうとしています。汽車がトンネルに入ると同時に、娘が窓を開け、「煤を溶したやうなどす黒い空気」を「私」は満面に浴びて、咳き込んでしまいます。

 ようやく咳がやむと汽車はトンネルを出ていて、「枯草の山と山との間に挟まれた、或貧しい町はずれの踏切りに通りかかって」いました。わらぶき屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建て込んでいます。「踏切り番が振るのであろう」うす白い旗が揺れています。

 その踏み切りの柵の向こうに、三人そろって背が低くほほの赤い少年たちが並んでいます。三人は、汽車へ向かって一斉に手を挙げて何とも意味のわからない声を一生懸命にはりあげています。娘が、5つ、6つばかりの蜜柑を男の子たちへ投げました。

 「私」は「一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾『くわ』の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである」。

 「私」は、「或得体の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識し」ます。「私」は、相変わらず三等の切符を握りしめている娘を見て、「云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである」。

蜜柑/芥川龍之介の読書感想文

 「蜜柑」の読書感想文に移ります。私事ですが、この文章の作者は、横須賀で生まれ育ちました。「蜜柑」を読んでいて、トンネルが多い横須賀の地形や、トンネルとトンネルに挟まれた谷の平地が屋根に埋め尽くされていることや、横須賀線の客車の座席が向かい合わせに4人掛けであることや、窓を上から下に下ろすことなど、手に取るようにわかります。トンネルに入った瞬間に、夕刊が電光に照らされる描写や、一瞬逆走しているような錯覚、そして、狭い平野部に敷かれた線路や踏み切りとその周辺の原っぱの様子などが、「蜜柑」を読んでいて、ぱっと心の中に広がってきました。

 「蜜柑」では「私」の物語は何も書かれていませんが、「云ひやうのない疲労と倦怠」、そして、それを一瞬忘れることができた風景、何がよくてどうあるべきなのかとは別に、これから奉公先へ向かう孤独な娘、貧しさ、そして、少年たちは手を振ることしかできず、娘はせめて蜜柑を投げて報いた姿などが心に染みいりました。

 「蜜柑」は、「私」がある出来事を観察しただけの物語でもあるのですが、描かれた出来事のどうしようもない詩的悲しさにふれて、芥川龍之介は楽しさや明るさよりも、楽しくなくてもよい、光に照らされなくともよい、詩があればよいという視点を持っていて、そして何よりも、詩を、貧しさや闇の中を生きる素朴な人間のどうしようもない悲しさの中に見てしまっていたのかもしれないと思いました。


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