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死にいたる病/キルケゴールのあらすじと読書感想文

2005年5月26日 竹内みちまろ

セーレン・キルケゴール(1813-1855)

 「死にいたる病」(枡田啓三郎訳)の著者のキルケゴールは、デンマーク人です。肩書きとして、宗教思想家、哲学者、詩人などと書かれていました。「死にいたる病」には、「キリスト者とはいかなる状態の人間をさすのか」、「キリスト者になるにはどうすればいいのか」が書かれているように思えました。「死にいたる病」は、2つの編で構成されています。第一編のタイトルは、「死にいたる病とは絶望のことである」です。なんのことだか、さっぱりわかりません。みちまろは、難解な本を読むときには、本文の中のキーワードをわかりやすい言葉に置き換えるという作業をするときがあります。「死にいたる病」は、本文に書かれている情報をおっても理解できそうもなかったので、頭の中で、キーワードを置き換えながら読みました。

「絶望」とは何だ?

 「死にいたる病」の第一編では、「絶望とはどのような状態をさすのか」が、いくつかの段階に分けて説明されているようでした。その中で、「核心に迫る絶望」は2つあると思いました。2つの「絶望」を、みちまろが置き換えた言葉で紹介します。いずれも人間の精神状態をさします。

 「核心に迫る絶望 その1」

  ○ 人間が、自分の「弱さ」から目をそむけている状態(逃避)

  → 「忘却」や「自殺」や「閉じこもり」を生みます。

 「核心に迫る絶望 その2」

  ○ 人間が、自分の「弱さ」を認めない状態(反抗)

  → 憎悪を生みます。(自分以外の)何かを攻撃します。

「いまでは、彼はむしろあらゆるものに向かって荒れ狂いたいのである、彼は全世界から、全人世から不当な扱いを受けた者でありたいのである。彼には苦しみを自分の手許にもっていて誰にも奪われることのないように心がけることこそ重大なのである――だって、そうでなければ、彼は自分の正しいことを証明することも自分自身に納得させることもできないわけではないか」

 現在の日本で起きている数々の悲劇に通じる心理かもしれません。

心理学者の視点

 読み進むうちに、「死にいたる病」は、信仰体験談ではないかと思いました。そう考えると、なんとなく、概要が見えてきました。キルケゴールは、「うつ」や「閉じこもり」に思い悩んだようです。しかし、キルケゴールは、(逃避)や(反抗)を乗り越えたようです。そして、自分を、冷静に見つめたようです。自分を精神分析することは大変に勇気がいることかもしれません。キルケゴールは心理学者の視点を持ち合わせていたように思えました。

じゃー、どうすればいいのか?

 キルケゴールは、「絶望」を受け入れることが、キリスト者になるためのパスポートだと言います。絶望を乗り越えるには、以下の過程が必要です。再び、みちまろが置き換えた言葉で紹介します。

  ○ 自分自身を見つめること(告白)

  ○ 自分自身を受け入れること(憐れみと愛)

 人間は、「絶望」することにより、はじめて、神との関係を築くに値する状態に成れると言います。ちなみに、「理解する」とは「人間的な行為」と定義されています。「信じる」とは、「神に対する人間の関係を表す現象」だそうです。自分を見つめて、自分を愛して、はじめて、人間は、神の前に立てます。そして、(理解するのではなくて)、信じることにより、ようやく、

  ○ 神に赦されます(救済)

 キルケゴールは、日曜日に教会に通うだけで「キリスト者」を量産しているキリスト教界を痛烈に批判しています。孤独の中で一人絶望することによってのみ神との関係は築かれると考えたのかもしれません。

ヨーロッパは死に瀕している

 キルケゴールが生きた時代は、ヨーロッパの転換期でした。デンマークのすぐ下では、ビスマルクのプロイセンが、小国を傘下に治めて、ドイツ民族の統一国家を作り上げようとしています。デンマークは、フランス二月革命の影響を受けて、独裁君主制から、立憲君主国へと移行しました。「自由、平等、友愛」が、全ヨーロッパの問題として提示された時代かもしれません。

 しかし、キルケゴールは、社会の流れに冷酷な視線を送ります。人々は神との関係において全ての人間が平等だということを忘れて、地位や名誉や財貨などの俗物的な「平等」を、政治的に求めているだけだと分析します。

「共産主義は最大限に人間恐怖の専制政治に行きつく(現にフランスがそのためにいかに苦しんでいるかを見てさえすればいい)、そこにこそキリスト教が始まるのだ」

 キルケゴールが憂えたヨーロッパは、帝国主義と社会主義により、めちゃくちゃに引き裂かれていきます。

「芸術の神」はどこにいる!?

 「死にいたる病」を読み終えて、一番心に残ったことは、キルケゴールの「詩人の視点」でした。これは、「死にいたる病」という本の中心命題からは、はずれていると思います。でも、みちまろの心には、一番残りました。

 キルケゴールは言います。

  ○ 逃避(核心に迫る絶望 その1)

  → 心の中に、悪魔的な苦悩に満ちた「弱さ」を生み出す。

  ○ 反抗(核心に迫る絶望 その2)

  → 心の中に、悪魔的な苦悩に満ちた「狂暴性」を生み出す。

 しかし、同時に、そのような「悪魔的な状態」に陥った人間を描写することが、

  ○ ほんとうの詩人に課せられた役割である

 とキルケゴールは言います。

 キルケゴールは、詩人だったようです。「死にいたる病」の解説を読むと、キルケゴールの詩は、キルケゴールが悪魔的な憂鬱の中に閉じこもっていたときに生みだされたようです。

 キルケゴールは、

  ○ 悪魔的な苦悩を描く「詩人」

 と

  ○ 悪魔的な苦悩を克服する「キリスト者」

 は、両立できないと認識したようです。

 「詩人」である限りは、「キリスト者」には成れないという矛盾に、キルケゴールはもだえ苦しんだようです。

 話が飛ぶのですが、三島由紀夫は、「ほんとうの文学」について、以下のように書いています。長文ですが、引用します。

「ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣きせずにズバズバと見せてくれる。しかしそれを遊園地のお化け屋敷の見せもののように、人をおどかすおそろしいトリックで教えるのではなしに、世にも美しい文章や、心をとろかすような魅惑に満ちた描写を通して、この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷちへ連れて行ってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが「よい文学」である」 (「若きサムライのために」)

 詩を捨てて、文学を捨てて、一番おそろしい崖っぷちから、「絶望という名の橋」を渡った人間だけが「キリスト者」になれると、キルケゴールは言いたかったのかもしれないと思いました。


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