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富嶽百景/太宰治あらすじと読書感想文

2012年12月30日 竹内みちまろ

富嶽百景のあらすじ

 1938年(昭和13年)の初秋、「私」こと太宰は、思いを新たにする覚悟で、鞄ひとつで、甲府からバスに乗り、海抜1300メートルの御坂峠に来ました。「世界観」「芸術」「あすの文学というもの」「新しさというもの」などに思い悩み、「誇張ではなしに、身悶えしていた」「私」は、3年前の冬、ある人から意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れ、アパートの一室でひとりで酒を飲み続けました。あかつきに便所の四角い窓から見上げた富士山は、小さく、真っ白で、私は金網を撫でながら泣き、あんな思いは二度としたくないと思っています。

 御坂峠の頂上にある天下茶屋の2階では、初夏のころから、作家の井伏鱒二が仕事をしていました。「私」も茶屋に落ち着きます。数日して井伏の仕事がひと段落つき、2人は三ツ峠へ登ります。その翌々日に井伏は、天下茶屋から引き上げます。甲府まで見送りをした「私」は、甲府である娘とお見合いをします。「私」は、「このひとと結婚したい」と決めます。井伏は帰京し、「私」は、9月から11月まで、茶屋の2階で仕事をすることになりました。

 茶屋の「私」のもとを、峠を降りきった町の郵便局に勤めている新田という25歳の青年が訪れます。「太宰さんは、ひどいデカダンで、それに性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説」に書いてあったなどと告げ、「まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたお方だとは、思いませんでした」などと感想を口にします。新田と、新田が連れてくる青年たちは、「私」と文学談義をかわし、「私」を、「先生」と呼びます。「私」は、先生という言葉を受け入れるだけの「苦悩」だけは経てきたと思います。

 「私」は、月見草の種を取ってきて、茶屋の背戸にまきました。ハガキのやりとりで、故郷から結婚資金の援助を受けることができない運びと成りつつありました。しかし、娘と、娘の母親は、「あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます」と告げます。

 「私」の仕事は進まず、とくに娘がいる甲府にいった後は、宿の娘から「お客さん。甲府へ行ったら、わるくなったわね」と言われるほどでした。宿の娘は、「私」が書き散らした原稿用紙を番号順にそろえるのがとても楽しいと告げ、私は、大げさに言えば、「人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援」と感じ、「娘さんを、美しい」と思います。

 11月、外套を着た都会風の知的な娘2人組が茶屋を訪れ、どてら姿の「私」に、シャッターを切ってくれるよう、依頼します。「私」は、ポーズをとる2人組を外して、わざと、富士山だけを大きく写しました。その翌日、「私」は、山を下りました。

富嶽百景の読書感想文

 『富嶽百景』は、読み終えて、太宰の戸惑いのようなものが伝わってきました。

 まず、「私」こと太宰は、「芸術」や「あすの文学」などというものを模索しており、それを文筆で成し遂げようと苦悩しています。が、「仕事」はいっこうに進みません。そして、芸術や文学に心を悩ませると、「眼前の富士の姿も、別な意味をもって目にうつる」といいます。「やはりどこか間違っている」という富士山も、「月見草がよく似合う」という富士山も、「素朴な、純粋の、うつろな心に、果たして、どれだけ訴え得るか」と疑問視する富士山も、『富嶽百景』の冒頭に書かれている通り、事物として、ただひとつしかない「のろくさと拡が」る山でしかありません。富士山の風景は、「私」の心を移す鏡なのかもしれないと思いました。

 また、私が、そんな富士山を、いつのまにか、心の中のつぶやきの相手にしているところも興味深く読みました。『富嶽百景』の中で、「私」は、富士山に「化かされた」り、富士山に「妥協しかけ」たり、富士山に頼み事をしたりしています。

 『富嶽百景』では、富士山が眼前に見える茶屋に来た「私」の姿が描かれていました。しかし、「私」がどんな覚悟を持って茶屋に来たのか、なぜ故郷から結婚の助力が得られないのか、そして、わざわざ「性格破産者」といわれているが会ってみるとそうではないという印象を青年に与えたというエピソードを出しておきたながら、「私」が実際にどんな人物であるのかは記されていません。人から打ち明けられた意外な事実とは何なのか、作品の内側ではわかりません。甲府の家では結婚に乗り気なのに、「私」はどこか煮え切らないようにも見え、それでいて、原稿用紙をそろえる宿の娘を「美しい」と思う姿も、ぎこちないです。

 「私」にとって、結婚は「現実」の象徴なのかもしれないと思いました。「現実」とは、社会の構成員として一人前になることで、ある意味では、社会の歯車になることかもしれません。一方、「私」が求めている「芸術」や「文学」は、「現実」とは対極にある「理想」の世界、もしくは、「性格破産者」の世界なのかもしれません。「私」が甲府の娘を美しいと思っているのかどうかはわかりませんが、何の見返りも求めずに純粋に原稿用紙を整理することが好きだという宿の娘は「美しい」と断言します。

 心の有りようによって見え方が変わる富士山は、「文学」に苦悩する「私」の心が反映しており、「私」がどこか斜に構えて富士山に語りかけるのは、「芸術」を追い求めながらも、「芸術」とは相反する「現実」へ向かおうとする自分に自嘲ともとれる違和感を持っているからかもしれないと思いました。


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