読書感想文のページ > 崩れる脳を抱きしめて
2019年10月16日
地元広島を離れて、1か月間葉山の病院に実習に来ている碓氷蒼馬は、脳外科医を目指す研修医。碓氷の実習先の病院は、自然に囲まれており病室も病院設備も立派で、最期の時間をゆっくり過ごしたいと願う重病の患者が多くいた。
碓氷は2階フロアの患者を担当することになり、その中で脳腫瘍を患う弓狩(ゆがり)環という女性患者と出会う。彼女は、弓狩という苗字は言いにくいから「ユカリと呼んで欲しい」と頼み、碓氷はユカリと呼ぶことになった。 ユカリは身内がおらず天涯孤独であったが、祖父母が残した莫大な遺産があり、病院の中でも特別豪華な病室に入院していた。
ユカリは碓氷が往診のために病室を訪れると、よく絵を描いていた。脳腫瘍で余命数ヶ月と言われ、さらに遠い親戚に遺産目当てで殺されるかもしれないという理由で外出恐怖症であった。そのため、自分が生きているうちにやりたかったこと、行きたかった場所を絵に描いていると言っていた。
ユカリは歳の近い碓氷が実習に来て話し相手になってくれることを喜んでいた。碓氷は、幼い頃に父親が借金を残して愛人と失踪した過去があり、海外で脳外科医として稼ぎ、地元にいる家族を支えたいという強い想いがあった。そのため、今は一刻も早く脳外科医になるため、日々勉強に励みたかったのだが、碓氷が勉強用に借りた病院の部屋は騒音がひどく勉強に集中できる環境ではなかった。そのことを知ったユカリは、自分の病室の机で勉強するように勧めた。それから、碓氷は自分の仕事が終わった後の1時間、ユカリの部屋で勉強をするようになった。
ユカリは碓氷と過ごすことで少しずつ元気になっていった。同じ入院患者でユカリの友達である朝霧由は、ユカリと碓氷は恋人同士なのではないかと言い出し、2人の仲を陰から応援していた。
ある日、ユカリは碓氷を誘い病院の外に出たいと言い出した。碓氷はユカリの頼みを断りきれずに、一緒に病院を抜け出した。ユカリは行きたいところがあると言って、バスに乗って図書館を目指した。その途中、何度もユカリは怯えた様子になり調子も悪そうだったが、碓氷が付き添いやっと図書館にたどり着くことができた。ユカリは、余命わずかになってから外出を怖がっていたが、碓氷のおかげで一歩踏み出すことができたと感謝し涙を流した。
ユカリは碓氷に何かお礼がしたいと考え、自分の遺産で碓氷の借金を負担できないかと提案した。碓氷はそれを聞き、怒りをあらわにした。自分のプライドを守るためというのもあるが、ユカリの死と引き換えに金を得ることが許せなかった。ユカリは謝罪した後、過去に縛られている碓氷の力になりたいと父親の話を聞いた。
碓氷の父親は元々、会社を経営していたが、従業員に騙されて借金を抱えてしまった。まだ小さかった碓氷や妹がいる家に、借金取りが来ることもあった。そんな状況の中、父親は突然1人で失踪してしまった。それから少しして、父親から封筒が届いた。それは海外から送られたもので、中には離婚届と若い愛人との写真、ハガキに書かれたメッセージが入っていた。父親からは何度か同じような手紙が届き、その後、山で転落死したとの連絡が入ったのだった。母親は借金を返すために、必死で働き、碓氷も将来を考えて奨学金で大学に通い医師を目指した。碓氷は父親のことを憎み、さらに借金でお金に困った過去に縛られていた。その話を聞いたユカリは不審な点を指摘する。そして、父親についてもう一度調べるよう碓氷にアドバイスをした。
碓氷は、故郷広島に帰る機会に父親からの手紙を写真に撮って帰ってきた。その写真を見たユカリは一晩考え、真実は別のところにあると言った。
碓氷の父親に愛人ができて失踪したというのは嘘で、実はその愛人は悪質な金貸しの女だった。碓氷の母親と離婚した後に、その女と結婚し、生命保険をかけて事故死することが金貸しに借金を返す方法だった。また、碓氷の父親は、金貸しにばれないように家族にお金を残せるように工夫もしていた。海外から送られた封筒の中に入っていたハガキには未使用の切手が貼られていた。父親は貯金を全て高価な切手に替え、家族に送ったのだった。
話を聞いて最初は信じられない碓氷だったが、全ての辻褄が合い、ユカリの話が真実だと悟った。これまでずっと憎んでいた父親の愛情を知り、碓氷は涙を流した。ユカリは黙って碓氷を抱きしめた。その時、碓氷はユカリへの気持ちが恋だということに気付いた。互いに救いあった碓氷とユカリの距離は近づいていたように思えたが、碓氷の実習期間が終わりを迎えた。碓氷はユカリに今後も連絡を取りたいと申し出たがユカリに拒否され、思いを告げられずに別れた。
広島に戻った碓氷はユカリに何通か手紙を送ったが、ユカリから返事が来ることはなかった。元恋人で今は仲の良い同僚である冴子と地元で会った時、碓氷はユカリに恋をしていい顔に変わったと言われた。冴子はユカリに思いを伝えるべきだと碓氷の背中を押し、碓氷がユカリに会いに行こうと決意したところ、病院に弁護士の箕輪という男が訪ねてくる。そしてその男は、ユカリは4日前に亡くなり、ユカリが残した遺書によると、ユカリの遺産の一部を碓氷に渡す、と記されており、その額は借金額と同じ額だった。さらに、ユカリは碓氷がいた葉山の病院ではなく、横浜の病院に転院しており、最後は道に倒れて亡くなったと聞かされる。色々と信じられない碓氷は、詳細を聞くために、自分がいた葉山の病院を訪れる。
碓氷は院長になぜユカリを転院させたのか確認すると、院長はユカリがいた病室には誰も入院していなかった。
碓氷は幻を見ていたと伝える。弓狩環という女性は入院してはいたが、碓氷が担当していなかった階に入院していた。そして、その女性もすでに亡くなったことを聞かされる。院長曰く、碓氷は脳外科医になるために広島の病院で働きすぎて疲弊していた。療養もかねて葉山の病院で実習をしており、病院側は碓氷が疲れすぎて妄想を見ていると感じ、話を合わせてあげていたと言った。ユカリのカルテを確認しても、自分が書いたはずのカルテは存在していなかった。戸惑う碓氷はユカリがいた病室に向かった。そこでベッドの下からユカリが描いていた絵を発見する。ユカリはやっぱり存在していて、院長や病院の人が嘘をついていると碓氷は確信し、真相を探るために独自に捜査を始めた。
碓氷が調査をした結果、ユカリは横浜の病院に過去通院していた事実を知る。また、死ぬ間際に新しい遺言書を作成していたことを知る。碓氷は、外出恐怖症だったユカリが横浜で出歩いていたことに違和感を覚え、また新しい遺言書のありかも現在不明ということから、ユカリが倒れていたという場所の近くを重点的に調べることにした。
ユカリが倒れていた場所はどこか見覚えがある場所で、それはユカリが絵に書いていた場所だった。ユカリの過去に届きそうで、手がかりを掴めず苦戦していた碓氷は近くのカフェに立ち寄った。そこの店主は最近恋人を亡くしたばかりで、話を聞いているうちにその恋人はユカリであると碓氷は気付いた。ユカリは横浜の病院に通っている時から、店主と心を通わせていた。碓氷は自分が失恋したことを知り胸が痛んだが、ユカリが亡くなる前まで愛する人の近くにいれたことに安堵する気持ちになった。
碓氷がユカリの絵を思い出しながら近くを歩いていると、偶然ユカリの墓石を発見した。ユカリは莫大な遺産で死ぬ間際に墓を購入していたのだった。さらに、その墓の中から碓氷はユカリの遺書を発見する。遺書には、ユカリの直筆で遺産は全て慈善団体に寄付すると書かれていた。碓氷はその字を見て、あることに気付いた。
その時、箕輪が新しい遺書を横取りしようと碓氷の前に現れた。実は箕輪はユカリの遠い親戚であり、自分にお金が一銭も入らない不利な遺言書を破棄しようと探していた。碓氷がユカリの身辺を捜査していることに気付き、碓氷のあとをつけていたのだった。箕輪は力ずくで遺言書を奪おうとするが、碓氷は実は大学時代空手部であっという間に箕輪を返り討ちにした。
碓氷は、ユカリの字を見たときに気付いた真実を確かめるために、葉山の病院を訪れた。そこで確認したのは朝霧由のカルテであった。朝霧由のカルテの中には、碓氷が書いたカルテが挟まっており、診断は脳腫瘍ではなくクモ膜下出血であった。そのことに碓氷が気付いたのは、ユカリの遺書で文字を見たときだった。碓氷が葉山の病院にいるとき、ユカリは文字を読んだことがなかったことを思い出した。ユカリは失読症だった。失読症は脳腫瘍ではなくクモ膜下出血の患者に見られる症状だった。葉山の院長にどうしてこんなことをしたのか問い詰めると、「患者の意思を尊重した」と答えられた。
碓氷は自分が恋したユカリである朝霧由(ゆかり)に会いに行った。ユカリから横浜で亡くなったのは、弓狩環であることを告げられた。親戚に狙われていた弓狩環は恋人であるカフェの店長への危害を案じて、朝霧由に身代わりを頼んでいた。病院側も2人の願いを知り協力していたのだった。そして碓氷に本当のことを言わないと決めたのは朝霧由だった。朝霧由は碓氷の気持ちに気づき、重病を抱える自分と一緒になることは碓氷のためにならないと思い姿を消すことを決めたのだった。碓氷への想いを断ち切ろうとする朝霧由に対して、碓氷は「ではどうしてベッドの下に絵を残したのか?」と聞いた。朝霧由も本当は碓氷に自分の存在に気づいて欲しかったのだった。想いを確かめ合った碓氷と朝霧由は一緒にいることを決め幸せそうに寄り添った。
この作品は研修医の碓氷と脳に重病を患うユカリが出会い、互いの過去と向き合いながら心を通わせていく物語です。作品の序盤は碓氷が研修で訪れた病院でのユカリとのやりとりがメインで恋愛小説として2人の男女の心の変化が描かれているのですが、後半はユカリが突然消えてしまった謎を碓氷が解いていくというミステリー小説のようになっています。1つの作品の中で、恋愛小説とミステリー小説、どちらも要素も密度濃く描かれていて読んでいてすごく引き込まれました。余命わずかなユカリとの心のふれあいを通して、命の大切さや、生きることについても考えさせられる、とても深い作品だと思いました。
作品を読んでから作者の知念さんはお医者さんであることを知り、確かに重病患者や医療現場の描き方にリアリティがあるなと納得しました。また、作品後半にある伏線回収は見事だなと思いました。ミステリーだけではなく、恋愛要素、人間同士のやりとりに重きを置いている内容だからこそ、伏線回収と共に碓氷やユカリの想いに感情移入することができました。
碓氷とユカリが、それぞれ囚われていたしがらみからお互いを解放しあうシーンでは、限りある命を前に「どう生きていくのか」を強烈に意識するシーンでした。特に碓氷は過去に囚われて父親を憎み、そのことを原動力に生きていました。ユカリと出会うまで人間関係も淡泊でどこかクールな印象があり、自分の生きたい人生というよりも、目的のためにただ生きているといった印象でした。父親に対する誤解が解けたこともありますが、ユカリと出会って死というものを意識したことも、碓氷の考え方を変えるきっかけになったように思います。普段生きている中では、人は自分がいつ死ぬかをあまり意識していないと思います。この作品を読んで自分の人生が、しっかりと自分だけのものになっているのか、自分自身に問いかけるようになりました。また、誰にでも訪れる死という人生のゴールに向かって、愛する人とどのように生きていくのかも考えさせられる作品だと思います。
読書感想文のページ
〒144-0035
東京都大田区南蒲田2-14-16-202
TEL.03-5710-1903
FAX.03-4496-4960
→ about us (問い合わせ)