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2010年4月18日 竹内みちまろ
「変身」(カフカ/高橋義孝訳/新潮文庫)です。あらすじはみなさんご存じだと思いますので、簡潔に。「ある朝」にある男が「なにか気がかりな夢から目をさますと」、自分が「一匹の巨大な虫に変っているのを発見し」ました。男の両親と妹は、変身にとまどい、男の部屋に鍵をかけます。収入源を失った一家は、両親と妹が働き始めます。父親は金ボタンのついた制服を着こんで、往年の威厳を取り戻します。一家は下宿人を置きました。妹がヴァイオリンをひいているときに、変身した兄が部屋から出ます。最後は、妹が決断をするかたちで、兄を切り捨てます。両親は、「しだいに生きいきとして行く娘のようすを見」ます。新天地に到着した両親には、真っ先に席を「立ちあがって若々しい手足をぐっと伸ばした」妹の姿が、「彼らの新しい夢とよき意図の確証のように映」りました。めでたし(?)というお話です。
解説にも書いてありましたが、変身してからどうなったという話がひたすら書かれているいっぽうで、なぜ変身したのかという原因についてはいっさい書かれていません。どんな夢だったのかも説明されません。男も、家族も、誰一人として、疑問を持たずに変身を受け入れます。作中で主人公である男が死ぬからだと思いますが、一人称から三人称へと語り手の視点が移ります。
人称のことをおいておくと、一か所だけ、おやっと思ったところがありました。男がヴァイオリンの音色に誘われて部屋を出た場面でした。「音楽にこれほど魅了されても、彼はまだ動物なのであろうか」という一文がありました。「であろうか」というのは、日本語の常識と照らし合わせて考えてみますと反語だと思われますので、「いや、動物ではない(=人間である)」と続くのだと思います。先日、神田で行われた読書会に参加させていただいたのですが、角川文庫と岩波文庫でも、だいたい同じようなかたちで訳されていて、光文社のだけがちょっと違った解釈ともとることができるような形になっているそうでした。訳文を見ていないのですが、「動物」という言葉を、勝手なイメージですが、「アニマル」というような意味あいで使っているのか、「ネイチャー」というような意味あいで使っているのかの違いであるような気がしました。原文がどう書かれているのかと、翻訳者がどういったフィルターをかけているのかは、とりあえずおいておくとすると、「変身」という作品の中では、引用した一文においてだけ、語り手の感情が表出されます。「反語→否定→肯定」という言いまわしになっていましたが、それだけ、印象に残りました。
仮に、小説、もしくは、近代小説というものが、物語批判だとするのであれば、「変身」はこの一文があるからこそ小説たりえているという言い方が可能かもしれません。引用した一文を「変身」から削除すれば、「変身」は「物語」になります。ここでの「物語」というのは、「遠野物語」の「物語」であり、ギリシャ神話の「神話」です。昔、昔、ある所に、ある男がいて、ある日、ある朝、ある夢からさめたら虫になっていました。虫になってからどうなったが語られて、最後は、めでたし、めでたしという感じです。「遠野物語」の冒頭の、赤子を取って食うような山男と、髪の毛を櫛でとかす山女は、村ではなくて異界の住人ということになっています。村があって、異界があって、真ん中に境界線があるのであれば、山男と櫛女はあちら側の世界の住人です。マルティン・ルターは、悪魔を見てインキの壺を投げつけたことがあるそうです。中世の人間たちは、山男と櫛女が見えていたのと同じように、悪魔を実際に目にしていたのかもしれません。そんな世界の物語ですので、男が虫に変身してしまったとしても、おかしくはありません。
しかし、これが、近代になると、悪魔も、山男も、櫛女も、あちら側の住人ではなくて、実は、こちら側にいる人間の心が合わせ鏡で投影されているだけなのではないだろうかと言い始めた人たちが登場します。「変身」の男は、りんごを投げつけられたりするいっぽうで、家具が部屋から持ち出される時に、インキの壺はどうしたのかはわかりませんが、「書き物机」にだけは異常にこだわったりしていて、つかみどころがない、といいますか、わけがわからないのですが、最後には、最愛の人たちから、あちら側の住人として、あちら側に捨てられてしまったのかもしれません。つまらないことをくどくどと並べてしまいましたが、けっきょく、何が言いたかったのかを書きますと、「変身」は、何度読んでも、意味不明なお話だと思いました。みなさんは「変身」をどのように読まれますか?
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