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「記憶障害の花嫁」のあらすじと読書感想文

2016年5月1日 竹内みちまろ

記憶障害の花嫁/北海道放送報道部取材班(小学館文庫)のあらすじ(ネタバレ)

 小柳つかささん(旧姓:萩田)は、1982年、北海道網走市音根内(おんねない)の農家に生まれた。2つ上の兄、4つ下の弟と仲の良い3人兄弟だった。

 兄の達郎さんが小学校に入学しスケートを始めると、4歳のつかささんも一緒にスケートを始めた。つかささんは網走市のすべての小学生が参加するスケート大会で1年生から6年生までの6年間、ずっと優勝した。

 1995年に中学校入学。仲良し4グループができた。保健室に熱心に通い、養護教諭(いわゆる保健室の先生)の佐藤敦子先生に、男の子のことからテレビのことなど何でも話した。佐藤先生と同じ養護教諭になりたいという夢を持つようになった。

 1998年に高校入学。天真爛漫で明るいつかささんは誰とでも話ができ、新しい友達に恵まれた。夏には制服の下にビキニの水着を着て登校し、学校が終わったら海で泳いだ。アルバイトでお小遣いを貯め、修学旅行で訪れた新宿や渋谷のブティックで流行の服を買ったりした。ごく普通の女の子だった。

 高校2年生から3年生に進級する2000年の春休み、つかささんは、北見市や旭川市などの大きな街に就職が決まった先輩たちの送別会に出掛けた。帰りに先輩の車で送ってもらっている途中、信号を無視しで猛スピードで交差点に突っ込んできた飲酒運転の乗用車に追突された。助手席に乗っていたつかささんは、目立った外傷はなかったが、ぐったりとし、救急車で運ばれた。

 つかささんの意識は戻らず、医師からは、左右の脳や前頭葉などの脳細胞同士を結ぶ「軸索」(じんさく、連絡回路のこと)が切れている状態で、「びまん性軸索損傷」と診断された。「びまん性」とは病変をはっきりと限定できないものの、損傷が広範囲に広がっている状態のこと。治療の手立てはなく、医師は、もって1週間、それを超えても意識が戻ることはないと考えるべきという内容の言葉を口にした。

 つかささんは医師から告げられた1週間を超え、個室に移された。毎日、40度近い熱を出し、母親の知子さんが、1日にタオルを100枚以上使って看護した。知子さんは全身が固まっていたつかささんの体をマッサージし、 枕もとで本を読み聞かせた。事故から75日後、6月4日に、つかささんは意識を取り戻した。

 つかささんの病室には、いとこの理恵さんやクラスメイトたちがひっきりなしに見舞いに訪れた。リハビリが始まり、ベッドから降りて車椅子に乗る訓練も行われた。右手と右足はなんとか動かせるものの、左手、左足はまったく動かなかった。

 そして、前日にボールを使ってリハビリをしたということを翌日にはまった覚えていないという「高次脳機能障害」のひとつ「記憶障害」と診断された。「記憶障害」は、“もの忘れ”とは根本的に違い、情報が記憶されていないため、昨日やったことを“思い出す”という現象はありない状態という。

 事故から1年後の4月、つかささんは、時間はかかるものの、ベッドから車椅子に乗ることや、食事を取ることや、トイレで用を足すことなどをすべて自分ひとりでできるようになっていた。

 6月に、およそ1年3か月を過ごした網走脳神経外科を退院。約1か月を自宅で過ごし、7月に札幌郊外にある定山渓温泉病院に入院した。2002年3月、19歳のつかささんは、山の手養護学校の高校3年生の編入試験に合格した。

 知子さんは、山の手養護学校で高校を卒業した後、つかささんを東京か大阪のリハビリ専用の病院に入院させ、立って歩けるようにしてあげたいと思っていた。しかし、つかささんは養護教諭になるという夢を叶えるため、大学進学を希望した。

 山の手養護学校の先生から紹介された、AO入試(学科試験の成績だけで合否を決めるのではなく志望理由、面接、小論文などによって多面的な評価を行い合否を決める受験制度)を実施してる、札幌市に隣接する江別市にある浅井学園(現・北翔大学、佐藤敦子先生の母校)に入学した。

 子どもを抱き上げるなどの実習が必要になる養護教諭になることは難しいとものの、つかささんは、社会福祉士やカウンセラーの資格を取得すれば、佐藤先生が自分にしてくれたのと同じような仕事ができるかもしれないと考えた。

 知子さんが学校の前の通りを歩いていたときに見つけたアパートを借りた。ヘルパーを頼み、つかささんはアパートから大学に通った。

 つかささんは、道で通りすがりの男の人に声を掛け、「私を、私の部屋まで入れてくれませんか?」と頼んだりした。女性の同級生が、つかささんの身の危険を危惧したのか、「今度ああいう時があったらさ、あたしの携帯に電話してくれないかな、つかさ」と告げても、つかささんは「あんなふうに知らない人に声をかけるのも楽しいんだって……」と答えた。

 つかささんは、障害を持った者が他の障害者の日常生活を支援したり補完し合ったりする「ピア・サポート」に興味を持った。ピア・サポートの学会があると知ると京都や沖縄にも出掛け、福祉の先進国の様子を知り合たいとフィンランドにも行った。

 つかささんが「交通事故の後遺症に負けない若者たち」というタイトルのシンポジウムのパネラーに選ばれた。HBC北海道放送報道部が取材し、屈託のないつかささんのチャーミングな姿がHBC北海道放送のニュースの特集で放送された。つかささんは、大学卒業後、就職期間を経て、網走の実家に戻った。

 運命の出会いは2008年6月だった。

 タクシー運転手の小柳雅己さんは無線で「萩田さん」という家に行くように告げられた。場所は、雅己さんが生まれ育った実家のすぐ近くだった。

 雅己さんが萩田家の前にタクシーを止めて待っていると、玄関から、電動車椅子に乗ったつかささんが出てきた。つかささんは自由になる右手と右足で後部座席に乗り、「車椅子をたたんで、トランクに入れてもらえますか?」と雅己さんに告げた。雅己さんは、電動車椅子の重さを実感し、つかささんが置かれている境遇の大変さに気付かされた思いがした。

 つかささん25歳、雅己さん32歳、行き先はパソコン教室だった。

 約3か月後、雅己さんは再び、萩田家への配車の無線を受けた。今度はトランクを開けて待っていた。つかささんが告げた行き先は網走脳神経外科だった。

 タクシーの中で、雅己さんは「きょうはパソコン教室じゃないんですね」と声を掛けた。つかささんは、以前に雅己さんのタクシーに乗ったことを記憶していなかった。雅己さんは、3か月前にもつかささんをパソコン教室まで乗せたことを、つかささんに話した。

 つかささんは高校2年生の時に交通事故に遭ったことや、左半身がまひしていることや、記憶障害のことや、週に1回網走脳神経外科でリハビリをしていてことや、いつかは普通の人のように歩けるようになりたいと思っていることなどを雅己さんに告げた。

 雅己さんは意を決して「メールアドレスを交換してくれませんか?」と声に出した。雅己さんは、つかささんを「カワイイ娘だな」と思い、実家同士が近いことにも運命的なものを感じていたが、その時は、恋愛感情は持っておらず、どうせタクシーに乗るなら自分のタクシーに乗って欲しいと思い、そして、色々な場所へ連れて行ってあげたいとも思った。

 つかささんは、心の中で「やった〜ぁ」と叫び、アドレスを交換した。

 2人のメール交換が始まった。週に1回、雅己さんがタクシーでつかささんを網走脳神経外科に送った。

 好きな食べ物の話をメールでしている時、雅己さんが「ボクが知っている中華レストランのエビチリが、すっごく美味しいです。もし良かったら、今度の休みの日に行きませんか?」と誘った。

 つかささんは、知子さんに「お母さん、タクシーの運転手さんと、ご飯を食べに行ってもいい?」と尋ね、知子さんを驚かせた。

 2人は、2回目の出会いから1か月もない10月初旬、中華レストランで食事をした。次はお礼につかささんがごちそうすることになった。雅己さんは、自分がつかささんと同じ境遇だったらつかささんのように明るく生きていくことが出来るだろうかと思った。つかささんは車椅子のカーリングチームに入っていつかはパラリンピックに出場したいなど夢をいくつも抱え、それに向かって頑張っており、雅己さんは自分がわずかでも支えになればと思った。

 いつしか、雅己さんが、つかささんを、家からタクシーまでや、車からレストランの席までなど、“お姫様だっこ”で運ぶようになっていた。

 知子さんは、恋はさせてあげたいと思い、雅己さんとつかささんの交際を微笑ましく見守っていた。しかし、結婚は無理だと思っていた。大人の女性になっていたつかささんの友人たちも、子育てはムリとのことで、つかささんの結婚には反対だった。

 雅己さんがつかささんを雅己さんの実家に連れて行った。雅己さんは「オレ、いまこの人と付き合っている……」と紹介したが、雅己さんの両親は、目の前で起きた出来事が理解できずにいた。

 メールアドレスを交換してから約1年後、つかささんは、雅己さんに、「でも“できちゃった婚”とかじゃないと、結婚は許してもらえないかもね……」と真剣な顔つきで言ったりした。

 一方で、つかささんは、雅己さんとの距離が縮まるたびに、「逃げるなら、今だよ」と雅己さんに何度も告げていた。

 つかささん27歳、雅己さん34歳、2人の覚悟は決まっていた。つかささんが長男の和実(なごみ)さんを妊娠した。

 雅己さんの両親がつかささんの家を訪れ、雅己さんの父親の昭雄さんが「お宅のお嬢さんを、雅己の嫁としていただきたい」などと、頭を床にこすりつけるようにして申し出た。雅己さんの両親が結婚には大反対していると聞いていた知子さんは驚き、「こちらこそ本当に申し訳ありません……」と口にするばかりだった。

 友人たちも2人の結婚を応援した。昭雄さんが結婚式を挙げることに奔走。バージンロードにスロープを作ってほしいとホテルに交渉した。チャペルでは、ウェディングドレス姿のつかささんを、昭雄さんがエスコートした。

 妊娠34週目、2011年1月21日、つかささんが体の異常を訴えた。腰が痛み、前日夜にはよく眠ることもできなかったという。つかささんは入院した。

 入院してから1週間後、つかささんの血液検査で異常な数値が出た。医師は妊婦がごくまれにかかる、血管の内側の細胞が傷付き、肝臓の機能を急激に低下させる「ヘルプ症候群」を疑った。

 「ヘルプ症候群」の最も有効は治療法は妊娠を終了させることだった。出産予定日まで1か月近くを残していたが、帝王切開での出産が行われた。1月28日午後0時49分、和実さんが誕生した。

 無事に出産を終え、雅己さんが付き添いで寝ていると、つかささんの息づかいが荒くなり、うめき声をあげ始めた。日付が変わった29日午前2時過ぎに、雅己さんは看護師を呼んだ。医師が駆け付け、心臓マッサージを行った。

 医師は心臓マッサージの手を止め「残念ながら、ご臨終です」と告げた。が、生まれたばかりの和実さんをつかささんの体に連れ添わせると、つかささんが大きなため息ともつかぬ息をあげた。破れた血管に手を施し出血を止めるための緊急手術が行われた。

 出産から5日後、網走脳神経外科の専門医は、つかささんが意識を取り戻す可能性はないと告げ、「数日のうちに死が訪れると思います」と伝えた。

 2011年2月7日、つかささんは静かに息を引き取った。医師からは、つかささんは「ヘルプ症候群」よりも深刻な「急性妊娠脂肪肝」の疑いがあると告げられた。

 「急性妊娠脂肪肝」は、妊婦の1万人に1人がかかるか、かからないかという極めてまれな病気で、「高次脳機能障害」とはまったく関わりのない病だった。

記憶障害の花嫁の読書感想文

 「記憶障害の花嫁」は、読んでいる途中は、内容が深いこともあり、話を追うことで精一杯でした。

 ただ、北海道放送の報道部取材班の方が書かれていた「文庫版あとがき」を読んで、心の中で、何かがストンと落ちた感じがしました。

 2015年7月に書かれた「文庫版あとがき」には、4歳半の和実さんが自転車に1人で乗れるほどたくましい少年に育っていることや、テレビドキュメンタリーが放送され、「記憶障害の花嫁」を原作とする映画「抱きしめたい〜真実の物語〜」が公開されたことにより大きな反響が生まれたことが紹介されていました。

 続けて、報道部取材班の方が、つかささんを「強い人」だと感じていたものの、「なぜつかささんは、あんなにも強く生きることができたのでしょう?」と質問されても、ずっと答えられなかったことが紹介されていました。

 しかし、報道部取材班の方が、雅己さん、和実さん、知子さんが暮らすつかささんの実家を訪れる場面がありました。つかささんのいとこの理恵さんと理恵さんの2人の息子や、つかささんの兄の達郎さん一家や、つかささんの高校時代の友人たちが集い結局12人でテーブルを囲んだエピソードが記され、報道部取材班の方の「つかささん、あなたの強さを支えていたのは、家族や友人たちの存在だったのですね」という言葉が記されていました。この言葉を読んだときに、すごく納得できました。

 確かにつかささんは、普通の人と同じように体を動かすことはできませんでした。記憶障害もありました。ただ、それ以上に、未来を見つめて生きる心と、人を惹き付ける魅力があったのだと思います。また、そんなつかささんだったからこそ、多くの人が周りに集まったのだろうと思いました。

 「記憶障害の花嫁」は、障害を持ったある1人の方がどう生きたのかが記録されたドキュメンタリーというよりは、人同士を繋げ、人と人が繋がることで生まれる優しさを作りだすことができたつかささんという1人の人間の物語だと思いました。そして、もしかしたら、人を繋げ、優しさを作りだすことは、障害のあるなしとは直接関係のない、人間としてもっと別の部分に関わることであり、そういった人たちとどれだけ出会うことができるのかで、人生の豊かさといものが決まるのかもしれないと思いました。


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