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落窪物語のあらすじと読書感想文

2019年3月11日

落窪物語のあらすじ

 「新版 落窪物語(上)(下)」(角川ソフィア文庫・室城秀之訳注)の現代語訳部分のあらすじと読書感想文です。

「落窪の君」と「あこき」

 「源中納言」には、昔、皇室の血を引く女の元に通っていた。女との間に娘が生まれていたが、女は亡くなった。中納言は他の娘たちは寵愛する一方、その娘は間口が2間の落窪の間に住まわせていた。娘は「落窪の君」と呼ばれていた。落窪の君には乳母はいなかった。母親が生きているころからの召使である「あこき」という女童が片時も離れずに付いていた。

 長女と次女を結婚させていた中納言は、三女の婿に「蔵人の少将」を迎えた。中納言の妻で落窪の君の継母となる北の方は、落窪の君に、自分の娘の結婚の準備や婿の世話などのため、寝る間も与えずに縫物をさせた。

 蔵人の少将に仕えている帯刀(惟成・これなり)があこきを妻にした。帯刀の母親は、左大将の息子である右近少将の乳母。右近少将はまだ北の方がいなかったが、帯刀が落窪の君のことを詳しく話すと、いたく同情し、帯刀に、落窪の君とのとりもちを頼んだ。

落窪の君の救出

 右近少将は、落窪の君の元に通い始めた。そのことに気が付いた北の方は、子どもたちの使用人にしようと思っていた落窪の君が男によってどこかに連れ去られたら大変だと、落窪の君を、酢や酒や魚などを置く部屋に閉じ込めたうえで、屋敷に住んでいた貧しい60歳ほどの伯父「典薬助(てんやくのすけ)」を落窪の君と結婚しろとそそのかし、落窪の君を襲わせようとした。

 落窪の君が典薬助に襲われそうになっていることを知った右近少将は、中納言たちが賀茂の臨時の祭り見物に出かけた隙に、落窪の君を車で中納言邸から連れ出し、二条殿に移した。

 落窪の君は二条殿で暮らし始め、あこきが侍女を集めて仕えた。あきこは一人前の侍女になり「衛門」と名付けられた。

少将の復習:面白の駒(中納言の四女)

 右近少将と、中納言の四女の縁談話が持ち上がった。右近少将は、落窪の君にひどい仕打ちをした中納言の北の方に復習するために、中納言家に色よい返事をして、縁談を進めた。落窪の君は、止めるよう願ったが、右近少将は、自分の母親の叔父の長男で「面白の駒」と呼ばれていた兵部少輔と四女を、無理やり、結婚させてしまった。

 「面白の駒」は、馬のような顔をしており、世間から笑いものにされていたが、中納言は、「あんな者に捨てられてしまったと、世間で笑いものにされたら」と諦めて、受け入れた。四女は懐妊した。

少将の復習:蔵人の少将(中納言の三女)

 右近少将は、中将に昇進して三位になった。

 中納言の三女の婿である蔵人の少将が、中将の妹の「中の君」に求婚した。中将は、蔵人の少将に三女を捨てさせたいと思い、強引に縁談を進め、蔵人の少将と「中の君」を結婚させた。中納言家の北の方は、生霊となって取り憑いて苦しめてやりたいと悔しがった。

少将の復習:清水詣での車争い

 正月下旬の吉日、中納言家の北の方、三女、四女などが連れ立ってお忍びで清水寺に参詣したが、中将と北の方となっていた落窪の君も同じ時に清水詣に向かった。

 中納言家はお忍びだったため前駆もなくこじんまりとした一行だったが、中将の方は盛大な人数。中納言家はひとつの車に何人も乗っていたため、牛も苦しそうで、坂道をなかなか上がれない。後から来た中将の車が、中納言家の車を押しのけて先に行き、「牛が弱いなら、代わりに、面白の駒に車をお引かせになったらどうですか」など痛烈な言葉を浴びせかける。

 清水寺でも、中納言家が前もって予約しておいた局を中将たちが占拠してしまい、権勢を傘に立てて、中納言家の一行を追い返した。

落窪の君の出産

 落窪の君が懐妊。中将の母である左大将の北の方が、賀茂祭の行列を見物する際、落窪の君も呼ぶように、中将に告げ、落窪の君と左大将の北の方や姫たちとの対面が実現。皇室の血を引き、高貴で美しく、かわいらしい落窪の君を、北の方たちは親しく迎えた。左大将も落窪の君を丁寧にもてなした。

 落窪の君は正月13日に、長男を出産。

 中将は、春の司召しにて、上席の人々を飛び越えて中納言になり、衛門督を兼任。蔵人の少将は中将になり、宰相として上達部の列に加わった。左大将は、左大将のまま、右大臣に昇進。

 翌年の秋、落窪の君は、次男を生んだ。

少将の復習:賀茂祭りでの車争い

 賀茂祭りの際も、衛門督は、老中納言家の車を無理やりどかし、さらに、典薬助をこらしめ、老中納言の北の方の車を壊した。落窪の君は、賀茂祭りでの出来事を知って、ひどく嘆いた。

落窪の君の三条の家

 落窪の君の実の父親である老中納言は、もの思いばかりして、めったに宮中に出仕しなくなった。

 老中納言の北の方は、落窪の君が伝領した三条の家を、「あの子はもう亡くなってしまったのだから、私は自分の物としてもかまわないだろう」と、荘園からの2年分の収入をすべてつぎ込んで大改装を実施。老中納言は、娘たちを連れて移り住む準備を始めた。

 老中納言の移転計画を聞き知った衛門は、衛門督に、三条殿は落窪の君の母親が落窪の君のために残した屋敷であることを説明し、「あの屋敷を中納言殿のものにはさせたくありません」と告げた。衛門督が「地券はあるのか」と尋ねると、衛門は「ちゃんと確かにあります」と答えた。衛門督は「それなら、こちらの言い分が充分に通りそうだな」と口にし、老中納言の動向を探るように命じた。落窪の君は、衛門は性格が悪くなり、衛門督は「容赦のない」と嘆いたが、衛門督が落窪の君をお人よしさを笑うと、衛門は心得て、落窪の君には何も告げずに、老中納言の動向をさぐりにかかった。

 衛門は、老中納言たちの引っ越しが6月19日だと突き止めた。衛門督は、落窪の君に、ある人がすばらしい屋敷をくれたので6月19日に移ろう、と話した。衛門は、つてをたどって老中納言低で働いていた侍女たちを集め、さらに現在、仕えている侍女たちも引き抜き始めた。

三条殿の所有権

 移転の前日、衛門督は従者たちを三条殿に行かせ、こちらで所有している屋敷に何の連絡もなしに移り住むとは何事か、と言わせた。従者たちをそのまま三条殿に居座らせた。三条殿は、とても見事に造りかえられていた。

 老中納言の従者たちは、老中納言低に逃げ帰り、今さっき起きた出来事を老中納言に告げた。老中納言は、三条殿の地券はないが、今はもう生きてはいない自分の娘のものなので、自分以外に所有することはできないはずだと考え、衛門督の父親の右大臣に相談した。右大臣はそっけく返事をしたものの、息子の衛門督に話をした。衛門督は、地券が手元にあることを告げると、右大臣は、その地券を早く老中納言に見せるようにさとした。

 翌日、老中納言の長男の越前守が衛門督を訪れた。衛門督は、近いうちに地券を老中納言に見せると告げた。落窪の君が、父親である老中納言の不憫をなげくと、衛門督は、三条殿はいずれ老中納言に返すつもりであることを告げ、老中納言には、あとで充分に孝行すればよいと話した。

 衛門督と落窪の君たちは三条殿に移り、3日間、移転の祝宴を催した。老中納言たちはその間、運び込んでいた荷物を返してもらえなかった。

老中納言、衛門督の北の方が落窪の君だと知る

 そのうちに、老中納言は、衛門督の北の方が落窪の君だと知った。老中納言は、三条殿は落窪の君のものなので、衛門督と落窪の君が移り住むのは当然だと思った。一方、落窪の君をいじめていた継母である老中納言の北の方は落窪の君を恨み、衛門督にひどい目に遭わされていた老中納言の娘たちは、衛門督の北の方となった落窪の君たちとの付き合いが始まることを忌々しく思った。

 衛門督は、老中納言の長男の越前守に、老中納言に三条殿に来てもらうよう言伝をし、手紙でも老中納言を三条殿に招いた。

 老中納言が三条殿を訪れ、衛門督と老中納言の対面が実現した。落窪の君も帳台の中にいた。衛門督は、落窪の君が持っている地券に書かれた内容から、自分が三条殿を所有するにふさわしいと思っていたところ、自分に何の断りもなしに老中納言が三条殿に移るとは自分も軽んじられたものだと思い、いたたまれなくなって三条殿に移ったと老中納言に告げた。とはいえ、落窪の君がなげいているため、地券をさしあげましょう、と老中納言に申し出た。

 老中納言は、地券をもらうわけにはいかないと辞退し、死んだと思っていた落窪の君と再会できたことを喜んだ。老中納言は、几帳から出た落窪の君と対面し、さらに、孫になる衛門督と落窪の君との間の3歳の男君とも対面した。衛門督は、老中納言と酒を酌み交わし、越前守をもてなした。

老中納言と三条殿の交流

 老中納言と越前守が三条殿を訪れるようになり、両家の親交が始まった。落窪の君は、継母である老中納言の北の方や、姉妹にあたる老中納言の女君を気遣い、会いたいと告げた。老中納言の北の方も、落窪の君が恨んでいないことを知り、気持ちをやわらげ、手紙のやり取りをするようになった。

 衛門督が落窪の君に、世間の人は年老いた親のために行う孝行を本当の孝行と言っていると告げ、老中納言のために、長寿のお祝いをはじめ、様々な慶事を並べ上げ、落窪の君に、あなたがやりたいとおもっていることをやらせてあげましょうと提案。落窪の君は喜び、法華八講が、老中納言の現世のためにも、来世のためにもよいと答えた。

 また、帝が重い病気にかかって退位し、春宮が天皇の位に。新帝は、衛門督の妹の女御が産んだ一の宮。女御は后に立ち、新帝の弟である女御の二の宮が春宮になった。衛門督は大納言に昇進。新帝の大納言への新任が厚く、大納言の縁者たちが軒並み昇進し、大納言の一族が権勢を謳歌。老中納言もそんな大納言の舅であることをとても誇りに思った。

老中納言と法華八講

 老中納言のために、8月21日に、法華八講が行われることになった。会場が三条殿では、老中納言の北の方や娘たちが容易に来ることができないだろうと、場所は、老中納言低で行うことにし、大納言が老中納言低を改装させた。

 法華八講では、経1部を1日にあて、無量義経や阿弥陀経などの付け加えた経に1日をあて、9部の講説を行った。合わせて、九柱の仏画を描かせ、九部の経を書かせた。八講は日が経つにつれて尊さがまさるので、終わりのほうは、上達部なども参上、中宮からも遣いが来た。

 法華八講が盛大に幕を閉じると、右大臣が、年のため兼任がきついからと、近衛府の大将の任を大納言に譲った。

 大将は、老中納言が70歳になったことを聞くと、世間の人が、なんでこんなに頻繁に、と思ったとしても、老中納言はいつ亡くなるかわからないので、70歳の祝いをすることを落窪の君に提案した。老中納言の70歳の祝いは、11月11日に三条殿で行った。落窪の君は、大将が70歳のお祝いを催してくれたことをとても嬉しく思った。

 70歳の祝いが終わると、老中納言の病気が重くなった。老中納言は、大納言になれずに死ぬことだけが心残りだと口に。大将は、自分の大納言の職を老中納言に譲った。老中納言は大将に感謝し、息子や娘たちに、子どものうちで落窪の君だけが格別の世話をしてくれる、私が死んだら私の代わりとして落窪の君に仕えてくれ、と告げる。老中納言の北の方は、「憎らしい。早く死んでしまえ」と思った。

 老中納言が重病に伏し、落窪の君が見舞いに訪れた。娘たち5人で老中納言を看病したが、老中納言は、落窪の君がさし上げた湯漬けだけを食べた。

 老中納言は、もはやこれまでという状態になった。老中納言は、生きている間に遺産を分けることにし、長男の越前守を枕元に呼び、所々の荘園や地券、石帯などで少しでもまもとなものはすべて落窪の君に遺すことを告げた。

 老中納言は、11月に亡くなった。

落窪の君の栄華と、落窪物語の結末

 老中納言の長男・越前守は、老中納言の遺志に従い、荘園の地券や石帯などを大将に渡した。大将は、落窪の君が三条殿はみなさまが長く住んでいる場所なので私がいただくだけにはいかない、と言っているので、三条殿の地券を返すことにすると告げた。越前守が、一連の経過を教えると、老中納言の北の方は、嬉しいけれど、しゃくに触る気持ちもあり、「落窪の君が、こうしてくださったのですか。なんともまあうれしいことですね」と皮肉を口にした。越前守は不快感を顕わにし、「母上は、まともな神経をお持ちではないのですか」などとたしなめた。地券は、大将の手から返された。

 司召しが行われて、大将の父親の左大臣が太政大臣に、大将が左大臣に昇進。左大臣は、太政大臣をしのぐ権勢を誇った。左大臣は、太政大臣が60歳になったので、60歳の賀を催した。左大臣と落窪の君の長男は12歳で童殿上した。老中納言の男君たちはそれぞれ出世した。左大臣は、老中納言の三の君と四の君に立派な婿を世話したいと思い、老中納言の北の方に相談して、四の君に婿を世話した。

 左大臣家には慶事が次々と起こった。左大臣の太郎君は14歳で元服し、次郎君も続いて元服。大君は13歳で裳着をした。大君は、帝のもとに入内した。

 左大臣は太政大臣に昇進。大君が后に立った。老中納言の三の君を中宮(后)の「みくしげ殿」にした。

 落窪の君が「母上は、ひどくお歳を召されたようです。後世の功徳のことをお考えください」というので、太政大臣は、盛大な儀式を催して、老中納言の北の方を尼にしてあげた。老中納言の北の方は感謝し、嬉しく思っていたが、「継子を憎んではいけない。継子というものはありがたいものだったよ」と言う一方で、「魚が食べたいのに、私を尼になさったよ。自分が腹を痛めていない子は、こんなにも意地悪なものだったのだ」とも言ったという。

 太政大臣の2人の男君は、左大将、右大将へと揃って出世していった。例の典薬助は、蹴られたことが原因で病気にかかって死んでしまったというが、今では200歳となってまだ生きているという噂もあるとか。

落窪物語の読書感想文

 「落窪物語」は、読み終えて、1000年前の昔の人に、妙な親近感を持ちました。

 落窪の君をいじめていた継母は、落窪の君の恩返しを嬉しく思っていても口から出るのは悪態で、尼になってからは、年を取ったようで、恩返しの言葉と悪態の両方を(自分でも認識がないまま?)口にしていた様子も伺えました。子どものころを思い出して、近所にも、こういう女の人がいたなあと思いました。

 落窪の君の夫となる左大臣は、若い頃は、落窪の君が「そんなことはしないでほしい」と懇願するのに、ときに落窪の君の言葉を軽く流し(内実はまったく耳を貸さない)、しまいには落窪の君には内緒で、次々と復習を遂げていきます。自分が行うことに一切の疑問を持たず、相手の反応や結末も含めてすべてが自分の思い通りになることを当たり前と思っている人物。こういう人も、「職場にいたよなあ」と思ってしまいました。 落窪の君の実家となった老中納言の家の人たちも、母親が落窪の君をいじめていたことを地方へ赴任中だったため知らず、実家に戻ってきてから慌てて両家の間を行き来する老中納言の長男の越前守や、落窪の君が虐待される様子を見て不憫に思い何かと力になろうとするけなげな落窪の君の腹違いの幼い弟、ごく潰し状態の典薬助、そしてその典薬助がお祭りだったり、継母が悪だくみを思いついたとたんに急に生き生きして活発になっていく様子、現代の花見の場所取りではありませんが祭り見物の車の場所取りなどは、早くに場所を取っていたり、順番をちゃんと守っていたりしても、結局は大人数で、声が大きくて、勢いばかりの人たちに割り込まれてしまう様子なども、それぞれ、「現代社会でも、こういう人、いる!」、「現代社会でも、こういうこと、ある!」と思いました。

 また、社会構造と言いますか、社会の在り方についても、現代社会と同じなのだなと思った点がありました。中でも一番大きな発見だったのは、1000年前にも、建物と土地の所有権を証明する「地券」というものがあったことでした。さらに、どんなに状況証拠があり、経緯があったとしても、「地券」という書類がある限り、裁判になると「地券」がものをいうことも、現代社会に通じると思いました。今、「通じる」と書きましたが、「通じる」というよりは、1000年前の社会も現代社会と同じなのだなと思いました。

 そう考えると、1000年という時間は、人間社会の構造や、人間たちの思想や行動原理も、目に見えて変わるには、ぜんぜん短い期間ということでしょうか。1人の人間の寿命という観点から考えると、1000年はとほうもなく長い時間です。が、種として考えると、1000年は短いのかもしれません。そう思うと、1人の人間が一生の間に成し遂げることができるものはほとんどないのかなと感じました。でも、それでも人間は生きて、そして、人生の中で何かを成し遂げることを求めるのかもしれません。はかないかもしれませんが、だからこそ、人間たちの生き様というものは、愛しくて、尊いものにもなるのかもしれないと思いました。


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