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(6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(捨松)

竹内みちまろ

 会津藩の若手指導者の1人・山川大蔵(おおくら)は、ロシアや欧州を訪れており、会津藩では数少ない洋行経験者で、山川家は合理的な家庭環境にありました。山川大蔵は日光口へ出陣中で、祖父の山川兵衛、弟の山川健次郎(後の東京帝国大学総長)は鶴ケ城(会津若松城)に入っていました。

 山川家の女たちは新政府軍が押し寄せたときに、祖父・山川兵衛から城へ入り男たちを助け、照姫を守れと言い渡されていました。そのため、いち早く、大蔵の母・山川艶、姉・山川二葉(双葉・夫は主席家老の梶原平馬、この時すでに離婚していたとう説あり)をはじめ、三和、操、妹の常盤、咲子、妻・とせの7人が城に駆け込みました。山川兵衛は進歩的な人物で、洋式銃の優秀性を説き導入を積極的に主張した人物。また、山本八重子同様、山川家の女たちは、自害を考えなかったそうです。

 大蔵と共に日光口に出陣中で、後に操と結婚する小出鉄之助(佐賀の乱で戦死)の妹・小出たかも、父の言いつけを守り、母の「とみ」といっしょに鶴ケ城に入城しました。

 二葉は薙刀を抱え、17歳の操も髪の毛を切り腰に大小を差しての入城。皆、口を開けて驚いたそうですが、驚いている暇もなく、二葉らは、炊事、負傷兵の救護らに忙殺されたようです。白米の貯蔵はなく(籠城を想定していなかったほど会津藩はお粗末だったようです)、玄米を釜で炊いて、水で手のひらを冷やしながら握り飯を作りました。

 戦闘が始まると、城内のことは、松平容保の姉の照姫が仕切りました。山川艶ら上層部の女性たちが黒紋付きに白無垢姿で照姫に付き、大小を差して城内を駆け回りました。鶴ケ城は大混乱に陥りますが、その中でも、子どもたちは風さえ見つければ、勇ましい武者が描かれた「凧(たこ)」を上げ、鐘楼では70余歳の老人が鐘を突き続けました。

 しかし、山川家にも犠牲が出ます。とせが砲撃を受けてほぼ即死。死者は城内の空井戸にそのまま葬られましたが、とせの遺体は鎧櫃にいれて葬られたとのこと。

 また、17歳の操は炊事が性に合わない性格で、どこかから見つけてきた鎧を身に着け、目を離すと鉄砲をかついで城壁にへばりついたとのこと。鉄之助が佐賀の乱で戦死後、未亡人となった操はロシアへ留学。のちに、宮内省の女官になります。

 降伏した会津藩は、後年、山川大蔵、梶原平馬、広沢安任、永岡久茂ら東京在住の新首脳部の努力で藩再興の希望がかないます。津軽海峡を臨む下北半島を中心とする旧南部藩の3万石が領地と定められ、松平容保の実子・容大(かたはる)を藩主に斗南(となみ)藩ができました。旧会津藩士は家族を含め2万人ほどいたそうですが、17000人が移住を決意。本州の北端を目指しました。

 山川大蔵は斗南藩の最高責任者に選ばれました。浩と名前を変えた大蔵は、妹に勉強の機会を与えるため、北海道開拓が始まっていた函館へ、咲子を送りました。北海道開拓に情熱を持っていた黒田清隆は、アメリカの西部開拓を見習うため留学生をアメリカに送り、「女子も留学させよ」という黒田の一言で女子留学生の派遣が決まりました。留学期間は10年。山川咲子(12)、吉益亮子(15)、上田悌子(15)、永井繁子(9)、津田梅子(8)の5人が選ばれました。咲子の母は、「今生の別れ」かもしれないと、咲子から、捨松と改名しました。

 山川捨松は、明治15年(1882)、12年の留学を終え帰国。鹿鳴館の華として活躍し、薩摩の大山巌と結婚。会津藩の名誉回復に貢献しました。


→ (1)会津落城


→ (2)会津落城−戊辰戦争の悲劇


→ (3)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ


→ (4)女たちの会津戦争−照姫、若松賤子、日向ユキ


→ (5)女たちの会津戦争−西郷千恵


→ (6)女たちの会津戦争−山川艶、山川二葉、山川咲子(大山捨松)


→ (7)女たちの会津戦争−中野竹子、中野優子


→ (8)女たちの会津戦争−神保修理、神保雪子


→ (9)女たちの会津戦争−高木時尾


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