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おとうと/幸田文のあらすじと読書感想文

2007年7月8日 竹内みちまろ

 「おとうと」(幸田文)という本をご紹介します。著者は幸田文さんです。

 「おとうと」は、強い雨が降りつける土手を、傘を持たずに早足で歩く弟を、姉が追いかける場面からはじまります。姉は17歳、弟は14歳のようです。姉も足が弱いほうではないのですが、追いつかれまいと意地になっている弟との距離を縮めることはできませんでした。弟の傘は、片方の骨が折れていました。折れたままさした無理がたたって、もう片方の骨も折れてしまいました。姉は、弟が母親に、傘を修理にだしてくれるように頼んでいたのを耳にしていました。しかし、次の雨のときも、その次の雨のときも、傘はそのままであることも知っていました。家事のいっさいをまかされていた姉は、弟の傘が壊れたままなのを知っていました。ほうっておけば、いずれ、これを使いなさいと言って母親が父親の傘を出してくるだろうと計算していました。いつものように忙しい朝を食事の後片付けと弁当のしたくに費やしていました。弟は、傘なんかいらないと言って、ひとりで先に家を出てしまいました。姉がしまったと思ったときは、もう、はるか先を行っていました。中学生になったとはいえ、弟の体つきはまだ子どもです。肩幅の広すぎる制服を着たか細い弟は、前かがみになって、かたくなに歩調を速めます。姉は、ずぶ濡れになっている弟の背中を見ながら、無理に急いでいるので傘をさす意味がなく、自分もずぶ濡れになりながら、せめて弟に乾いた手ぬぐいを渡してやりたい一心で、追いかけていました。そんな場面で「おとうと」ははじまりました。

 土手の場面が描写されたあとに、姉が弟を思いやる心理描写を利用して、物語の背景が説明されました。姉は、3年前の自分がそうだったゆえに、今の弟がどんなにさみしい思いをしているのかが、手に取るようにわかります。自分はそれなりの処世と女のたくましさで、みじめな思いを何とかやり過ごしてきましたが、不器用な弟には同じことができるはずがないことも、姉には心に染みてわかります。

「円満な家庭が後ろ楯になっている子には何でもないようなことが、不和な家庭にいる子にはぎくりと利く。たとえば、『土曜日にはお父さんとお母さんと談笑する時間がありますか』とか、『両親と一緒に遊びに行きますか』などと訊かれると、円満なうちの子は、ありますもありませんも何でもなく答えられる。が、不和なうちの子は訊かれたとたんに第一に、迷惑な質問をされたと感じ、その場の空気で小さな嘘をついてしまうことが少なくない」

 姉には、弟が学校で「迷惑な」質問をされるたびに小さな嘘を積み重ねて、あとになってきまって気を滅入らせていることが経験からわかります。弟が中学に入って最初の夏休みでした。中学校に入る前の春休みには、「ねえ、いる?」と言って裏口から駆け込んできて、「おおい、鮒釣りに行かないかよう」と弟を誘いに来ていた小学校の同級生が、やけに大人びて「ご無沙汰しました。碧郎君おいでですか」とあいさつをしてきます。姉は、そんな同級生を見て笑いそうになっていましたが、出てきた弟を見て、しまったと肝を冷やします。同級生は新しく縫ってもらった大人ものの白絣を着ているのに、弟はいまだに腰あげしただけの子どもの着物に身を包んでいました。姉は、夜なべをして、弟に大人ものの着物を縫ってやりました。弟は、姉さんへんなの、そんなことする必要もないのにと口では言いなからも、うれしそうに裁縫道具を広げている姉に一日じゅうまとわりついていました。

 「おとうと」は3人称で書かれた作品です。姉に中心的な視点は置かれていますが、地の文は、姉を含めた登場人物たちを見下ろした超越した視点から書かれていました。姉弟のせりふや行動を追うと、2人は、怒鳴りあったり、ひどいことを言ったり、泣きじゃくったりするのですが、地の文は、そんな2人の姿を、どこか醒めた視線から冷静に描いているように感じました。

 姉は、弟が仲間といっしょになって店から飛び出してきて路面電車に駆け込む姿を見かけました。弟たちが飛び出してきたあとに、店員があわてて店先に出てきました。うちへ帰るなり、「あんた、きょう学校の前のところで飛乗りしなかった?」と声をかけます。弟はぎょっとして「しねえや」と答えます。姉は、「うそ! あたし見ていたもの」と問いただします。弟は「ちがわい」とかたくなに否定します。姉は「たしかに横顔碧郎さんみたいだったけど」と引き下がりません。

「碧郎はたったこれだけの短い会話のあいだなのに、顔をそらせて貧乏ゆるぎをしはじめていた。げんはこれは碧郎にちがいない、何か胡散臭い、ときめた。折角そこまで気がついてきていながら、なんといっても若かった、そう深刻には考えきれないのだった。ただ無闇と訊きただしたく思っただけだった。それは経験というものがない、へたなやりかただった」

 登場人物たちからは距離を置いた幸田文さんの視線は、どこか遠く、あるいは、はるか昔の過ぎ去った日々を静かに見つめているようだと思いました。そんな幸田文さんの視線のありかたが、くもりガラスごしに物語を見つめるような、ぼんやりとした視点を読者に与えているように感じました。

「父母の不和な家は、父母は夫婦という一体ではなく、二人の男女という姿に見える時間が多い。そういう家は子と親もよその家ほど、くっついている時間が少ない。その子もきょうだいの中がばらばらなのが多い。それをこの家ではわりあいに中のよい親密な姉と弟だったのに、げんが偶然電車の窓からへんな光景を見てしまったのをきっかけにして、距離ができてしまった。きょうだいはとうとう一人一人になるらしかった。しかし姉は困惑しながらもとうとう両親にそのことを云わずにしまった」

 姉が飛び乗りを問い詰めてからは、弟は姉と連れだって土手を歩いて登校することをしなくなりました。姉が自分の弁当を詰めているうちにできあがっている弁当をさらうようにつかんで一人で外に出てしまいます。姉が自分の弁当を後回しにしていることがわかると、弁当なしで出て行ってしまいました。

 ある冬の朝でした。しもやけのはげしい弟は、姉に追いつかれまいと今日も早足で歩きます。早足で歩けば体が熱くなります。弟は、かばんを放り出して、かゆさを紛らすために、手袋を取り、靴下を脱ぎを繰り返しています。とうとう、姉に追いつかれてしまいました。弟は、かんしゃくを起こして、涙をこぼしながら、「しもやけ野郎」とやり場のない怒りに震えています。姉は、どうすることもできませんでした。弟は、しもやけの手で帳面をつかみそこねたために万引きに失敗していました。仲間たちはみな知らん顔です。後日、店の主人が学校に乗り込んできました。弟は退学させられてしまいました。

 弟は退学になってからしばらくは家にいました。母親は「せっかく骨を折って入学させたのに」と嘆いています。父親は母親が子どもの面倒をみないことを攻めます。両親はすさまじい戦いを展開します。姉はなんと言ってもまだ子どもでした。退学になった弟のためには何もしてあげられませんでした。なんだかんだ言っても結局はほったらかしにされていた弟は、いつのまにか、一人で別の学校の予備試験を受けて合格していました。

 姉には、入学し直した学校にも行かずに、玉突きやボート遊びに夢中になったり、馬乗りに入れ込んで馬具まで(父親の金で)買い込む弟をだんだんと理解できなくなっていきます。父親は、弟が不良仲間に引きずられて悪事をさせられていることも、弟が学校に居場所がなくなっていることも、母親の接し方が弟の心をすさませていることも、全部知っています。でも、父親は、母親や姉には、お前たちがあの子をスポイルするんだ、俺はあの子を信じていると言います。でも、自分では何もしようとはしません。弟が乗馬に夢中になっているときに、土手を馬で家までやってきたことがありました。弟は柵の上から姉を呼んで門を開けてもらいます。父親は、飼い犬が腹をすかせていても自分ではなにもせずに姉ひとりに面倒を見させているのですが、元来は動物が大好きなようです。学校にも行かずに昼間から馬を乗り回して家までやってきた弟といっしょになってうれしそうに馬の品定めをしていました。姉は、あとになって馬に踏み荒らされた庭をひとりで片づけます。姉には、もう弟の気持ちも、父親の心もわかりませんでした。弟は土手で馬の操りに失敗して、馬の足を折ってしまいました。土手には人が集ります。馬屋はどうしてくれるんだと怒鳴っています。近隣のよしみで情をかけてくれる人はわずかでした。弟を快く思っていなかった人々が、買ったばかりの染みひとつない乗馬服を泥んこにしながら地面に放り出されたままの弟を見つめています。ひとり、よしみを忘れないで家まで知らせに来てくれた人がいました。姉は、馬屋に冷静さを取り戻させます。姉は、飽きっぽい弟が馬具の手入れを怠らなかったり、馬に乗って父親に見せに来たり、取り乱しながらも父さんではなくて姉さんに来て欲しいと人に頼んだりする弟の心を、もはや、理解できずにいました。姉には、立派な乗馬服を着こんでしおれている弟が、ただ、ただ、哀れに映ります。

 「おとうと」のストーリーは、弟が結核と診断されることにより大きく展開します。姉は、父親の代理で、病院に付き添います。職業に誇りを持っている医師は、患者にとって必要なことだけをちゅうちょせずに言います。「保護者の方に来て欲しかった」と言われて内心では腹を立てていた姉は、結核がいかに恐ろしい病気で、医師が言うように自分ではなんの役にもたたないことを痛感します。結核との戦いに情熱を注いでいる医師は、お宅のように両親がそろっている家庭でしかも父親は名の知れた作家という知識階級の人間なのになんで取り返しのつかなくなるまでに誰も結核に気がつかなかったのだ、私はただただそのことがくやしい、と憤りを隠しません。姉は、家庭の不和をなげきながらも、けっきょくは、自分を責めます。

 診察の帰りに、弟が「ねえさん、行こうや。入院は入院でいいから、とにかく歩こう。おれはもう娑婆を歩けないことになるかもしれねえからな、つきあってくれてもいいだろう?」と姉を誘いました。姉弟は喫茶店に入りました。アイスクリームをあつらえました。弟は、アイスクリームをすくった手を止めます。

「ねえさん、おれ、これ食えないや」
「なぜ? 気持ちが悪いの?」
「おれ結核だあ。伝染するだろ、人にうつすよねえ!」

 姉には、匙を置いた弟が立派に見えました。

 弟は、写真館を見かけると「記念に撮っておこう」と言います。姉は、「治療すれば済むことなのに、いやに気が弱くなったものね」と答えます。弟は、姉を憐れむように、「ねえさん案外頭にぶいね。気が弱いどころか、いまおれ、気が強いてっぺんなんだよ。いいかねえさん、おやじのことだって考えなけりゃ。――写真の一枚くらいあったほうがよかろ?」と返します。姉は泣きそうになりながら、「写したいだけ写しておけばいいんだわ」と取り乱します。弟は、そんな姉を優しいまなざしでなだめていました。

 「おとうと」は、弟の入院生活と、姉の付きっきりの看護生活のはてに、弟が息を引き取ることで終わります。経験豊富な医師と看護婦は、ことあるごとに、「あなたは立派なお姉さんだ」と姉を褒めます。しかし、姉は、両親も病院も、けっきょくは患者である弟のことしか頭にはないことを痛感します。姉は、看護のために縁談を見送るさみしさをどうすることもできませんでした。でも、死ぬまで弟のそばを離れまいと心に決めます。

 「おとうと」には印象に残った場面がありました。弟は、ベッドから、「ねえさん、縁談はどうした? おれの看病なんか構わないで、どんどん好きにしてくれたらいいんだ」と告げます。姉は、「とりたてて行く気もしないから困るのよ」と取り繕います。弟は、突然に、髪の毛を島田に結って見せてくれないかと言いはじめました。

 この場面を読んだときに、島田がどういうものなのかがわからなかったので、日本画家の上村松園の画集を本棚から引っ張り出してみました。松園の画集には、女の人の髪の毛の結い方が解説されています。島田にもいろいろとあるようでした。一番上品に結われた島田が、松園の「序の舞」に描かれた島田でした。「序の舞」に描かれた女性は、嫁入りのときの大振袖を着て、丸帯をきちんと結ばれています。でも、「序の舞」で描かれていたのは、表面的な華やかさではなくて、むしろ、その対極にあるとも言えるような、内面の気高さではないかと思います。

 姉は、「どうせおれはねえさんの結婚式の姿なんか、見ないで終わってしまいそうだもの」という弟の言葉を聞いているうちに、やってみようかなと思います。姉は、おどけて勝負をもちかけました。看護婦さんを審判にして、よく似合っていたら碧郎さんの負け、猿芝居の猿の嫁さんみたいだったら私の負けと言います。姉は、はた目にみっともないと言われようが構うもんかと、島田に結って、一張羅を着て、道を行きあう人みんなに振り返られながら、病院に行きます。

「碧郎は無言で見つめた。まじめな顔で、むしろおこっているような眼で、じろじろと見た。げんは情なさにこらえられなかった。「どう? 私の勝でしょ。」
「うん。」」

 ある朝でした。弟が、鍋焼きうどんを食べたいと言いはじめました。「おとうと」のクライマックスだと思いました。姉は、そば屋から鍋を譲ってもらってきます。時間を計って、病室に鍋を持ち込みます。寝たきりの弟に、湯気がたったままの鍋を見せて、あらかじめ短く切っておいたうどんをさっとさまして、寝たきりの弟の口に運んであげました。

 弟は二口、三口と満足げに食べます。ふっと、疑わしげな眼つきになり、姉を見つめて、「ねえさんもおあがりよ」と声をかけます。姉は、弟が何を言っているのかがわかりませんでした。「えっ」、「なぜ?」、「もういやになったの?」、「どうしたの?」と聞きます。弟は、「……ねえさんに一緒にたべてもらいたいと思っただけなんだ」とさみしそうに答えました。

「かつて姉と弟とで一ツ丼一ツ器でものを両方から突つきあったことなどない家庭である。父と母がそうしていることも絶えてなかった家である。そっちのはじからおあがりよと云われて、何のことか呑みこめないげんであった」

「患者とは三ツしか年齢の違わぬ若い娘のかなしさに、弟の心の底までは計りきれないのである。『一人で食べる味気なさ』が計算できなかったのである。しかも結核という業病のさせる一人の食事なのだ。彼は複雑なわびしさで一人の食事にこれまで堪えてきていたのだった」

 弟は、鍋から目をそむけて空を見てしまいました。悲しくて、優しい瞳をしていました。弟の目色ばかりを読むようになっていた姉は、ようやく、悟りました。

「ごめんね。私よくよくぼんやりものだ。いっしょにたべよう」

 姉は、反射的にそう答えますが、若さゆえに、伝染を恐れる気持ちを隠しきれませんでした。弟は、「いいんだよねえさん」と静かに答えます。

「かんにんしてよ碧郎さん。ほんとに済まない、私がばかだもんだから、わからなくて」

「いいんだってば。もう試験は済んだようなもんなんだ。――ねえさんて人がいいんだね。それに較べるとおれは悪党だ。肺病が悪党なんだ」

 鍋焼きうどんはさんざんでしたが、姉は、わびるのは自分のほうだという言葉を聞いて弟の心がわかったような快さを覚えます。同時に、死病の患者を看病することがどういうことかがようやくに理解できたように感じました。結核に侵された弟は、伝染をたてにとって、姉を試したのでした。姉は、愛を確認して安心したい一心でそんなことまでする弟を哀れに思います。

 鍋焼きうどんを境にして、弟は急に素直になりました。それまではどこかでぎくしゃくした気持ちを抱いていた弟は、「そんなに優しくしてもらっちゃ済まないな」、「ねえさんありがとう」、「むかし、ほら、子供のとき姉さんこんなことしてくれたろ、あれ嬉しかったな」と声をかけるようになりました。

 弟に死期が近づきました。でも、姉には、苦しみは体だけのものに見えました。弟は、目をつぶったままで、「ねえさん」と呼びました。

「ぼくにはわからないんだがね。ねえさんてひと、誰かを好きになったことあるの、ないの?」
「ないわ」、「なぜ? そんなこと訊くの?」
「なぜってこともないけど、……ほんとにないの? あったような気もするんだけどね」
「ない」
「そうか。ないとすれば、――」
「なにさ、ないとすればどうなのよ?」
「つまんないな、ねえさんもおれも」

 「おとうと」は200ページを越える作品でしたが、いっきに読み終えました。平日の夜に睡眠時間を削って完読した経験は、久しくなかったように感じます。12時過ぎにふとんに入ったときに、さわりだけ読んでおこうと思ったのですが、止まらなくなってしまいました。

 「おとうと」を読み終えて、人間どうしがわかりあえない悲しさを感じました。ようやくわかりあえたとしても、もう手遅れで現実がどうにもならないことがいっそうに悲しいです。「おとうと」は、形式的には三人称で、一人称による回想の物語ではありませんでした。でも、地の文からは、人生の吸いも甘きも経験し尽くしたあとで、若い娘でしかなかったころの自分を思い返して、どうにもならなかった現実を見つめているような作者の視点を感じました。

 もちろん、どうにもならなかったのは姉のせいではなくて、「おとうと」の場合ならば、あえて言えば両親のせいとなるのかもしれませんが、「おとうと」の姉は、そのことにはいっさいふれようとはせずに、自分が犠牲になることで弟を守ろうとします。そして、「おとうと」を書きつづる作者であり、おそらくは50歳を越えている幸田文さんも、そのことにはいっさいふれようとはせずに、達観した境地から、自分自身の分身であろうと思われるヒロインの若さだけを淡々と書きあげます。「おとうと」は、何か正しくて、どうするべきかを主張してこない作品でした。ただもう、血を分けた姉弟であってもわかりあえないことが現象として描かれているように思えました。小説を読んでいると、主張をいっさいせずに物語世界で起きる現象だけをひたすらに書き連ねた作品に出会うことがあります。そして、そんな作品は、直接には何も書かれていないだけに、読み終えたあとに、かえって、作者の強い主張を感じる場合が多いです。でも、「おとうと」は、そういったタイプの作品でもありませんでした。読み終えて、作者のメッセージが何も伝わってきませんでした。「おとうと」を読み終えて感じたのは、人間は孤独で、何もかもがもう手遅れで、現実はどうすることもできないとあきらめてしまっているように思える幸田文さんのうしろ姿でした。ただ、だからといって、「おとうと」がつまらないかと言うと、そうではないと思いました。おもしろいとか、おもしろくないとかいう次元を越えて、雰囲気だけで人を黙らせるようなある種の迫力を感じました。現実がどうにもならなくても、それでも、何か(「おとうと」の場合ならば父母の愛情など)を求めて心をゆらすのが人間かもしれません。語弊を恐れずに言えば、人間のドラマ、あるいは小説の醍醐味は、心のゆれに集約されると言えるような気もしますが、それすらせずに、最初から最後まであきらめきることを貫いた幸田文さんのうしろ姿は、人間存在というものはどうにもならないほどに悲しいという極を見せ付けているようだと思いました。


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