読書感想文のページ > 山月記
2007年8月26日 竹内みちまろ
李微(りちょう)は、天才としてその名が知られていました。若くして位の高い役人に任命されましたが、官職で終わってしまうのをよしとはせずに、辞して辺境の地に引っ込み人との交わりを絶ちました。李微は、詩家として死後100年に名を残そうと、ひたすらに詩作にはげみました。しかし、詩家としての名はいっこうにあがりません。詩作に絶望した李微は、生活の困窮もあって、再び官職につきました。かつての仲間たちは出世をしています。下の職にしかつけなかった李微は、自尊心を傷つけられて、ますます尊大になっていきました。李微は、公用で旅に出たときについに発狂してしまいました。わけのわからないことを叫びつつ、どこかへ行ってしまいました。
李微の友人であった男が旅に出ます。虎になった李微に出会います。李微は一日のうちに数時間だけ人間の心が戻ると告白しました。李微は、詩を口述するのでそれを世に伝えてくれないかと友人に頼みました。友人は30編あまりの詩を筆記しました。なるほど、格調があって、一読して作者の非凡を思わせる作品でした。しかし、友人は、李微の素質が一流であることには疑いがないが、李微の作品が一流の作品になるには何かが足りないと感じました。
口述を終えた李微は、突然に自分をあざ笑うかのような声をあげました。自分はいまだに自分の詩集が長安の風流人たちの机の上に置かれているさまを夢に見ることがあると告げました。李微は、自分の運命は当然の報いだと告白します。人間だったころに尊大だったのは、実は、臆病と羞恥心の表れであったことを告げます。才能の無さに気づくことが恐くてあえて苦学しなかったし、反面では、自分の才能を過信するあまりに人と交わることもしなかったと白状します。李微は、人間は誰でも猛獣使いだと言います。猛獣にあたるものはそれぞれの性格であり、自分の場合は臆病で尊大な羞恥心が猛獣であり、虎であったと告げました。李微は、この姿に成り果ててようやくにわかったと友人に告げます。自分は、その性格のために、持ち合わせていたわずかばかりの才能を空費したと語ります。世には、才能の面では自分よりも劣るが、それを絶え間なく磨いたために、堂々たる詩家となった者がたくさんいると告げます。虎に成った今になってようやくにそのことに気がついたことが、どうしようもなくやりきれないともだえました。
「山月記」を読み終えて、一流の作品を作ることの難しさを感じました。李微は、才能の面では光るものがあったのだろうと思います。辺境の地に退いて、その才能を信じて詩作に没頭したことは間違いないと思います。しかし、そんな作品は、一流にはあと一歩のところで届かないものでした。一流の作品を生みだすには、才能だけではだめなのだと思いました。作品には、作者が人間としての自分を磨いている度合いが表れてしまうのかもしれないと思いました。心は長安にありながらも辺境に引っ込んでしまった李微は、社会との交わりを絶って、人間としての自分を磨く機会を自ら捨て去ってしまったのかもしれないと思いました。才能の面ではかえって李微よりも劣る詩家たちは、逆に、長安に出て、先人の教えに耳を傾けて、作品の稚拙さを笑われながらも、ひらすらにそれを肥やしとして、自分と自分の作品を高めていったような気がしました。例えば、連続ドラマのヒロインに抜擢された演技経験のない素人が、はじめのうちはぎこちない表情をしていても、連続ドラマが終わろうとするころには、堂々たる女優の顔になっているというようなことはあると思います。作品も、作者である自分自身も、人に見られてはじめて成長し、そんなことの積み重ねがいつか堂々たる作者を作り出して、そして、一流の作品を生みだすのではないかと思いました。詩家であれば作品がすべてであり作者の人間性は問題ではない、というのは反論することが難しいのですが、「山月記」を読んで、作者が自分自身を磨かなければ一流の作品は生みだせないのだと感じました。
李微の場合は、傲慢で尊大だと思われていた性格の裏に、臆病な羞恥心があったことが語られます。官職を辞したのは詩家としての志をまっとうするために必要だったのかもしれません。しかし、辺境に引っ込んで人との交わりを絶ったのは臆病な羞恥心からでした。周りからは尊大で傲慢だと思われていたところがせつないと思いました。李微の臆病な羞恥心の裏には何があったのだろうと思いました。李微にはコミュニケーション能力が欠如していたのかもしれません。人とどう交わったらいいのかがわからなかったのかもしれません。一流の作品を生みだす才能を持ちながらも、一流の作品を生みだす方法を知ることなくして無鉄砲な行動に出てしまったように思えました。臆病な羞恥心にとらわれた李微の性格が、かえって、李微を一流の作品を生みだす方法から遠ざけてしまいました。李微は、虎になってしまいました。虎になってはじめて、一流の作品を生みだすには、自分の性格(たとえそれが虎であったとしても)をコントロールして、自分を厳しく律して、自分を磨いていかなければいけないと気がついたところに、「山月記」の味わいの深さがあると思いました。
ひとつだけ、感じたことがありました。「山月記」のなかで、李微は、友人に30編あまりの詩を筆記してもらいました。それらは李微が辺境の地で作成した作品でした。30編を伝えたあとに、李微は、「お笑い草ついでに」とことわりをつけて、今の気持ちを即興の詩に述べてみようかと告げます。「山月記」には、全編をとおして、李微の作品はこの即興の詩しか登場しません。即興の詩で何が語られているのかは、漢詩を不勉強な私にはわかりません。即興の漢詩の前後の文章は、友人が下吏に命じて書き取らせたことと、冷たい風が夜明けが近づいていることを告げていることを描写しているだけです。友人が即興の漢詩をどう受け止めたのかは、書かれていません。中島敦は、あえて、即興の漢詩の評価を「山月記」のなかではせずに、ちょっと違和感を持つほどにそれだけをそっけなく提示しているように思えました。中島敦が漢詩を作品の中に用いている以上は作者の意図が反映されていると思いますが、それは読者が自分で考えなさいという形で提示されていると思いました。漢詩に造形の深い人たちならば、中島敦の心の奥底には、李微への同情があったのか、李微と距離を置く厳しい心があったのか、人間というものへのやるせない気持ちがあったのか、それぞれに何かを感じられるのだろうと思いました。
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