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神への告発/箙田鶴子のあらすじと読書感想文

2005年11月7日 竹内みちまろ

神への告発

 著者の箙田鶴子(えびらたずこ)さんは、1934年の生まれです。日本が真珠湾に停泊していたアメリカの太平洋艦隊を攻撃したのは、1941年です。ご存命ならば、70歳を越えている世代の人です。著者紹介文には、著者は、仮死状態で生まれて、脳性小児マヒになったことが書かれていました。背表紙には、『わずかに動く左足で綴った通哭の半生記』と書いてありました。「神への告発」は、仮死状態で生まれて、脳性小児マヒになった女性の回想という形になっています。しかし、著者は、「神への告発」が、真実を書いたルポルタージュの部類に入る本なのか、あるいは、虚構を交えた世界を描いた創作の部類に入る本なのかを、「神への告発」の中では書いていません。したがって、私には、「神への告発」に書かれている内容が、現実なのか虚構なのかは、わかりませんでした。

 人間が文章を書く理由は、心の中にあるメッセージを伝えることだと思います。個人的な体験や思想というものは、自分の心に留めておく限りは、かけがえのないものであり続けるのだろうと思います。しかし、どういう形を選ぶにしろ、いったんそれを形にして表現してしまえば、多くの場合は、他人の目には、取るに足らない現象に思えてしまうような気がしています。しかし、「神への告発」を読み終えて、どんなにもどかしくても、どんなにまだるっこしくても、どんなに嫌がられても、人間には、それを表現せざるをえない瞬間があるのかもしれないと思いました。

抑えた表現と、冷静な描写

 「神への告発」は、『難産であった』という一文からはじまります。ヒロインが、仮死状態で生まれた場面が紹介されます。ヒロインは、脳性小児マヒになりました。冒頭から一枚めくった見開きのページの最後の文章は、『記憶はここで完全に中断する』となっています。『後で聞かされたところによれば』という文章に続いて、3歳のヒロインが、とある帝国大学に、『実験台となるべく』送られたことが、手短に書かれていました。来たるべき米英との決戦にそなえて、極度の戦時体制が組まれていた時代でした。中国戦線では、ドロ沼の戦闘が続いていました。現在の、いわゆる「福祉」と呼ばれるような概念は、世の中には、ありませんでした。そういった時代では、歴史的な客観的現象として、生きた人間をサンプルとした実験は、なんでもやったのだろうと、個人的には想像しています。著者は、『その時実験されたのか否か、その結果がどうであったのか、私は知らない。聞かない。ただ……、治らなかったことのみが、私の事実である』と書いています。感情を排除して、結果として触れるべきではないと著者が判断したのかもしれないと思われる現象をあえて飛ばしたようにも思える文章が、醒めた視点で冷静につづられていきます。こういった文章は、抑えた表現で冷静に書かれていればいるほどに、行間に込められた著者の言霊が心に響いてきます。冒頭の数ページだけを読んで、「神への告発」は、相当の覚悟を持って読まなければならない作品だと思いました。

『なぜ神は、こういう人間を造り給うたのか』

 読みはじめてすぐに覚悟を決めたのですが、「神への告発」に書かれていた内容は、私の思惑を超えた内容でした。産声をあげずに生まれたヒロインは、戦中、戦後を生きて行きます。厳格だが、ヒロインの幸せを願っていた父親は、『何もできなくとも良い。理恵、心さえ美しければ、私たちを心で想ってくれていればそれで充分だ』と言って聞かせてくれました。しかし、父親が死んだ後は、家族は、母親と姉だけになりました。そのあとは、ヒロインは、人間の心の奥底に潜んでいる裸の感情を見続けます。『不具者のくせに』と言われたり、弁当箱を顔に投げつけられたり、何カ月も糞尿まみれで放置されたりします。ヒロインは、『犬食い』をしながら命をつなぎとめていきました。それでも、ヒロインは、預けられていた家に怒鳴り込んできた女性を見て、『脳裡に描く母の美しさと比べて、ひそかに私は優越感を抱いていた』りします。母親は、怒鳴り込んできた女性の夫を寝取っていました。しかし、周りの人間たちを思うヒロインの気持ちは、誤解のみを生み続けます。戦後の混乱の中で、ヒロインは、付き添いの女性に『いいわ。行きなさい。置いて行って』と告げます。女性の命を思ってのことでした。そばに居た別の女性は、『まあ憎たらしい……。だから可愛がられないのよ』とはき捨てます。母の死後に、唯一の理解者と思っていた姉を問いつめる場面が印象的でした。ヒロインは、すがる気持ちで、『姉さん、教えて。本当にママは死ぬ時、私のことを、『化け物』と云ったの」と聞きます。姉は、『悪く思わないで』と答えます。著者は、『涙は涸渇した』と書いていました。姉との関係は、姉が、『あなたも知っているでしょうが。この娘が、ひとに恥をかかすのを何とも思わず、かえって武器にしていることを』と自分の夫に告げるまでになりました。姉と同居していたヒロインは、姉の夫からの虐待に耐え切れずに、『出て行けと迫られ、出ねば許さぬ、殺すと云い切られ、我慢出来なくって家から這い出た事があった』ようです。姉の夫は、優秀な医師だったようです。翌日から、姉の家に向けられる近所の目が変わったと書かれていました。

 それにしても、ヒロインの周りに来る人間たちの多くが、「医師」や「知事」や「福祉に情熱を燃やす立派な人びと」だったように思えました。ヒロイン自身も、父親は研究に身を捧げる学研の徒であり、大学の学長を務めた祖父や、知事を勤めた叔父などがいたようです。相当に「立派な家」になるのではなかろうかと思いました。しかし、そんな家に生まれたヒロインは、『なぜ神は、こういう人間を造り給うたのか』と、告発するまでの経験を積み重ねて行きます。ヒロインの心は、『博愛ごっこならたくさんでございます』と言うまでに、さめきって行きました。

『神よ。この地上では、ついに体の醜さを容れる所はなかった。それを知りながら、なおあがき続け、あきらめ切れず、抱擁を願わずにはいられない私であった』

愛を乞うひと

 「神への告発」には、純子という美しい女性が登場しました。純子は、ヒロインが入った公的施設での同居人でした。純子のうしろ姿は、ヒロインの心に焼きつきます。ラスト・シーンで提示されるヒロインの心の中に起きた変化の伏線となります。純子は、ヒロインが入寮した日に、『入寮なさったのね……わたし茜川純子、よろしくね』と、『てきぱきした口調』で、あいさつをしてくれました。しかし、一文字に唇を結んでヒロインを見つめる純子の視線は、『何処も見たいという焦点をあててはいなかった』ようです。ヒロインは、純子の視線を、『地の底へ向けられた視線、抗わぬ、無言の弱者の眼ざし』と感じます。純子は、朝に顔を洗いはじめると、顔がすりむけてひりひりになっても止まらなくなったり、歯ブラシを置いても、それをにらみつけて、50回も、60回も置きなおすような症状を持っていたようです。

『私だけの考えだったが、彼女の、完璧主義的偏執症も、何かしら理由があるように思えてならなかったのだ。
「まちがいない形で、在るべきところに在って欲しい」
 それは愛への願望ではなかったのであろうか』

 そんな純子に変化が訪れました。3日に1度、夕方に、姿を消すことでした。それは、公務員である54歳の施設の主任が、宿直当番となっている日でした。ヒロインの脳裡には、『一時のなぐさみもの』という言葉が浮かびます。ヒロインは、純子を説得します。純子は、『そう。わたし、いつも考えてるわ』、『そうなったら……、死のうと思ってるの。線路に飛び込んで』と答えます。純子は、『3日ごとに同じ行動を繰り返し、むしろのんびりして』過ごしているように見えたそうです。『止めないで。私、勿論主任さんに何も望んではいないの。馬鹿ですもの、わたし。まともなお嫁に行くことなど考えていないわ。あの方は奥様もおありなの、それもちゃんとわかっているの。でも……、理恵さんわかって、わたし抱かれている時が一番幸福なの。いいえその時がたった1つの幸福なの』という言葉を聞いて、ヒロインは、『ひとつの真実味』を感じました。

 純子と主任の逢瀬は、主任の定年退職で終わりを告げました。純子は、『特に念入りに化粧をし、髪をブラッシングして余所ゆきの服を着けて、最後の宿直日を逢いに出向いて』行きました。ヒロインは、『今夜だけは目を閉じておこうと考えていた』と書いています。主任は、『お前が、せめてもう少し癖の回数がすくなかったなら……連れて出てやるのに。どこかへ女中にでも世話してやるものを』という言葉だけを残して、去って行きました。純子は、主任を乗せた車を、泣きじゃくりながら、追いかけます。ヒロインは、『打算や理屈などの及ばない所に佇っていた純子』に、ある種の神々しさのようなものを感じます。純子は、精神科へ送られました。ヒロインは、『生きつづけながら、辛うじてかぼそく残されていたまともな神経をまで破壊されて、狂わされ、廃人とされ果てた純子』の姿が、いつまでも、心から離れませんでした。

絶対的な瞬間

 「神への告発」は、施設を出たヒロインのその後の姿を記述して終わります。ヒロインが、神を告発することではなくて、自分自身の心を受け入れていくことにより生きようとする姿が描かれたクライマックスは、『打算や理屈などの及ばない所に佇っていた純子』が乗り移ったようでした。

 話は変わるのですが、トルストイは、「戦争と平和」(工藤精一郎訳)の中で、以下のような会話を登場人物に言わせています。容姿は醜いが、きらきらと輝く瞳を持つ、心が清らかな女性を妻にした男の言葉でした。

『おやおや、おかしなことを言う女だね、きみも! 美しいから愛しいんじゃない、愛しいから美しいんだよ。……(省略)……』

 「神への告発」の著者は書きます。

『そして、私は地獄を直視し得た。徹底して味わい続けた醜女の哀しみ、だが自分の中に、同じ感情がなかったと片時でも云えただろうか。
 美を欲し、選ぶのは自身もだった。人間といわず、かりに小犬一匹を抱こう時でさえ、より愛らしいものをまず腕は選ぶ。
 それは「己れ」を見据えながら、なお決して醜さ、それも表面の美醜を、意志以前に、絶対的瞬間、受け容れられないという極を見せつけた』

 絶対的な瞬間を見たヒロインの心の中で、変化が起こりました。「神への告発」は、そんなヒロインの一瞬のうしろ姿を提示して、終わりました。それは、打算や理屈を超えた領域で起こった現象だと思いました。人間の思想に関わる領域に属する現象であるがゆえに、読者は、そんなヒロインのうしろ姿を読み終えて、明日からの自分の人生を歩んでいくしかできないのだろうと思いました。

 本書を手に取ったときに、裏表紙に書かれた紹介文から想像したことは、「尊厳」とか、「障害者」とか、「福祉」とか、そういったテーマの内容でした。しかし、本書を読み終えて、そういった言葉の組み合わせで提示することができる現象ではなくて、結果として著者の手を離れて広く一般に発表された作品として本書がどのようなテーマや過程や意図の中で読まれるのかとは別の次元の現象として、また、そういった言葉の組み合わせで提示することができる現象を描くことの意義とは別の次元の現象として、トルストイが「戦争と平和」をとおして描きあげたように、箙田鶴子は、絶対的な瞬間を見た人間の心の中に起きた「変化」を描きたかったのではないかと思いました。

 心の中で何かを感じた瞬間を自分の中だけにとどめておくのではなくて、他者に伝えるために何らかの手段を用いて表現することを選んだ人間は、どんなにもどかしくても、どんなにまだるっこしくても、たとえ意志によって動かせるのが左足の先わずかだけであったとしても、心の中に起きた一瞬の変化を、表現せざるをえないのかもしれないと思います。その瞬間、ヒロインの瞳は、きらきらと輝いていたのではないかと思いました。


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