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白き瓶/藤沢周平のあらすじと読書感想文

2009年7月18日 竹内みちまろ

 「白き瓶」(藤沢周平)を読んだ。「小説 長塚節」(しょうせつ ながつかたかし)という副題がある。感想を書きたい。

 最後の段落が納得いかない。引用する。

「三十七歳で世を去った歌人は童貞だったという説がある。聖僧のおもかげがあるといわれた清潔な風貌とこわれやすい身体を持っていたという意味で、この歌人はみずから好んでうたった白植の瓶に似ていたかも知れないのである」

 蛇足。低俗なうわさと私的な感傷をつけ加えた理由がわからない。白植の瓶が清潔で壊れやすいのかどうかは知らないが、最後の一文など日本語としても不正。おもかげに聖職者の雰囲気があり、身体が弱いというのは、現象、あるいは、状態である。意味などない。意味が発生するとすれば、外部の意志(この場合は作者である藤沢の恣意的な作為)に起因する。三回読み直したが、推量にする理性はあったにせよ、独りよがりの粋を脱していない。この段落があるだけで作品がだいなしになってしまっているとすら思われた。結果として、「白き瓶」という作品は、感動や余韻ではなくて、強い違和感を私に残した。

 違和感がどうも気になる。頭から離れなくなってしまった。内容を思い返しているうちに、読んでいる途中でも、何度か違和感を持ったことが思いだされた。「白き瓶」は違和感がかぎだと思われた。

 最初の違和感は、主人公である青年が村で姉弟とすれ違った場面で起こった。青年は、うわさを思い起こす。母に死なれて、姉は弟にとっては母親代わりとなり、同時に、父親にとっては妻代わりを務めていると言われていたそうだ。村の一家はそのまま長塚の小説「土」の主人公一家となっている。「土」には、確かに娘を支配・独占する父親を村人たちが揶揄する場面や、どこかからやってきた巫女が死んだ妻の思わせぶりなうらみごとを告げたり、父親に猜疑の目が注がれたことが書かれていた。しかし、父娘の性的関係はさほどには感じられなかった。それで、おやっと思われた。裏づけとなる資料があるのかどうかは知らないが、藤沢は、「白き瓶」において、父娘姦を取り上げる、あるいは、創作するのだろうと整理をつけた。

 「白き瓶」の主人公は、「土」の構想を練りながら、うわさを小説に書くか否か迷った。書けば親子を傷つけることになるが、書かなければ「土」は「にがりを失った豆腐のように、得体の知れないものになるだろう」と煩悶している。「罪深い行為だから、その罪のためにヒューマンな行為たり得ているのだ。だからこそ、人間は書かれるに値する謎なのだ。その暗い耀きを、はたして「土」の中に書きとめることが出来るだろうか」とため息をついている。しかし、よくよくに読んでみると、「にがりを失った豆腐のように」という表現は意味不明だし(「ように」、「ようだ」は描写ではない)、にがりを失った豆腐に対する価値判断がない。にがりを失った豆腐のほうがおいしいという人もいるかもしれない。そもそもに、豆腐ににがりがなければならない理由が書かれていない。また、「ヒューマンな行為」、「書かれるに値する謎」、「暗い耀き」などは、読んでいるこちらが恥ずかしくなるほどに、表現としては、幼い。人間的な行為とはそもそもになんだかわからない。ブタの死肉をついばむという行為においては、うじも人間も変わらないし、状況しだいでは近親どうしでセックスをするという点では、サルも人間も同じだろう。行為に謎もなにもない。逆に言えば、なんでも謎にしようと思えばできてしまう。それこそ、サルが木から落ちたという現象一つとっても、「書かれる値する謎」である。現象が謎なのではなくて、それを謎にしてしまう人間の心が謎なのだと思う。

 「白き瓶」では、長塚が「土」を執筆する過程の出来事や、「土」に込められた思想や、小説のありように対する主張などは、ほとんど書かれていなかった。藤沢は、別のエピソードを書いている場面で、「節は長篇小説「土」でも、あるがごとく、なきがごとくに近親相姦という罪を扱って、「土」の隠れたしかし衝撃的なテーマのひとつとすることに成功したのだが、その霞ヶ浦殺人事件にも、」というふうに叙述の中に間接的に埋め込んで、「土」とそこに込められた長塚の思想を書くにとどめていた。しかし、間接的に、しかも、「土」とは直接に関係のない場面でさりげなさを装って書かれていただけに、わざとらしいとしらけてしまうほどの作為が感じられた。そして、違和感を持った。

 まず、近親相姦は罪なのだろうか。罪だとすればどうして罪たりえるのか。大日本帝国憲法に父親と娘は通じてはならないと規定されていたのだろうか。また、「近親相姦」という言葉にもひっかかる。ニュアンスとして、近親どうしが引かれ合ってしまうという意味合いが込められてしまうような気がする。刑法に準じて言葉を選べは、「犯罪」ではなくて「過ち」。「暴行」ではなくて、「過失傷害」。あるいは、父親が性欲を満たすためではなくて、双方に愛情が存在したともとれる。そして何よりも首をかしげたのは、「白い瓶」の主人公が、そもそもに、近親相姦というか、父娘姦という現象を衝撃的であると(自分では)判断していたことだ。神話の時代も含めれば、父娘姦などは、人類が生まれる前から存在して、もちろん現在もあり、これからも未来永劫なくならない(と思う)。ちょっと世の中を知っている者であれば、衝撃を受けるほどの現象ではない。行為の背景に存在する人間的な心に踏み込むことをせずに、現象だけをとらえて、言葉巧みにちらつかせることがはたして「文学」なのだろうか。その程度で衝撃を受ける読者がいるとすれば、世の中を知らなすぎると言わざるを得ない。主人公には、それがわかっていない。

 「白き瓶」の主人公は、「土」を激賞した漱石がよせた序文に書かれていた「教育もなければ品格もなければ」、「土と共に成長した蛆同様に憐れな百姓」、「獣類に近き、恐るべき困ぱいを極めた生活状態を、一から十まで誠実にこの『土』の中に収め尽くしたのである」などの言葉に、一種の不快感を持っていた。「土」では登場人物たちを、蛆でも獣でもなく、「ごく普通の人間として描いた」のであり、そのような人間たちに対する「節の共感が籠められている」そうだ。

 漱石は「土」に描かれているものは「状態」であると指摘している。対して、「白い瓶」の主人公は、「土」に描かれているものは「人間」だと思っている。しかも、「普通の」という魔法の形容詞つき。漱石の方が上手だ。父娘が性行為をすることはあくまでも現象であり、状態。それを「罪」と規定するのも、「過ち」と非難するのも、「近親相姦」という言葉でオブラートに包んでしまうのも、貧しさの中で身を寄せ合うしか生きる術がない父娘の「悲劇」にしてしまうのも、「白い瓶」の主人公のように「衝撃的なテーマ」にまつりあげて舞い上がってしまうのも、心の持ち方ひとつだと思う。

 「近親相姦」が「罪」であるのならば、なぜに「普通の人間」がそんなことをするのか。「共感」を持つと言う以上は、主人公には、「無知の涙」は「罪」を帳消しにすると主張する覚悟があるのか。

 藤沢は、「むろん節は「土」というすぐれた長篇小説と、数篇の短篇小説を残したが、それだけではさびしかろう。節はやはり、最後に「鍼の如く」というたぐいまれな到達点を示す歌集を持つ歌人として、生涯を終えたことで光っている」と書いている。「やはり」という言葉も魔法の言葉だと思うがそれはおいておいて、要するに、小説家としては二流だったと藤沢は描いているということだ。

 長塚は、「土」を完成させてようやく、憂いの門の前まで来たのだと思う。憂いの門とは、ダンテの「神曲」に出てくる、我をくぐらんとするものは一切の望みを捨てよというやつだ。憂いの門をくぐり、人間の心の白いところも黒いところもしゃぶりつくした漱石は、憂いの門の外側から、蛆や獣と同じく生きる地獄の住人たちを観察し写しとった長塚の才能を愛した。

 「白き瓶」では、小説家としての長塚が描かれていた場面では、読者に違和感を持たせるほどに藤沢の筆が乱れている。「ように」という本来は描写ではない表現を描写として使ってしまったり、表面的にケバケバしい言葉ばかりを並べたてたり、よくよくに解読してみると意味内容が不明だったり、人間の心こそが衝撃であることに気がつかずに、たいしたことでもない現象をさも言いふらしたくなりつつもそれをオブラートに包んだ自分に満足してしまったりと、お寒いばかりである。

 「白き瓶」の最後の段落をもう一度引用する。

「三十七歳で世を去った歌人は童貞だったという説がある。聖僧のおもかげがあるといわれた清潔な風貌とこわれやすい身体を持っていたという意味で、この歌人はみずから好んでうたった白植の瓶に似ていたかも知れないのである」

 長塚が憂いの門をくぐり、汚れ、邪鬼の風貌をまとい、終わることのない人間の業に触れたとき、長塚の小説は、間違いなく、「暗い耀き」を放った、そう惜しむ藤沢の心が感じられた。


→ 土/長塚節のあらすじと読書感想文


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