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2013年8月13日 竹内みちまろ
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、17歳の「僕」ことホールデン・コールフィールドが、「君」へ語る、一人称の回想の物語です。「僕」は現在、精神分析医から治療を受けており、9月から新しい学校へ通うことになっています。本編で語られる内容は、「僕」の「具合がけっこうまずくなって、療養のためにここに送られくる直前に起った」3日間の出来事。内容は、寄宿制の学校を退学になり、遠回りをしながら3日間かけて、ニューヨークの家に帰るまでの間に起った、昔の恋人とのかみあわない会話や、ホテルのエレベーター係とのやりとり、「僕」の観念的な思索などが中心となります。いわゆるストーリーものや恋愛小説ではありません。「ライ麦畑でつかまえて」の題での邦訳もあります。
ペンシルヴェニア州のエイジャーズタウンにあるペンシー・プレップスクールの3年生で16歳だった「僕」は、クリスマス休みに入る直前、成績不良で同校を退校処分となりました。「僕」にいわせると同校は「ころ泥の巣みたいなもの」とのことでしたが、「僕」が汽車の中で出会った人をはじめ多くの人がペンシー校を「いい学校」と褒めたたえます。ちなみに、「僕」が前の学校であるエルクトン・ヒルズ校を止めた理由は「そこがインチキ野郎の巣窟だったから」
土曜日でした。「僕」は全校あげて応援に駆け付けるフットボールの対抗試合の日に、歴史担当のスペンサー先生の家に別れの挨拶に行きます。寮に戻った「僕」は、部屋で過ごしていましたが、夜9時半過ぎ、寮生のストラドレイターが戻り、「僕」が軽口で挑発する形でけんかになります。気が付いたら「僕」は床に倒れ、馬乗りにされていました。ストラドレイターは「お前、いったいどうしたっていうんだ?」と言い続けますが、「僕」は「いいからどきやがれ。この低能野郎」などと泣き叫び続けます。「僕」は、「この低能野郎!」「何が黙れだ」「それがお前ら低能連中の問題点だ。話し合うってことができないんだ」「低能のゴミ野郎」などと泣き叫び、血だらけになるまで殴られました。「僕」は、クリスマス休暇が始まる水曜日を待たず、このままペンシー校を出て行ってやろうと心を決めます。荷物をまとめるときに母親が2日前程に送ってくれたスケート靴があり気が滅入りました(レース用がほしかったのにホッケー用を送ってきたという間違いはありましたが、「僕」は母親が店員の「百万くらいとんちんかんな質問をしている光景」を思い浮かべます)。そして荷物をまとめた「僕」は、寝静まった夜の寮へ、「ぐっすり眠れ、うすのろども!」と叫んで、出ていきます。
駅まで歩いた「僕」は夜行に乗ります。かばんに貼っていたペンシー校のステッカーを見た在校生の母親から声を駆けられ、偽名を名乗り、その女性が休みは水曜日からではと疑問すると、手術を受けるためと嘘をつきました。
「僕」はニューヨークのペン・ステーションで電車を降ります。タクシーを利用して、エドモント・ホテルにチェックインしました。パーティーで一度会っただけのプリンストンの学生からもらった女の電話番号にかけ、カクテルに誘いますが断られます。ホテルのナイトクラブに行き、シアトルから来た3人組の女に声を掛けます。さんざん笑われながらも3人とダンスを踊り、「ホールの向こう側に映画スターのゲイリー・クーパーがいるよ」などと嘘をついて彼女たちの気を引きます。「僕」は閉店前に慌てて3人の酒と自分のコークを2杯分ずつ注文しましたが、3人は運ばれてきた酒を飲むと、そのまま立ちあがって会計をせずに帰ってしまいました。「僕」はロビーにしばらくいましたが、ロビーにいるのにうんざりして、部屋へ戻りコートを着込んで、ハイウッドに行く前のDBが熱心に通っていた「アーニーズ」というナイトクラブへ行きます。
アーニーズでは、DBのガールフレンドだったリリアン・シモンズから声を掛けられます。が、リリアン・シモンズがずっと通路をふさいで話をすることにうんざりして、「待ち合わせの約束がある」と、引き上げてしまいました。ホテルまで41ブロックを歩いて帰ります。エレベーター係から、女を「ちょいの間が五ドル、一晩で十五ドル」ともちかけられ、とことん落ち込んでいた「僕」は、「いいよ」と答えます。「僕」は童貞でしたが、部屋にやってきた女が、唐突に頭からドレスを脱ぎ始めると、興奮するより気が滅入ってしまいました。「君は毎晩働いているの?」など声を掛けますが、女は気味悪がり、金は払うけど、手術を受けた直後だからそっちの方はしないことを告げました。女は10ドルを要求しましたが、「僕」は5ドルしか払いませんでした。しかし、夜、エレベーター係と女が部屋にやってきて、「ちょいの間が十ドル」と言ったといんねんをつけられ、財布の場所を知っている女が、五ドルを抜き取ってひらひらとふりながら、「わかった? あたしがとったのは、もらって当然の五ドルだけだよ。あたしはこそ泥じゃないもんね」と口にします。「僕」は出し抜けに泣きだし、「ああ、たしかにこそ泥じゃないさ」「ただ僕から五ドルを盗んだだけで――」と言いましたが、エレベーター係から「うるせえ」と突かれて、殴られました。
日曜日。朝の10時くらいに目が覚めます。メアリ・A・ウッドラフ校に通っていますが、2週間前ほどに手紙で家に戻っていることを知っていたサリー・ヘイズに電話を掛け、デートの約束をします。荷物を駅のロッカーに預けた後、サンドイッチ・バーで朝食を取っていると、2人の尼さんが隣に座ります。尼さんはとても親切そうな顔をしており、「僕」は、「ひょっとして募金をしていらっしゃるところじゃないかと思ったんです」と声をかけ、10ドルを寄付としてなんとか受け取ってもらいました。
店を出ると正午くらいで、2時の待ち合わせまでまだ時間があります。「僕」はブロードウェイの方向へ歩きます。どこかの教会から出て来たばかりとおぼしき一家がすぐ前を歩いていました。貧しそうに見えますが、両親は2人で話をし、後ろを歩く6歳ほどの男の子には注意を払っていませんでした。その子は、小さな子どもがよくやるように、車道に出て歩道の縁のすぐ脇を、歌を歌いながら、必死に一直線になろうと歩いていました。「僕」は何を歌っているのか気になって、子どもに近寄ります。「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら」という歌でした。なかなかかわいらしい声ですが、すぐ脇を車が通り過ぎ、ブレーキの音も響き渡ります。でも、両親はまったく子どもに注意を払っていません。子どもは、「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら」と歌い続けます。それを聞いていると、「僕」は気持ちが晴れてきました。
ブロードウェイの人ごみはすさまじいものがありました。「僕」は最初に入ったレコード店で『リトル・シャーリー・ビーンズ』のレコードを見つけ、妹のフィービーのために買います。「僕」には、機転が効いてかわいらしいフィービーのほか、2歳年下で頭脳明晰で性格も明るいアリーという弟がいました。しかし、アリーは、「僕」が13歳のときに亡くなってしまいました。その時、「僕」は、ガレージの窓ガラスを一枚残らず割ってしまい精神分析にかけられそうになるほどショックを受けました。一家では「僕」だけができが悪いとのことですが、ハリウッドで作家をしている兄のDBは、だいたい週末にはペンシー校の「僕」を訪れていました。DBは、4年間の軍隊生活の中で、ノルマンディー上陸作戦にも参加しましたが、戦争よりも軍隊のほうを憎み、兵役中に休暇で家に帰って来たときにはほとんど一日中、ベッドで横になっていました。「僕」は、現在のDBが作家として「身売りみたいなことをしている」と嘆き、なんで「グレート・ギャツビー」にほれ込んでいるのに、「僕」に「武器よさらば」なんていう「インチキ本」をに読ませたのだと憤慨しています(DBはむっとして「お前はまだ子どもだから良さがわからないんだ」と回答)。裕福な父親は弁護士で、ブロードウェイの芝居に投資することもたびたび。母親はアリーが死んでからぴりぴりすることが多くなっています。
「僕」は、『アイ・ノウ・マイ・ラブ』の公演のチケットを2枚買います。それから、タクシーでセントラルパークに行きます。フィービーのお気に入りの場所を回りますが、フィービーの姿はなく、何人かの子どもたちがスケートをしていました。フィービーくらいの年ごろの女の子に「フィービー・コールフィールドって子を知ってる?」と尋ねると、「ミュージアムに行ってるはずだよ」「インディアンがいるところ」と教えてくれました。日曜日に課外授業でミュージアムに行くことはありませんが、「僕」はかまわず自然歴史博物館へ向かいます。中を歩いたあと、タクシーで、サリーと待ち合わせたビルトモア・ホテルに向かいます。
ビルトモア・ホテルのロビーで、サリーと合流しました。タクシーで劇場へ向かう途中、「少々いちゃつき」ます。公演が始まり、幕の合間にロビーに出ると、「こんなにたくさんの嘘くさい連中が一堂に会したところを、きっと君は目にしたことがないはずだ」というくらい「壮観」でした。そこで、名門プレップスクールに通うサリーのボーイフレンドに会い、サリーはその男と話し続け、「僕」は、「ほとんどサリーのことが嫌いに」なってしまいます。
しかし、舞台が終わると、サリーから、ラジオ・シティーでアイススケートをしようと誘われ、スケートに行きます。サリーは、「ねえ、ひとつはっきりしておきたいんだけど、あなたはクリスマス・イブにうちに来て、ツリーの飾り付けを手伝ってくれるの、くれないの?」などと聞いてきます。「僕」は、「君はさ、何かにうんざりしちゃったことってあるかい?」などと聞き返します。「僕」は、「僕は学校ってのが大嫌いなんだ」などと語り始めますが、サリーから「なにを話しているのか、よくわかんない」「あなたったらひとつの話題から別の――」と言われています。「僕」は唐突に、「いいことを思いついた」「二人でここを抜け出そうじゃないか」ともちかけ、知り合いから車を借り、銀行から金をおろし、金が尽きたら何か仕事を見つけて、「小川が流れたりしているような土地に二人で住み、そのあとで結婚とかすりゃいいんだよ」などと「まじな話」を語りだします。サリーは、「そんなのできるわけがないじゃない」と気を悪くします。「僕」は大声で、「どうして?」と聞き返し、「お願いだから大声を出さないでよ」と告げられます。サリーは、「あなたがカレッジを出て、私たちがもしも結婚して、そういうふうになったあとなら」などとたしなめます。が、「僕」は、「いや、そうはならないね。先になったら、行きたい場所なんてもうそんなにあるもんか」と強情になり、しまいには、「君みたいなスカスカ女には限りなくうんざりだよ」と言ってしまいます。サリーは怒って帰ってしまいました。
「僕」は、アドレスブックを見て、消去法で3つ年上のカール・ルースに電話をしました。夜の10時に会って一杯やることはできるとのことでしたので、「僕」は、ラジオ・シティーに映画を見に行きます。その後、シートン・ホテルのウィッカ―・バーへ行きます。ルースは、じきにやってきますが、待ち合わせがあるためここには少ししかいられないことを告げます。「僕」は、「よう、君のためにゲイを一人とっておいたぜ」「セックス・ライフはどんな具合?」などと聞き始めます。「リラックスしろって。頼むからさ」とたしなめられますが、「専攻はなんなの?」「変態学?」などと「冗談」を続け、「お前はいったいいつになったら大人になるんだ」と言われてしまいます。精神分析医の父親を持つルースは、精神分析を受けることをそれとなく勧め、帰ってしまいました。
「僕」は、午前1時くらいまでバーにいて、それからサリーに電話をし、「僕」がよくやる銃で撃たれた場面の妄想を言葉にしたりしますが、「はいはい。じゃあね。うちに帰っておやすみなさい」と切られてしまいました。クロークに行く頃には泣き出していました。コートと『リトル・シャーリー・ビーンズ』のレコードを受け取り、店を出た「僕」は、セントラルパークに入りました。そこでレコードを落として割ってしまいました。人影ひとつなく、すっかり酔いもさめていた「僕」は、歩いて行ける距離の実家へ向かいました。
玄関のカギを開けて入ると、中は静かで真っ暗でした。ただ、玄関の独特の匂いを感じます。両親はパーティーに行っており、「僕」は、BDの部屋に行きました。DBがハリウッドにいるとき、フィービーはいつもBDの部屋で寝ていました。DBの部屋の明かりをつけても、フィービーは目を覚ましませんでした。「僕」は、フィービーのノートを読んだりした後、フィービーを起こします。すると、フィービーは、「ホールデン!」と、「僕」の首に抱き着きました。「お母さんはあなたは水曜日に帰ってくるって言ってたのよ」というフィービーに、「早いめに出てきたんだよ」などとごまかしを言います。フィービーは今日見た映画の話や、学校で男の子に階段で押された話などを夢中でします。が、「学校を追い出されたんだわ!」と気が付き、「お父さんに殺されちゃうわよ!」と枕を頭にかぶってしまいました。「僕」は、「またさんざん雷を落としてからどっかのミリタリー・スクールにでも放り込むくらいさ。せいぜいその程度のことしかできやしないんだ。それにだいいち、僕はこんなところにいつまでもうろうろしているもんか。さっさと消えちまうよ。だからさ――たぶんそのコロラドの牧場とかに行っちゃうわけさ」と伝えますが、フィービーに「ふん、笑わせないでよ。馬にだって乗れないくせに」と言われてしまいます。
フィービーから「ほかのことをあげてみて。将来何になりたいかみたいなこと」と言われた「僕」は、「ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ」と告げます。何千人もの子どもたちがいますが、ちゃんとした大人は「僕」ひとりしかおらず、「僕」は崖っぷちに立っていて、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもがいたら、どっからともなく現れてそん子をさっとキャッチするという「ライ麦畑のキャッチャー」。そういうのを朝から晩までずっとやっている存在になりたいと心から思うことをフィービーに聞かせました。
「僕」は、かつて英語を習った先生で今はニューヨーク大学で教えているミスタ・アントリーニに電話をしました。夜中でしたが、ミスタ・アントリーニは、相当長い時間がたってから電話に出て、「何かまずいことでも起こったのか」と聞いてきました。事情を話すと、「おや、まあ」「これからうちにおいで」などと告げます。「僕」はいったんDBの部屋に戻り、フィービーとダンスを4曲踊ります。フィービーに息の乱れはありませんでしたが、たばこを吸い過ぎていた「僕」は息を切らせていました。
玄関から両親が帰って来た気配がしました。「僕」はクローゼットに隠れ、母親が部屋に入ってきます。母親は、「どうしてこんな遅い時間にまだ起きているのかしら?」「この部屋で煙草を吸った? 正直に言いなさいね」などフィービーを問い詰められますが、「一本ちょっとつけてみただけ。一回だけ吹かしたの。それから窓の外に捨てちゃったわ」「眠れなかったから」などと、フィービーが機転を利かせます。「僕」は家を出ることにし、「お金をいくらか持っていないか」と聞きます。フィービーは、「全部持っていきなさいよ」と持っていた全額の8ドル65セントを渡します。「僕」は、声を押し殺して泣きました。「僕」はミスタ・アントリーニの家で、話をしながら過ごしたあと、少し眠ります。そして、空が明るくなり始めたころミスタ・アントリーニの家を出ました。
月曜日。「僕」は西部へ行こうと決めます。その前に、フィービーに別れを言うことにします。「僕」も通ったフィービーの学校へ行きます。時計を見ると12時前で、手紙に、西部へ行くこと/12時15分に美術館の入り口に来て欲しいことを書き、校長室へ行き、タイプライターを打っていた女性にフィービーへの手紙を言付けました。
フィービーはスーツケースを持って現れました。「わたしも一緒に家を出て行くことにしたんだ。いいでしょう。ね?」と告げてきます。一緒に連れていってというフィー日をなだめるうちに、「ねえ、僕はどこにも行きやしないよ。気持ちが変わったんだ」と口にします。フィービーを連れて公園に行き、フィービーを、フィービーが昔好きだった回転木馬に乗せます。どしゃぶりの雨が降っていきましたが、「僕」は、回転木馬の屋根に逃げ込むことをせず、ずっとベンチに座って濡れていました。
「僕」の問題は何なのだろうと思いました。学校の勉強に関して言えば、「僕」は、自分の好きなことや得意なことにしか興味が持てないということはありそうですが、やればできるし、もともとの頭は悪くないと思いました。家が裕福ということもあり、近所の家からも存在を認められ、夜中に電話をする恩師もいます。パーティーから帰ってきてフィービーを問い糾す様子を聞く限り、母親は、頭ごなしにしかりつけるような人ではなく、子どもに対して「どうしたの?」と聞くことができる人のようでした。兄のDBはつらい戦争体験を持っていますが、「僕」に本を進めたり、どうしてこんな本を進めたんだと文句を言われたら腹を立てていました。腹を立てるくらいなので、「僕」という存在を認めて、「僕」へ本気で向き合っているのだと思います。フィービーは天使のように愛らしく、「僕」を癒します。
それでも、「僕」は、何かをごまかすために嘘をついたり、目の前にいる人の現在とちゃんと向き合わずに昔の話題を持ち出したり、サリーとも会話をすることができず、それでいて、大声を出した逆上したりしていました。精神のバランスが崩れているようにも見えますが、人と話しをしたり、仲間をつくって学生生活を楽しんだり、何かを誰かに相談したりなど、いわゆるみんなが当たり前にやっていることが、普通にできていません。それでいて、尼さんに寄付をしたり、子どもの姿に見とれたりします。「僕」の問題の根本の原因はどこにあるのだろうと思いました。弁護士をしている父親のことだけがほとんど何も語られていないことが気になりました。
「僕」が「ペンシーではこの「切り捨て」がけっこう頻繁におこなわれる」と語るように、アメリカという国は、自ら行動を起こして努力する者には手をさしのべますが、怠け者にはとことん冷たい国なのかもしれないと思いました。アメリカだけの話ではないのかもしれませんが、誰しもが将来の夢や成りたいものを語ることができるわけではなく、将来の姿を思い描けない人や、そもそもそれ以前に問題を抱えている人たちはたくさんいるわけで、そういった人間たちにとっては、何もしないまま時間ばかりが過ぎてしまい、気がついたら怠け者になっていてしまっていることもあります。「僕」は、大人や社会はみなインチキ野郎だと思っていますが、夢や希望を持って社会に参加していくこと自体に疑問を持ってしまっているのかもしれません。生まれつき感受性が高かったのか、後天的に何が原因があるのかはわかりませんが、「僕」は少なくとも、周りの多くの人たちが何の疑問も持たずに成長していくなかで、そういった人間たちの「成長」というものそれ自体に、例えば、それは言葉の上では「成長」ですが実態は社会の歯車になるためのトレーニングでしかない、などと、頭では理解することはできなくても、本能的に思ってしまっているのかもしれません。
何がよくてどうあるべきかは、一概に言えることではなく、正解があることでもありませんが、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の「僕」は、決してみんながみんな好ましいと思っているわけではない現代社会に、ある意味では正直に拒否反応を示しているのかもしれません。心では分かるし、心情的にも共感できても、たとえ否定したくても現代社会で生きるしかないことがわかっている人間たちは、割り切って、あるいは、最初から疑問など持たずに、生きているのかもしれません。そんな中、「僕」の「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいという言葉は心に染みました。振り向いてほしいのは「僕」であり、つかまえてほしいのも、守ってほしいのも「僕」なのかもしれないと思います。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という言葉は、つかまえる人というような感じかもしれませんが、「ライ麦畑でつかまえて」というヴァージョンの邦題は、つかまえてほしいと願う心が反語的に反映されているのかなと思いました。
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