読書感想文のページ > 海を感じる時
2006年8月25日 竹内みちまろ
「海を感じる時」をはじめて読んだのは高校生のときでした。衝撃を受けました。年上の男性との体だけのセックスに溺れていくヒロインの姿も印象的でしたが、いつまでも心に残ったのは、一人称で語られる自分自身へ向けた醒めた視線でした。「海を感じる時」は、二つのストーリーが併走する小説です。一つは、ヒロインと男性との関係です。もう一つは、ヒロインと母親との関係でした。
男性との関係のはじまりは高校の新聞部の部室で起こりました。三年生だった男性は、一年生のヒロインに好奇心からキスをせがみました。生真面目な男性は、うつむきながら「君じゃなくともよかったんだ」と打ち明けずにはいられませんでした。ヒロインも、男性でなくても、キスをさせてあげた自分を感じていました。しかし、そのときから、自分でも何がなんだかわからないほどに、男性との関係を求めてしまいます。
「あたし、あなたが欲しいと思うなら、それでいいんです。少しでもあたしを必要としてくれるなら身体でも」
(私はまばたきをするのも忘れて、高野を見ていた。性への欲求があるときは、いつも目を細める。――そんな目をしないでほしい――舌も唇もこわばってしまう)
ヒロインは、口では「身体だけでもいい」と言いながらも、心の中では、(そんな目をしないでほしい)とつぶやきます。そんな関係を続けながら、ヒロインは、自分の中に、「女」を見つけていきました。
ヒロインの母親は「不幸」でした。夫と死別したあとは、夫の母親の陰謀により、夫と二人で築きあげてきた財産を取りあげられてしまいました。親戚からもつまはじきにされます。それでも、盆と正月には、バカにされるためだけに、夫の母親の家にあいさつに通います。ヒロインの母親は「子供を育てる賃仕事、バカのやること」で家計を支えていました。ヒロインは、そんな母親のうしろ姿を見て、どうしても、胸をはって人に言える職業に就きたいと思っていました。しかし、そんな自分が、ふと思うと、男性にマフラーを編んでやりたいとか、四六時中も側にいて、こまごまと世話をしてやりたいと感じていることに気がつきます。
「母はどんな思いで、私を産み育てたのだろうか。ほおずりひとつされた記憶はない」
「海を感じる時」のストーリーは、母親がヒロインと男性の関係を知ることにより展開します。母親は、狂気の世界へと足を踏み入れました。しかし、憎しみあい、ののしりあい、家中に物が投げ散らかされる生活の中で、ヒロインは、心の中にあるものに、一つ一つ整理をつけていきます。整理がつくたびに、一歩ずつうしろに下がりながら、母親と自分という二人の「女」を、醒めた目で観察していきます。母親の言葉が教育的な内容から女としての恨みにすり変わっていくこと、母親にとってはヒロインが浪人をせずに国立大学に入ることだけが心の支えになっていること、母親は他人をおとしめることをとおして自分の名誉を強調することでしか生きていけない人間であることに気がつきます。
(母は、すでに私に対して甘えを求める年になっているのかもしれない)
ヒロインは、「私もまた、『自分は崇高である』といった確信がなければ、自堕落になっていくしかない、といった生き方しか学んでいなかった」ことに気がつきました。
(私の方が母に甘えたかった)
ヒロインは、疲れ果てました。
「海を感じる時」は、母親がこの世の外へと足を踏み出す場面でクライマックスを迎えます。母親は「おとうさん……あたしもおとうさんのところに行きたいよ…娘にどなられて。いつもいつもあの娘はどなるの。あたしは大切に育ててきたのに」と言います。ヒロインは「世界中の女たちの生理の血をあつめたらばこんな暗い海ができるだろう」と思います。冒頭に書いたように、はじめて「海を感じる時」を読んだのは高校生のときでした。そのときの自分がどれだけ内容を理解したのかは覚えていません。ただ、一つだけはっきりと覚えていることがあります。高校生だった私は、小説を書くということは、悲劇のヒロインになることではなくて、悲劇のヒロインになることでしか生きられなかった自分を醒めた文章で回想することなのかもしれないと思いました。
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