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2005年12月23日 竹内みちまろ
「和解」は、主人公である「自分」が一年前に死んだ赤ちゃんの墓参りのために上京する場面からはじまります。麻布の家に電話をかけて、「お祖母さんは如何ですか」と母に聞きます。母は、墓地の他にもどこかに寄るのですかと聞きます。そして、意を決したようにして、今日は家に父親がいることを告げます。「自分」は、「そうですか。又その内に出て来ましょう」と答えます。「自分」と「父親」には、顔を合わせることも出来ないような確執があるようです。同時に、それは、本人たちの心の問題であり、母や祖母など周りの人間たちは、もう、腫れ物に触るようにして、ただ、おろおろするしかなす術がないような雰囲気を感じました。
「自分」は、締め切りに追われる職業作家です。妻と暮らしています。二人目の赤ちゃんが物語の中で生まれます。「自分」には、最初の赤ちゃんが死んだのは、赤ちゃんを列車で東京に連れて行ったせいで、そうさせたのは父と自分との関係を赤ちゃんを利用して修復しようとした家族のもくろみのためだと決め付けます。棺を赤坂へ運ぶように言われたのも、父が麻布の家に棺を入れるのを拒んだためだと逆上します。父も父で、まわりの迷惑を顧みずに、意固地になって「自分」へ対する威圧的な態度を強めていきます。タイトルにあるように、そんな二人が「和解」をする物語でした。
今回は、技術的なことを書いてみたいと思います。「和解」では、冒頭の場面から、「父」と「自分」の確執が語られます。読み進めていくと、こだわりを持つあまりにどうしても「父」を許すことができない主人公の姿が、描かれていきます。「妻との結婚が父との不和の最近の原因」と書かれていた場面もありました。また、十一年前に「自分」が「父」を傷つけて、「父」も「自分」を傷つけたことが書かれていました。しかし、最後まで、確執は何かは語られません。作家は、読者には確執が生まれた経緯を何も説明せずに、叔父や友人たちを含めて、誰一人として、どちらか片方の肩を持たないことや、「父」は「自分」のせいだと決め付けて、「自分」は「父」のせいだと決め付けている以上、二人が顔を合わせれば、お互いに意固地になっていくだけの状態が続いていることをひたすら描きます。
主人公の回想を利用して、最初の赤ちゃんが死ぬ場面もありました。その段落は、「自分は泣いた。実母に死なれた時のように泣いた」という文で終わっていました。実母が死んでいる以上、冒頭の場面で電話をした「母」は、(いわゆる)産みの親ではないことがわかりました。しかし、そんな情報を読者に伝えるのにも、物語が中盤に差し掛かったときに、赤ちゃんを失ったことがどれだけ悲しかったのかを描写する場面を利用しています。最低限の情報は読者に提示する必要はあると思いますが、それすらも、読者を物語に十分に引き込んでおいた上で、エピソードを描写する中で間接的に伝えています。このあたりは、作家としては、細心の注意を払うところなのかと思いました。
ちょうど、川端康成の「伊豆の踊子」もそんな構成だった気がします。「伊豆の踊子」では、孤児根性がどうのこうのと語られる場面はありますが、主人公の性格や生い立ちはほとんど語られません。「その3」とも関わるのですが、小説の命は、「説明」ではなくて「描写」であり、過去の出来事や、人物関係などの説明は極力避けて、登場人物のそのときそのときの姿を描きあげることに全力を尽くすという姿勢を感じました。
印象に残っている場面が二つありました。一つは、赤ちゃんが死ぬ場面、もう一つは、クライマックスで「和解」をする場面です。
赤ちゃんが死ぬ場面では、「自分」たちは、東京から離れた場所にいます。東京の医者が来ないうちに、地元の医者が来てくれました。赤ちゃんは、唇が土色になり、お腹が異常に膨らんでいます。
「K子から芥子(からし)をはったらどうかと云って来たがね。親類にそれで助かった児があるんだ」
医学的な知識がないので詳しいことはわかりません。何かの本で、化学療法とは別の医療を信じるドイツ人の医師が、病人の体にからしを塗ることが紹介されていたように思います。ただ、あとは本人の生きようとする意志の問題と医者が判断を下した赤ちゃんにからしを塗ることがどれだけの効果があるのかはわかりません。神にも仏にもすがりたい主人公たちの気持ちが、痛いほどに伝わってきました。「自分」らは、必死になって、赤ちゃんに、からしを塗ります。長くやりすぎると焼けどのようになると心配しながらも、背中だけはもう少し貼っておきましょうと言ったりします。感情を抑えて、客観的、かつ、冷静に描かれていました。
また、「和解」が成立した場面では、「ありがとう」と言って何度も自分にお辞儀をする母親に自分もお辞儀を返したら、思わず、母親の頭に口をぶつけてしまったことが書かれていました。読んでいて、思わず、ぷっと吹き出しそうになりました。長年の確執が解けて、涙を流しながら喜ぶ場面を冷静に描いているだけに、真面目な顔をしながら、さぞかし、ばつの悪い顔をしたのだろうななどと思いました。深読みになるかもしれませんが、「人生なんて振り返ってみれば喜劇だよ」とでも言うような、命の現実に対する作家の冷静な視線を感じました。父親との確執という感情的にならざるをえない素材を一人称で書きながらも、一方で、物語に登場する「自分」をあくまでもフィクションととらえて、「自分」を離れた場所で見つめるという作家の視線の距離を感じました。「喜劇」とも思えるような場面をあえて描くことにより、読者の視点を、主人公とあわせることを防ぎ(=感情移入させない)あくまでも、読者には、作家としての自分と同じように、物語の「自分」を離れた距離から見てもらうための技巧かもしれないと思いました。
ラスト・シーンで和解が成立する場面も、結構、あっさりと描かれていました。読者には誰にも感情移入をさせずに、読者の視点を、あとはもう二人の心の持ち方の問題であり私達にはどうすることも出来ないと悟りきっている「自分」と「父」を取り巻く周りの人間たちに合わせることにより、二人が心の持ち方を変えた和解の場面に、説得力を与えているのかもしれないと思いました。それだけに、「自分」が、「父」の瞳の中に、無意識のうちに求め続けていた「或る表情」を見つけて涙を流すというわずか三行の文章が、読者を感動させるのかもしれないと思いました。
「和解」では、職業作家である自分が「夢想家」と題した小説の構想をあたためる場面があります。「夢想家」に関する記述は、最初から最後まで、ほぼ全編にわたり、登場します。「自分」は、父との確執を材料にした小説を書こうと思い、それに「夢想家」という題名をつけました。しかし、どうしても書くことができませんでした。「自分」は、仕事の中で父に私怨を晴らすことはできないと考えます。仕方がないので、別の材料に切り替えて、締め切りに間に合わせたことが語られました。しかし、それ以来、自分は「夢想家」にこだわります。架空の人物を作り上げて、「自分」は、第三者として物語を書くつもりでいます。それでいて、クライマックスを考えているときに、ふいに、主人公の青年が父親と泣きながら抱き合う場面を思い浮かべて、涙ぐんだりします。しかし、それほどこだわった「夢想家」も、父との「和解」が成立したあとで、急に、書き続ける気持ちが失せたことが語られました。
解説を読むと、志賀直哉は、実際に、「夢想家」にあたる小説を書き続けており、また同時に、それを書いている途中に、「和解」で書いたように父親と「和解」をしたそうです。そのために、「夢想家」にあたる小説をそのまま書き続けることができなくなり、べつの主題を立てて、書き直したようです。「暗夜行路」という題名がつけられました。解説を読み終えて、個々の作品はそれぞれに完成しているのですが、個々の作品の先には、それら一つ一つを包み込むような、もっと大きな物語世界が、作家の中には存在しているのかもしれないと思いました。「和解」の中で父親との確執を語らなかったのも、大きな物語世界の中のどこかに配置された作品の中で確執がすでに語られているので、あえて、「和解」の中では、書かなかったのかもしれないと思いました。読者を引き付けるのは、作家の心の中にある個々の作品を超えた大きな物語世界なのかもしれないと思いました。
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