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地獄変/芥川龍之介のあらすじと読書感想文

2006年3月26日 竹内みちまろ

地獄変/芥川龍之介のあらすじ

 「地獄変」は、絵師の物語です。絵師は当代一の腕前です。同時に、高慢で偏屈です。「天が下で、自分程の偉い人間はない」と思っています。そのことを遠慮もなく口します。みんなから嫌われています。しかし、実際に並ぶほどの腕前を持った絵師がいないことも事実です。そのことで、いっそうに嫌われているような印象をうけました。また、奇人としても有名な男のようです。しかし、絵師にも「たつた一つ人間らしい、愛情のある所」があったことが紹介されました。絵師には、気立てのやさしい娘がいました。絵師は、けちで有名でした。その絵師が、娘のこととなると、金にいとまをかけずに、服やかんざしなどを取り揃えてやることが語られました。

 「地獄変」は、重要な登場人物である大殿の紹介からはじまります。「地獄変」の語り手は、大殿に仕えていた使用人のようです。「地獄変」は、使用人だった「私」の回想という形式になっています。「地獄変」の冒頭で、大殿が凡人には考えが及ばないほどの大人物であったことが紹介されました。人々からはたいへんに尊敬されていました。もちろん、使用人であった「私」は、かつての主人であった大殿をすぐれた人物として語ります。「私」は、物語を客観的に語ろうと努めてはいます。しかし、ときおり、「私」の視点をとおして語られる大殿の姿は、お世話になったご主人様をイメージのなかで必要以上に尊いものに作りあげてしまっているような印象がありました。「私」の視点をとおして語られる大殿の心は、一種のフィルターをとおされているような感じです。そんな構造が、大殿の隠された物語をいっそうに浮き彫りにしているように感じました。大殿の隠された物語についてはあとでふれるとして、あらすじに戻ります。

 絵師は、大殿から、「地獄変の屏風」を描くようにと命じられます。絵師は、作図に没頭します。屏風の製作過程は、たっぷりと描写されています。弟子を全裸にして縛りあげたり、猟師から手に入れたふくろうを弟子にけしかけたり、蛇を飼ってその姿を写生したりします。絵師のうわごとが紹介される場面がありました。

「なに、己に来いと云うのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。火炎地獄へ来い。――誰だ。さう云う貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら」

 絵師の枕もとにいた弟子は、異形の影が作りかけの屏風のおもてをかすめて見えたほどに気味悪く感じました。絵師は、製作に行き詰まりました。大殿のもとを訪れます。絵師は、屏風がほとんどできあがったことを告げます。大殿は、「それは目出度い。予も満足ぢや」と答えます。しかし、語り手である「私」は、「大殿様の御声には、何故か妙に力の無い、張合いのぬけた所がございました」と語っています。大殿は、屏風がつつがなく仕上がってしまうことが不服のようです。

 しかし、絵師は、「唯一つ、今以て私には描けぬ所がございます」と奏上します。大殿は、「嘲るような御微笑」を浮かべて、「地獄を見なければなるまいな」と答えます。絵師は、先年の大火事で火炎地獄のさまを見たことを告げます。大殿は、罪人はどうじゃ、獄卒は見たことがあるまいとたたみかけます。絵師は、鎖にいましめられた者も、怪鳥になやまされる者も、罪人が責め苦にうめく姿も見たことがあると答えます。そして、気味の悪い苦笑をもらしながら、牛頭や馬頭の異形たちは、毎夜、自分のもとを訪れていることを告げます。自分が描けないものは、そんなものではないことを伝えます。大殿は、「では何が描けぬと申すのぢや」といらだちました。絵師は、屏風に、牛車に乗った女が猛火に苦しむ姿を描こうとしていることを告げます。その牛車の中の女が、どうしても描けないことを告げます。大殿は、「そうして――どうぢや」と、妙に嬉しそうな声で合いの手を入れます。絵師は、自分の見ている前で牛車に火をつけて欲しいと告げます。「さうしてもし出来まするならば――」と続けます。大殿は、突然けたたましく笑いました。語り手である「私」は、大殿の口のはしには白い泡がたっており、眉のあたりにはいなずまが走っていたと語っています。大殿は、とめどなくのどを鳴らして、「流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ」と笑いました。

 大殿は、牛車を燃やすところを見せるために、絵師を呼びます。大殿は、牛車には罪人の女房が縛られていると言います。しかし、大殿は、意味ありげな微笑をそばの者たちと交わします。大殿は、わざわざ、一人の強力の侍を従えていました。強力の侍は、戦いに飢えて人肉を食ったような男です。絵師が暴れだしたら、力ずくで抑えこむつもりだったのでしょうか。大殿は、含み笑いをします。

「末代までもない観物ぢや。予もここで見物しよう。それそれ、みすを揚げて、良秀に中の女を見せて遣らぬか」

 絵師が牛車の中に見たのは、自分の娘でした。絵師は、思わず牛車のほうに歩みでようとします。牛車に火がかけられました。絵師は、この世のものとも思えないほどに悲しそうな顔をしました。あの強力の侍ですら、大殿の顔をうかがったほどでした。しかし、大殿だけは、唇をかみしめて、かたくなに牛車を見つめていました。

 ここで、娘が焼かれる様子が語られます。語り手である「私」は、娘の悲運を伝えるために、娘が可愛がっていた動物を利用します。牛車が業火に包まれた刹那、娘が可愛がっていた猿が牛車の中に飛び込みました。猿の奇声が夜空に響きます。しかし、猿が見えたのも一瞬でした。次の瞬間には、黒煙の中に消えていきました。

 語り手である「私」の視点が、絵師に戻ります。絵師の様子に変化が起こっていました。

「あのさつきまで地獄の責苦に悩んでいたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、たたずんでいるではございませんか」

 絵師の姿は、鳥を利用して語られました。突然の炎に驚いた夜鳥が、あたり一面に飛び狂いました。しかし、不思議と、絵師の頭の上にだけは近づこうとしません。牛車を見つめる絵師は、何者をも寄せ付けない威厳に満ちていました。みな息をひそめて、絵師の姿に見入ったそうです。その中で、唯一人、大殿だけは、別人かと思われるほどに青ざめていました。大殿は、ひざを両手でつかんで野獣のようなうめき声をあげ続けていたそうです。

地獄変/芥川龍之介の読書感想文

 語り手である「私」を除くと、「地獄変」の主要な登場人物は、絵師、大殿、娘の三人です。重要な脇役として、横川の僧都が登場します。僧都は、最初のほうで、ちらっと姿を現します。絵師の傲慢さを紹介する場面で、「現に横川の僧都様も」という形で、僧都が絵師を憎んでいることが紹介されます。そして、クライマックスで再び登場します。鮮やかな役割を果たします。僧都は、絵師が娘が焼け死ぬ様を見たことをうわさに聞いて、「如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常を弁(わきま)へねば、地獄に堕ちる外はない」と言ったそうです。しかし、僧都は、完成された屏風が持ち込まれたときに同席していました。地獄変の屏風をひと目見るなりに、「思はず知らず膝を打つて、『出かし居つた』と仰有いました」ことが紹介されました。それ以来、絵師を悪く言う者は、屋敷の中にはほとんどいなくなったようです。地獄変の屏風を見たものは、誰しもが厳粛な心もちにうたれることが紹介されました。

 横川の僧都は、いわゆる、大人として描かれていました。倫理と世のことわりを重んじています。それでいて、作品の良し悪しがひと目でわかります。そして、理屈を越えた領域で、美しいものを無条件に愛する心を持ち合わせていたように思いました。僧都は、世の中を象徴するような人物として描かれていたのかもしれないと思いました。僧都は、良識を持って社会に参加することに価値を見いだしています。そのいっぽうで、地獄変の屏風の美しさには、心を吸い取られるような心地よさを感じます。うまく言えませんが、作品を作り出す者ではなくて、作品を受け入れる側の人物として描かれていたような印象を受けました。僧都は、作品を作りだす人物ではないので、良識だけを守って生きることの大切さを公言することができます。自分はしっかりとした人生を守りながら、いっぽうでは、良識を踏み外すことを代償として生み出された作品を楽しみます。

 絵師は、気の毒な男として描かれていたように思いました。大殿に牛車に閉じ込められた女が焼き殺される姿を見たいとほのめかしてみたものの、大殿から「車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ」と言われてしまってからは、急に色を失って唇ばかりを動かしはじめました。やがて、力が抜けたように畳に両手をつきます。聞こえるか聞こえないかの声で、「難有い仕合でござりまする」と述べることがやっとでした。絵師は、自分の思いつきの恐ろしさに震えあがってしまったように感じました。絵師は、あとになって落ち着きを取り戻してからも、おおかた、罪人の女でも焼き殺してくれるくらいのことを思ったのではないかと思います。語り手である「私」は、ひれふして礼を述べる絵師を見て、「私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました」と回想していました。

 娘は、多くは語られていませんでした。娘の情報は断片的です。娘は、父親である絵師を大切にしています。器量が良くて大殿から目をつけられても操を守り続けて大殿に身をゆだねません。そして、大殿からよく思われていることを鼻にかけるようなへまはしません。娘は、身分をわきまえています。北の方のそばを離れずにかいがいしく仕えます。誰からも反感やねたみをかうことなくふるまっていたことが紹介されました。娘の姿は、ほとんどが、説明調で書かれていました。娘の気持ちが語られることはありませんでした。それゆえに、その姿は語られますが、その心はまったくに見えてこない人物だと思いました。唯一、娘のなまなましいうしろ姿が語られる場面がありました。娘が女の艶を身につけたエピソードです。しかし、夜の屋敷のなかで語り手である「私」が娘の姿を垣間見たに過ぎない場面として描かれていました。

 語り手である「私」は、まったくの凡人として描かれています。語り手である「私」は、自分が凡人であることを十分に認識しています。凡人である「私」には、そもそも非凡な人物である大殿の心がわかるはずがないという立場が「地獄変」の冒頭で語られます。それゆえに、「私」は、自分が見たことを自分が作り出した勝手なイメージで作り変えて語ることをしません。また、自分が聞いたことに自分の勝手な解釈を加える気配がありません。物語を客観的に語り伝えることに徹しいてるような印象を受けます。しかし、世上のうわさを紹介したあとに大殿の姿を語るときだけは、語り手である「私」は主観を物語の中に持ち込んでいました。「地獄変」の最初のほうで、大殿が色を好んで娘をひいきにしたとうわさされたことが語られました。それに対しては、大殿は娘のやさしい心もちを殊勝に思っただけで、「こゝでは唯大殿様が、如何に美しいにした所で、絵師風情(ふぜい)の娘などに、想いを御懸けになる方ではないと云う事を、申し上げて置けば、よろしうございます」と語っています。物語ははじまったばかりなので、この段階では、語り手がそう言うのならば、たしかにそうなんだろうとしか思いませんでした。しかし、例えば、絵師が娘を手もとに置きたいあまりに娘を返してくれと大殿に言った場面では、違和感を覚えました。大殿が娘を絵師のもとに帰さなかったわけを、語り手である「私」は、色を好んで、あるいは、自分の思うままにならない娘をねたんでのでことではなくて、「娘の身の上を哀れに思召したからで」、偏屈な親のもとで暮らすよりは、「何の不自由もなく暮らさせてやらうと云う難有い御考へだつたやうでございます」と語っています。しかし、もし大殿が娘の身の上を案じるような人物ならば、絵師から娘を返してくれと言われたときに急に機嫌を損ねたり、絵師の娘を返してくれという奏上を断ってからだんだんと絵師に冷たい目をむけるようになった理由がわかりません。それに、娘を牛車に閉じ込めて焼き殺すはずがないとも思えました。また、大殿が絵師の目の前で娘を焼き殺したわけは、「大殿の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲らす御心算だつたのに相違ございません。現に私は、大殿が御口づからさう仰有るのを伺つた事さへございます」と語っています。大殿が自分の口からそう言ったことは事実でしょうし、語り手である「私」がそれを聞いたことも事実であろうと思います。しかし、だからと言って、大殿が本心を語ったわけではないと思いました。むしろ、娘を焼き殺した大殿の「思召し」は、別のところにあったように思いました。凡人である「私」は、世上のうわさではなくて、そば近くに仕えた者の立場から、大殿の「思召し」を語ろうとします。それは、世上のうわさで大殿が誤解されるのを守りたい気持ちから、ついつい口にでてしまったような印象を受けました。「地獄変」には、語り手である「私」が必要に迫られて主観を語る場面が数個所ありました。そして、それらのことごとくが、大殿のほんとうの心とは的外れなことを大殿の「思召し」として語っているように思えました。「地獄変」を読み終えて、「地獄変」のほんとうの主人公は、大殿ではないかと思えてきました。見たままの大殿を客観的に語ろうとする視点と、勝手に作り上げたイメージで大殿を語ってしまう視点の間にあるギャップが、かえって、大殿のほんとうの姿を浮き彫りにしているように思えました。

 大殿は、非凡な人物として描かれていました。大殿の心が語られるのは、語り手である「私」が引用している大殿のセリフと、語り手である「私」が描写する大殿の行動や様子をとおしてだけでした。「地獄変」を読み終えて、大殿は、絵師に嫉妬をしたのではないかと思いました。大殿が絵師の目の前で娘を焼き殺そうと思った理由はわかりません。しかし、大殿は、ほんとうの地獄を見た者だけが、ほんとうの地獄を描くことができることを知っていたように感じました。絵師から女が焼き殺される姿を見たいと言われたときに、大殿は、それまでは、不機嫌であったのに、急によろこびはじめました。語り手である「私」は、娘を焼き殺したのは絵師のまがった性根を懲らしめるためだと推測しています。しかし、もしそうであるならば、娘が焼かれる場面での大殿の行動が不可解なものに思えます。大殿は、絵師が恍惚の表情を浮かべて燃え盛る牛車を眺める姿を見て、野獣のようにあえぎます。大殿は、何かを悔しがっているように思えました。大殿は、牛車の場面で屈強の男を呼んでいました。もし、絵師が騒ぎはじめたり、絵師が牛車のほうへ走りだしたりしたら押さえつけるための準備だと思いました。しかし、絵師は取り乱しませんでした。牛車を見つめ続けました。完成された地獄変の屏風が持ちこまれたときの大殿は、悔しそうでした。その場には、前述のとおりに、横川の僧都が同席していました。横川の僧都は日ごろから絵師を強く批判している人物です。その僧都が、絵図を見るなりに「出かし居つた」と言ってひざをたたきました。語り手である「私」は、「この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません」と語っています。ほんとうの地獄を描ききった絵図が完成したにもかかわらず、大殿が苦笑したことが印象に残りました。

 大殿は、自分が思いついたとおりに絵師の目の前で娘を焼き殺します。そして、自分が望んだとおりの地獄変の屏風を手に入れます。しかし、それぞれの場面で、大殿は、くやしがったり、苦笑したりしています。そして、創作に行き詰まった絵師が大殿のもとを訪れたときに、絵師は、まずはじめに、絵図はほぼ完成していることを告げました。大殿は、口では満足だと言いながらも、さも絵図が完成してしまうことが不満なようなそぶりを見せます。大殿は、何がどうなれば満足したのだろうと思いました。もし創作に行き詰まったままで絵図が完成しなかったら、あるいは、燃え盛る牛車を見て絵師が心を取り乱したら、あるいは、完成した絵図が凡庸な作品だったのならば、大殿は満足したのではないかと思いました。絵師が牛車を見て心を乱したら、ほんとうの地獄を描くことはできなかったのではないかと思います。その場合は、かりに、地獄絵図を完成させたとしても、それは凡庸な作品になったのではないかと思います。大殿にとっては、地獄絵図を見たければ、近くのお寺を巡ればいくらでも見れただろうといます。そして、それらの地獄絵図はすべて、ほんとうの地獄を見たことのない絵師によって書かれたどこにでもあるような凡庸な作品だったのかもしれません。大殿は、絵師に、地獄絵図を所望しました。絵師は、ほんとうの地獄を描こうとしました。しかし、絵師は、あわれな人物として描かれていました。実際に、絵図を完成させた翌日に、首をくくって自殺してしまいます。ただ、そうではあっても、結果として、絵師は、ほんとうの地獄を見てしまいました。そして、ほんとうの地獄を描きあげました。「地獄変」では、屏風に描かれた地獄絵図は、なんとも言えない威厳を持っていることが強調されています。芥川龍之介は、語り手である「私」をとおして、地獄絵図を「入神の出来映え」と語らせています。絵師が描きあげた地獄絵図は、神の領域に属する作品だと定義されているのかもしれないと思いました。大殿は、自分自身で作品を作りだそうと思っていたわけではないのかもしれません。しかし、自分以外の人間が神の領域に進入して、そこで神の領域に属する作品を残してしまうことが許せなかったのではないかと思いました。もしかしたら、大殿は、芥川龍之介自身だったのかもしれないと思いました。絵師のような作品を残すには、神の領域に踏み込まなければなりません。しかし、それは人知を超えた領域であり、そこに進入してしまえば、絵師のように人知を超えた領域に属する作品を生みだせるのかもしれません。しかし、同時に、絵師のように命を捨てねばならないのかもしれません。

 芥川龍之介は、神の領域にあこがれながらも、絵師のように命を捨てることができない自分のはがゆさを大殿に託したのではないかと思いました。そんなふうに思う人間にとっての唯一の救いは、自分も含めて誰も神の領域には入らないことではないかと思いました。自分以外の誰かがそこに行ってしまうから嫉妬の心が生まれるのかもしれません。自分も含めてみんなが行けない場所ならば、たとえ自分が行けなくても満足できるのではないかと思いました。地獄を描いた絵図のすべてが凡庸な作品であり続けるうちは、自分が描いた地獄が凡庸であっても嫉妬は生まれないと思います。しかし、絵師は、ほんとうの地獄を描いてしまいました。ほんとうの地獄というものは、ほんとうの美しさではないかと思いました。大殿が絵師にほんとうの地獄を見せたわけは、わかりません。大殿は、心のどこかでは、絵師がほんとうの地獄を描きあげることを期待していたのかもしれません。ほんとうの美しさを体現する作品は、絵図だけではないと思います。木彫りの彫刻でもかまわないし、琵琶の音色でもかまいません。そして、万年筆によってつづられる文章作品でもかまわないのではないかと思いました。

 「地獄変」を読み終えて、芥川龍之介が見ていたものは、神の領域ではないかと思いました。


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