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檸檬/梶井基次郎あらすじと読書感想文

2011年1月21日 竹内みちまろ

 現在を生きる「私」がいて、主人公です。物語世界のすべてを見届けた「私」がいて、語り手です。リアル世界に存在する知的生命体である梶井基次郎がいて、せっせこ原稿用紙に書くのは、この語り手である「私」ということになります。描かれているものは、人間、とでもいえましょうか。

 「檸檬」は、「えたいの知れない不吉な塊(かたまり)が私の心を終始圧(おさ)えつけていた」という一文から始まります。「私」は病気と借金をかかえていて、生活がどうにもならないようです。「以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった」そうです。

 現在を生きる「私」は、目に移るものにいろいろなフィルターをかけます。例えば、京都の街を歩きながら、「仙台とか長崎とか」、そんな遠くへ行く錯覚を起こそうと努めます。

 読み始めて、まず、この錯覚を「起こそうとする」という現象が、奇異だなと思いました。

 想像したり、思い浮かべたりするのではなくて、錯覚を能動的に起こして「そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ」と書かれています。錯覚は、どこか遠くへ行きたいというのと同時に、現実を(たとえ少しの時間でも)忘れたいという気持ちの反映なのかもしれません。

 また、錯覚を超しているときに、花火やおはじきなど、昔の記憶が蘇ることもあるようです。

「私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落魄(おちぶ)れた私に蘇(よみがえ)ってくる故(せい)だろうか、全くあの味には幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が漂って来る」

 語り手である「私」はすべてを見届けていますし、自分自身についてですので、ここで「蘇ってきた」と断言することは可能です。しかし、ここでは、「だろうか」と疑問形にして、さらに、文を「。」で切らずに接続しています。

 なんで、この語り手は、「だろうか」などと、あえてあいまいに語るのだろう、まだ自分自身で整理ができていないためか、もしくは、ここはあいまいにしておきたいところなのか、などと思いました。こういった語り方は、「然しその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う」など、何回かありました。

 また、「だろうか」という語り方ともう一つ、この語り手は「詩的な美しさ」というものにこだわっているなと思いました。

 「檸檬」は続きます。

 「私」は目に映る風景にいろいろなフィルターをかけるのですが、ある時、「何時になくその店で買物をした」そうです。買った物は、もちろん、「檸檬」。その店とは「見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかった」。

 「私」は、冒頭付近で、「何故(なぜ)だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている」と語っています。「見すぼらしくて美しいもの」というのは、例えば映画によく登場するような「死んでいない死者」と同じで、相反する言葉だと思うのですがそれはさておき、その八百屋は「見すぼらしくはないまでもただあたりまえ」でした。

 そこに「檸檬」があった。「私」は、唐突に、「一体私はあの檸檬が好きだ」と語ります。語り手である「私」が好きなのか、主人公である「私」がその時点で好きだったのかは、不明です。

 けっきょく、「私はそれを一つだけ買うことにした」そうです。

 とにもかくにも、「檸檬」が特別な存在であることはわかりました。

 語り手は、回想します。

「あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一『か』で紛らされる――或(ある)いは不審なことが、逆説的な本当であった。それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう」

 「檸檬」のストーリーはここから展開を始めます。

 語り手は、再び過去形に戻って、「その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった」などと「檸檬」という存在を描写します。

 また、その「檸檬」が「私」に巻き起こす現象、「レモンエロウ」に象徴される異国(カリフォルニヤ?)を思い起こす錯覚、「たとえようもなくよかった」冷たさ、におい。「私」は、「何度も、何度もその果実を鼻に持って行っては嗅(か)いてみた」と語ります。

「実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚(きゅうかく)や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと云いたくなった程私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから」

 語り手の回想ですが、ここで「しっくり」という言葉で出てきました。「檸檬」というものは、「あの頃」の「私」(語られる「私」)にとっては、「しっくり」する存在であったようです。

 また、語り手である「私」は、語られる「私」の興奮をさんざん描写しておきながら、急に、冷静になって「あの頃のことなんだから」などと意味深な語り方を始めたりもしています。

 「語り手」である「私」にとっても、「檸檬」という存在は、いまだ整理がつかなほどの不思議な存在であった、そして今もあり続けている、ということでしょうか。

 「私はもう往来を軽やかに興奮(こうふん)に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を闊歩(かっぱ)した詩人のことなど思い浮べては歩いていた」

 やはり、「詩」にこだわっているなあ、と思いました。

 それはそれでさておき、「私」は気がついたら、「平時あんなに避けていた丸善」の前にいました。

 ここからの展開はみなさん、ご存じのとおりです。

 興奮を引きずったまま丸善に入った「私」の現実は、しかし、そうにもならなかったようです。「私」は錯覚を能動的に起こそうと努めますが、徒労に終わりました。

「そうだ」

 「私」はポケットの中に入っている「檸檬」を思い出しました。それから、「檸檬」を取りあげて、画集などでつくった山の上に「恐る恐る」据えつけます。

「不意に第二のアイディアが起った。その奇妙なたくらみは寧ろ私をぎょっとさせた」

 錯覚を起こしたくても起こせなかった「私」に、ふいに、ひらめきが起きたようです。自分でも「ぎょっと」したアイデア。

 このひらめきが能動的に起きたものなのか、天から勝手にふってきたものなのかは、それはもう頭では説明、あるいは、解明することはできません。あえていえば、ストーリーの神様から授けられたということでしょう。

 ともかく、「私」は、「変にくすぐったい気持がし」て、「『出て行こうかなあ。そうだ出て行こう』」などと、やけに煮え切らない言葉を残し、「すたすた出て行った」。

 この「すたすた出て行った」も、そっけいないといいますか、やけにここだけ「檸檬」全体から浮いている描写なのですが、それはさておき、その「変にくすぐったい気持」が丸善を出た「私」をほほえませます。「私」は丸善が大爆発する様を熱心に想像していました。

 「私」が、といいますか、語り手によって語られる主人公の「私」が、やけにすがすがしいと思いました。

 語り手である「私」は、物語世界のすべてを見届けていますので、もちろん、丸善が爆発しないことなど承知のうえです。しかし、それでもなお、丸善が爆発する様を熱心に想像していた「私」を語ります。

 「檸檬」は、以下の一文で終わります。

「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」

 「檸檬」の語り手である「私」は、街を喝破した詩人の気分であったといような「私」の気持ちも、どこか遠くの清潔な宿へ行きたいというような「私」の錯覚も、作品の中では語らずに、「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている」という風景などを通して、冷静に描写しているだけでした。

 主人公の「私」は、現実を忘れるために錯覚に酔いしれることも、風景にフィルターをかけてどこか遠く、もしくは、はるか昔を思い起こすこともしていないところが、印象的でした。

 爆発するわけがない丸善が爆発する様子を熱心に追求する「私」。そして、そんな主人公である「私」を見つめる語り手である「私」。

 「檸檬」を読むと、「檸檬」の主人公の前にあった現実はどうにもならなくて、(そして今も語り手の目の前にあるのであろう現実)も、同じなのかもしれません。それが、「奇体」という言葉に表れているような気がしました。

 また、それゆえに、主人公は、現実から一瞬、連れ出してくれるかのような錯覚を果実の美しさの中に期待したのかもしれません。また、爆発するわけがない丸善が爆発する様子を熱心に想像する主人公である「私」を見つめる語り手である「私」の「まなざし」も印象的でした。

 「檸檬」という物語を通して、梶井基次郎は、人間というものを描いたのではないかと思いました。


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