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2015年9月25日 竹内みちまろ
「残穢」は、ライトノベルを中心にホラーや大人向けの作品など幅広く活躍する女性作家の「私」によって語られる、ドキュメンタリー形式の物語です。
発端は、「私」の元に2001年末に届いた、読者である久保さん(30代女性/編集プロダクション勤務のライター)からの手紙でした。久保さんは2001年11月に引っ越しをした都内の岡谷マンション204号室に「何かがいるような気がする」と連絡してきました。
「残穢」では、現代に起きた怪奇現象を発端として、現象が起きた岡谷マンションや隣接する岡谷団地のことを調べながら、町の歴史やそこで起きた事件をさかのぼるというストーリーになります。
「私」は作家仲間や浄土真宗系の出身大学のネットワークを使って情報を集め、久保さんは現地で聞き込みを重ねるなどし、現代から初めて、バブル期、高度成長期、高度成長期以前、戦前、明治大正期と辿っていきます。存命の老人や住職たちから話を聞くことができる限界に達した後は、知り合いの作家で怪談や怪奇現象を収集する平山夢明氏と福澤徹三氏がフィールドワークによって収集した情報を教えてもらうという形で、ストーリーは進みます。
久保さんは、畳の表面を何かが擦るような音を聞くといいます。和室を覗いてみると音のするようなものは何もありません。気のせいかと思ってリビングで仕事に取り掛かると、しばらくしてまた同じ音がしました。2002年春に、和室の床を何かが這うのを見ます。それは、垂れた帯のように見え、白っぽい生地に銀か白味を帯びた金で細かい刺繍が入っているような気がしました。
久保さんの話に既視感を覚えた「私」は、読者から寄せられた「怪談話」を調べます。久保さんと同じ岡谷マンションでしたが、401号室に住む尾嶋さん(20代終わり/1児の母)から1999年7月に送られてきた手紙に、似たような出来事が記されていました。
尾嶋さんは、半年前に岡谷マンションに引っ越してきて以来、2歳になる娘の美都ちゃんが、何もない宙を見つめて「ぶらんこ」と言い、美都ちゃんのたどたどしい言葉を総合すると、美都ちゃんの目にはそこにぶら下がって揺れている何かが見えているらしいと記されていました。
「私」は、久保さんが見たものと、尾嶋さんの手紙を考え合わせ、和服の女性が首を吊っており、解けた帯が床を擦っている、と考えるのが自然だろうと思いました。
岡谷マンションは「首都近郊にある何の変哲もないベッドタウン」にあり、駅から歩いて15分ほどの場所で、岡谷団地と隣接していました。「私」は岡谷マンションには「人が居着かない」と噂される部屋があることに注目します。
久保さんの前に204号室に住んでいた家電量販店勤務の梶川亮さん(27歳)が、岡谷マンションから引っ越したあと、引っ越し先のアパートの部屋で、首を吊って亡くなったことを知ります。梶川さんは、岡谷マンションに引っ越したゴールデンウィークの頃から何かに悩み始めた様子で、夏頃からしばしば欠勤するようになり、勤務先に近いアパートに転居するも辞職。アパートの下見をした際に、アパートに赤子や子どもがいるかどうかを気にしていたといいます。
「私」は、岡谷マンションが建つ前、この場所には何があったのかを調べます。敷地は、バブル崩壊後から岡谷マンションが建つまでは駐車場でした。バブル期には角地に建つ小井戸家以外は、地上げの影響もあり更地。バブルが始まる頃には、小井戸家の他に、根本家と藤原家がありました。
狭小住宅が6棟集まった岡谷団地は、1997年に完成していました。分譲で入居が始まりましたが、岡谷団地も人が居着かないと噂されていることを知ります。
さらに、尾嶋さんと連絡を取ることができ、美都ちゃんがお気に入りのぬいぐるみの首にひもをかけて「ぶらんこ」と言って遊び始めたり、尾嶋さんが、岡谷マンションの部屋で、いるはずのない赤ちゃんの泣き声を聞いたことを知ります。
岡谷団地を入居後わずか1年で出て行った飯田章一さんが、転居先で、妻の栄子さんと6歳になる息子の一弥君を鋭利な刃物で刺殺した後、家に火を放って、自身も首を吊って死んだことを知ります。
「残穢」は、今までに読んだことのあるホラー小説にはない怖さを感じました。これまでに体験してきたホラー小説なり、ホラー映画なりは、起伏に富んだストーリーがあって、謎が解き明かされていく過程で主人公たちも恐怖を体験し、殺人などのいわゆる恐怖場面が克明に描写されたり、惨い運命をたどった人物の怨念が描かれたりしていました。
しかし、「残穢」には、主人公たちがおどろおどろしい恐怖に戦慄したり、恨みを持って死んでいった者たちの死に様や生き様が克明に描かれることはありませんでした。代わり描かれていたのは、昔話を知る老人や住職たちの回想や、「私」や久保さんの近況でした。
そんなストーリーを通して、高度成長期に岡谷団地が建つ前にあった住宅で、何かが床の下を這い回っていたことや、そのよりもさらに昔にあった植竹工業(1922年−大正11年創立)の鋳物工場で「大勢の人間が呻いているような声」が聞こえたことや、鋳物工場の前にあった吉兼家の広大な屋敷の中で、三男で精神病を患っていた友三郎が自宅にて監禁されていたことなどが語れらます。友三郎は、恨みを言う声が「焼け、焼け」と命じると訴え、床下を徘徊することを好んだそうです。
ここまでは、通常のホラー小説として読むことができました。ただ、クライマックスの場面では、ホラー小説や怪談話が持つ恐怖を超えて、戦慄しました。
「私」と久保さんは、平山氏と福澤氏の助けを借りて、福岡県の奥山家が所有していた炭鉱の入り口跡と言われる場所に来ます。
奥山家は、友三郎の継母にあたる三喜(みよし)の実家です。三喜の父の奥山義宜は、小さないながらも独立した炭鉱主でした。しかし、義宜は明治末か大正初めに一家を皆殺しにし、家に火を放とうとして果たせず、自殺していました。
当時の炭鉱では、劣悪な環境で労働者たちが地下深くまで潜っていました。奥山家の炭鉱でも、義宜が一家を皆殺しにする20年程前に、多くの死者を出した事故が起きていたようです。炭鉱で火災が発生すると、周りが石炭だけに手が付けられず、効果的な方法は、炭鉱の入り口を塞いで酸素を絶つことと言われていました。奥山家では、逃げ遅れた工夫たちが中にいることを承知で坑道を塞いだようです。
奥山家のものと伝えられている炭鉱の入り口跡を前に、「私」は、「昔はここから地下へ坑道が向かっていたのだ。死と隣合わせの地底へ」と思います。「草原の中に唐突に現れた遺物は、『出る』と噂される廃墟よりも存在感が大きかった」と記されていました。
生きたまま見捨てられた工夫たちの恨みが、奥山家の家屋や、三喜が嫁入り道具として持参した絵に伝わり、さらに、1952年に死体遺棄で逮捕された長屋の住人・中村美佐緒によって殺された嬰児たちの恨みを生み出し、そのうえ、「赤ん坊の泣き声がするのよ」と被害妄想に駆られて黒紋付きのまま帯締めを鴨居にかけて首を吊って死んだ高野トシヱの恨みを生み出す、というふうに、「穢れ」がどんどん連鎖して伝染していきます。
長屋から別の場所へ転居した方保田(かとうだ)家の18歳の長男が、1957年3月に、両親と5人の兄弟を鈍器状のもので殴って殺し、家に火をつけました。精神鑑定の結果、「強度の精神分裂症」と診断され不起訴になりましたが、長男は、床下から「焼け、焼け」と命じられたと言いました。工夫たちの恨み自体も、床下を這い回り「焼け、焼け」と命じる声となって、方保田家、政春家、飯田家へと受け継がれていきます。
ただ、発端となった炭鉱での“事故”を除くと、その後に起きた現象はどれも、“事件”だと思いました。不起訴になったものはありますが、放火にしろ、殺人にしろ、自死にしろ、それはすべて、たとえ近隣で起きたとしても、自身が関係者ではなりかぎり、「そんな事件が起きたのだ」と自分とは無関係な情報として消化することができると思いました。不謹慎かもしれませんが、ニュースでも、そういった報道はたくさん見かけます。
一方で、炭鉱での出来事は、業務上過失致死に問われることはあるのかもしれませんが、殺人に問われることはないのかもしれないと思いました。しかし、地下深くに潜った工夫が逃げ遅れていることを知りながら坑道を塞ぐことは、まぎれもない殺人だと思います。もちろん、助けることは不可能だとわかっていても、家族は助けてほしいと泣き、経営者は家族の涙を押し切って坑道を塞いだのだと思いました。
そして、そんな歴史を持つ小さな坑道跡は、「私」には、怪談話や幽霊話よりも、存在感が大きなものでした。
現代を生きる私たちは、豊かな暮らしを享受していますが、そんな社会は、明治以降の文明開化にしろ、戦争にしろ、戦後の復興にしろ、何らかの形で、社会が豊かになる裏で繰り返されてきた“事故”という名の“犠牲”、もっといえば、“事故”という名の“殺人”の上に、成り立っているのかもしれないと思いました。
そう考えると、工夫たちの恨みは、私達にも向けられており、「残穢」という作品が怖ろしいのは、根底に、豊かな生活を送る現代人すべてへの疑問、あるいは文明そのものへの疑問が投げ掛けられているからかもしれないと思いました。
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