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神には栄光 人の心に喜び−J.S.バッハ その信仰と音楽/ヘレーネ・ヴェアテマンのあらすじと読書感想文

2007年1月15日 竹内みちまろ

ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ、1685年〜1750年

 「神には栄光 人の心に喜び」(ヘレーネ・ヴェアテマン/村上茂樹訳)という本をご紹介します。副題に「J.S.バッハ その信仰と音楽」とあります。著者はスイスのバッハ研究家です。長年ラジオ局の宗教部長を務めてバッハの音楽とキリスト教神学を結びつけて神学的な内容を誰もが理解できるように努めてきました。本書はJ.S.バッハ生誕300年を記念する年にJ.S.バッハの宗教性に焦点を絞って執筆されました。「バッハの芸術が放つ信仰の力」をキーワードにして神学になじみのない人にもわかりやすい内容にまとめられていたと思います。J.S.バッハ入門書として最適ではないかと思いました。

J.S.バッハの生涯

 J.S.バッハの生涯を簡単にまとめたいと思います。J.S.バッハの父親は市専属楽師で宮廷トランペット奏者でした。J.S.バッハは生まれて2日後に大叔父がオルガン奏者を務める教会で洗礼を受けました。7歳でラテン語学校に入ります。J.S.バッハが入学するまでは一番有名な出身者はマルティン・ルターという学校でした。ルターと同じくJ.S.バッハも少年聖歌隊で歌いました。J.S.バッハが10歳のときに母親が亡くなり、ついで父親も死んでしまいます。孤児となったJ.S.バッハは年長の兄を頼って生まれ故郷の町を離れます。兄のもとを離れたJ.S.バッハはミヒャエル修道院の給費生になりました。給費生の資格は、生活が困難なほどに貧しい家庭で、教会に役立つ可能性のあるソプラノの良い声を持っていることだったそうです。

 J.S.バッハはアルンシュタットの新教会のオルガン奏者になりました。J.S.バッハは演奏技術と作曲技術の向上に努めました。J.S.バッハはさらなる活動の場をもとめて町から町へと移動します。ヴァイマールでは宮廷楽師兼宮廷オルガン奏者にもなりました。「前奏曲」、「幻想曲」、「トッカータとフーガ」などのオルガン作品を生み出したのはこの時代でした。しかし公爵家の間の確執の影響でJ.S.バッハはヴァイマールを去りケーテンに移ります。ケーテンでは宮廷楽長に任命されました。音楽家として最高の地位を手にしたようです。ケーテンにはベルリンから連れてきた音楽家たちを擁した宮廷楽団がありました。ケーテンの宮廷は改革派(カルヴァン派)のため礼拝では多声音楽を演奏しませんでした。ケーテンの宮廷は人の世の喜びを謳歌するような雰囲気に包まれてたのかもしれません。「ブランデンブルク協奏曲」、「イギリス組曲」、「フランス組曲」など、礼拝以外の目的で宮廷で用いられる音楽が作曲されました。しかし、ケーテンでも環境が悪化して、J.S.バッハはライプツィヒ市の音楽監督の職を得ます。ライプツィヒに移ったJ.S.バッハはそこでも旺盛な音楽活動をします。カレンダー5年間分の曲を作ったといわれているそうです。どういうことかというと、(たぶんですが)、5年間にわたり、日曜日とキリスト教の祝日ごとに新しい曲を演奏できるほどの数の曲を作ったということらしいです。「ヨハネ受難曲」や「マタイ受難曲」がこの時期に作られました。

 J.S.バッハは幼いころに月の光を頼りに楽譜を写したといわれているそうです。晩年には目を悪くしました。イギリス人医師による手術を受けましたが失敗に終わり失明しました。1750年にその生涯を閉じます。J.S.バッハはライプツィヒ市の聖ヨハネ教会に埋葬されます。J.S.バッハは2人の妻との間に20人の子どもを残したそうです。みな成人したわけではないと思いますが、J.S.バッハの死後、残された家族は経済的に困窮しました。市の生活保護を受けるようになります。神学書や聖書などのバッハの蔵書は相続者に分配されました。J.S.バッハの死後、J.S.バッハの作品は演奏されなくなり忘れ去られました。そして、J.S.バッハの作品の一部は永遠に失われてしまいました。

J.S.バッハの信仰

 J.S.バッハの生きた時代を簡単におさらいしてみたいと思います。使徒や初期キリスト教団が命をかけて守り続けた信仰はやがて広く公認されていきました。しかし、キリスト教会のその後の歩みが初期に作られた規律に基づいているのかという疑問を持つ人が現れました。マルティン・ルターがカトリックの教会の門の前に質問状を掲げます。宗教改革の結果としてうまれたプロテスタント教会も新しい問題を抱えます。宗教改革の運動は教会勢力を牽制したい封建諸侯に利用されていきます。スイスのカルヴァンらはカトリック教会から離れて急進的な改革を目指します。穏健路線を目指したルターはカルヴァン派との違いを説く必要に迫られました。そして、ルターの時代から200年後のJ.S.バッハの時代には、ルター派は教義に縛られて身動きが取れなくなっていました。

 J.S.バッハはルター派に属していたようです。「神には栄光 人の心に喜び」には神学的な内容も書いてありましたが、簡単に言うと、ルター派正統主義の教義では、音楽は人を神により近づけるものであったと考えられていたのに対して、敬虔主義では、音楽は個人的な黙想の訓練に用いられるものと考えられていたようです。聖書の朗読のあとに歌われる音楽は、神の言葉を解釈してそれを人間に適用させるためのもので、機能的には、説教と同質であったようです。敬虔主義は古くからの礼拝の形式を変えようとしていたのかもしれません。J.S.バッハが教会音楽家として活躍するためには、ルター派正統主義に基づいた礼拝を行う教会を必要としました。

 J.S.バッハの信仰はルター派正統主義の教義と秩序に根ざしていたようです。ルター派の信仰の中心は、「神を前にした罪人の義認の教えである」そうです。義認は、「恵みによって」、「イエス・キリストの功績ゆえに」、「人が信仰を受け入れることによって」生じます。ルター派の伝統によると、復活した勝利者として天空のはるか彼方に君臨する存在よりも、人間の罪のために卑しめられて十字架を背負って苦難の道を歩みながらも出会った人々に愛のまなざしを送り続けたキリストのほうに重きが置かれるそうです。J.S.バッハも、人生とは十字架を背負ってイエスのあとに従うことであると考えていたようです。そして、十字架の上で死に蘇ったイエスこそが人間が従順であると認められた場合にのみ人間に勝利の王冠をかぶせるということが約束されていると信じていたようです。「マタイ受難曲」などの作品は、復活祭のためではなくて、復活祭直前の聖金曜日のために生みだされたとのことでした。

J.S.バッハの音楽

 J.S.バッハは直筆の手紙に「神の栄光のために、整えられた教会音楽」と書いていたそうです。「整えられた」というのは、「教会暦に従って規則的に展開された」という意味らしいです。J.S.バッハは日曜日や主日の礼拝のために教会音楽を作りました。今日では、J.S.バッハが作った教会音楽を用いた礼拝は、「今日の私たちの感覚からすると、独特の礼拝形式である。他の教派は言うにおよばず、ルター派教会における近代的な礼拝の中でさえも、その形式を組み込むことは容易なことではない」と書かれていました。しかし、J.S.バッハが礼拝のために作った曲は、「礼拝の見地から理解され、使用される場合にのみ、その本領を完全に発揮することができるのである」とも書かれていました。

 ルターを経てバロック時代に至るまで有効であった中世の音楽に対する考え方によると、宗教音楽に限らずにあらゆる音楽は神を称えるために、そして、人間の心を喜びで満たすために鳴り響くそうです。神によってあらかじめ与えられた創造の秩序に基づいていない音楽は、悪魔のようながみがみとした音でしかないと考えられていました。神の栄光を高める音楽と人間に喜びを与える音楽は同じ音楽です。宗教音楽と世俗音楽を切り離すという概念はありませんでした。自宅であろうと、野原であろうと、教会であろうと、音楽はいつも神の栄光のため、そして、人間の喜びのために鳴り響くものでした。J.S.バッハも同じような概念を持っていたようです。

 J.S.バッハは死後、長く忘れ去られていました。それが1829年に「再発見」されます。J.S.バッハを忘れていなかったメンデルスゾーンと一部の音楽家たちによってJ.S.バッハの演奏会が企画されました。一晩全部をJ.S.バッハにあてるというのは現実的ではないと考えられました。聴衆にとっては、J.S.バッハの音楽は、旋律的でなく計算された無味乾燥な理解できない音楽と見なされていたからでした。しかし、「マタイ受難曲」は人々の心に染み入りました。J.S.バッハの音楽とそれに続く古楽全般の再発見と再演が幕を開けました。

 「神には栄光 人の心に喜び」の著者は、注目すべき点として、J.S.バッハの作品が再発見以降、ますます教派の域を越えて人々の心を捉えていくという現象を指摘していました。J.S.バッハは信仰的にはルター派正統主義でしたが、J.S.バッハが作った音楽には、受難曲などに見られるごくわずかな例外をのぞくと、他の教派を排除するような言葉が用いられていないそうです。神学論争を巻き起こすこともなく、今日では、プロテスタントの改革派やカトリック者でも同調できる信仰の肯定的な意見だけが用いられているようです。1938年には、フランスの300人の聖職者がローマ教皇庁の許可を取り付けました。パリの権威あるカトリックの大聖堂で「マタイ受難曲」の全曲が演奏されました。1938年のヨーロッパは暗雲に包まれていました。

 「神には栄光 人の心に喜び」は冒頭と結びで同じ言葉が引用されていました。J.S.バッハの後輩となるライプツィヒ市の聖トーマス教会の音楽監督で、1938年にはトーマス教会少年合唱団を指揮してフランスの大聖堂で「マタイ受難曲」を演奏したカール・シュトラウベが死の直前に告白した言葉でした。最後にそれを紹介して今回の文章を終わりにしたいと思います。

「バッハに近付いたと思えば思うほど、彼はますます大きく、そして捉えがたいものとなる。この人類のたぐいまれな人間の秘密を考えれば考えるほど、私は思惟の力でバッハを取り扱うことができなくなった。バッハの芸術が放つ信仰の力は私をより一層謙虚にさせるが、より一層幸せにもしてくれる」


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