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雪国/川端康成のあらすじと読書感想文

2011年9月21日 竹内みちまろ

雪国/川端康成のあらすじ

 雪崩の危険な時期が過ぎ新緑の季節を迎えたころ(5月22日か23日)、文筆家の肩書を持つが実質的には無為徒食で、親が残した財産で暮らし、高級な縮を買い集めて襦袢を仕立てたりしていて、妻と子がいて、小太りで、色白で、用もないのに苦労して山歩きをすることに非現実的な魅力を感じる島村は、国境の山歩きから7日ぶりに温泉宿へ降りた。芸者を頼むと、あいにく道路普請の落成祝で、12、3人いた芸者は皆出払っており、芸者ではないがまったくの素人とも呼べない、師匠の家の娘の駒子がやってきた。

 19歳だという駒子は、雪国の生まれで、東京でお酌をしているうちに旦那に請け出され、やがては日本舞踊の師匠として身を立てさせてもらうつもりでいたところ、1年半ばかりで旦那が死んだという身の上などを話した。

 島村は、駒子に女の世話を頼んだ。駒子は、うちはそんなところじゃありませんとふくれるものの、島村から「君とさっぱりつきあいたいから、君を口説かないんじゃないか」、君に頼んでおけば今度家族を連れてきたときだって君と気持ちよく遊べるじゃないか、などと言われるうちに、あきれながらも、やがて17歳で腕が底黒く骨ばっている芸者を手配した。しかし、島村は気に入らず、むっつりしているうちに、芸者は自分から腰を上げ、島村も芸者といっしょに部屋を出て、宿の玄関から若葉のにおいの強い山を見上げ、誘われるように荒っぽく山を登った。

 ほどよく疲れたところで、山から降りると、駒子が杉林の陰に立っていた。島村は、初めから駒子がほしかったのだと知り、駒子の小さくつぼみ、伸び縮みが蛭の輪のようになめらかで美しい唇などを見るうちに、駒子を、美人というよりも、清潔だと感じた。

 その夜の10時ごろ、酔った駒子が「島村さあん、島村さあん」と島村の部屋を訪た。駒子は「なんだこんなもの。畜生、畜生。だるいよ。こんなもの」と島村の肘にかぶりついたり、好きな人の名前を書いて見せるなどと告げ、島村の手のひらに指で芝居や映画の役者の名前を2、30も並べてから、島村と何度も書き続けたりした。島村は手のひらのふくらみに熱さを感じ、「ああ、安心した。安心したよ」と告げ、「母のようなものさえ感じた」。駒子は唇を激しく突出した。

 「その後」、駒子は「心の底で笑っているでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」と告げた。駒子は、夜明け前に島村の部屋を出た。島村は、その日のうちに東京へ帰った。

 冬の雪国を訪れたことがない島村は、12月の初めに、三等車の車両の中で、退屈まぎれに左手の人差し指を動かしたり、眺めたりしながら、「結局この指だけが、これから会いに行く女をまなまなしく覚えている」などと考え、においをかいだりした。ふと、その指で窓ガラスに線を引いた。水蒸気でぬれていたため、窓ガラスが鏡のようになった。外の風景と車内の様子が二重写しになった鏡に、向かいの席の葉子の片目が映り、島村は、驚いて声をあげそうになった。

 葉子の連れの男は、島村よりも年上だったが明らかな病人で座席に横寝していた。幼い葉子は、男がほっかむりにしていたマフラーを、男が目を動かすか動かさないかのうちに直してやり、島村がいらだつほどにかいがいしく男の世話をしていたが、男が病人であるだけに、葉子と男は遠目には夫婦にも見えた。

 島村が手のひらで窓ガラスの水滴をぬぐうと、今後は葉子の顔が映り、野山のともし火と葉子の眼が重なった瞬間、いつでもたちまち放心状態に入りやすい島村は、なんとも言えない美しさを感じ、胸を震わせた。

 汽車が信号所に止まった際、葉子は窓ガラスを上げ(=開け)、外に身を乗り出し、駅長と、「今度こちらに」勤め始めた葉子の弟の話を始めた。弟の面倒を駅長に頼む葉子の声は、島村には、高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうなほどに、悲しく、そして、美しく聞こえた。葉子と男は、島村と同じ駅で降りた。

 待合室には、駒子が、葉子と、お師匠さんの息子(病気の男・行男)を迎えに来ていた。島村は、駒子が頭巾をかぶり青いマントを着ていたので、それが駒子だと気づかなかった。スキーシーズン前で最も客の少ない温泉宿に到着した島村は、駒子が駅にいたことを番頭から知らされ、今夜、駒子を呼ぶように手配した。

 島村が湯からあがると、廊下の帳場の曲がり角に、裾を冷え冷えと広げた駒子が立っていた。島村は、その裾を見て、駒子がとうとう芸者に出たことを知りはっとするが、駒子はしなを作るでもなく、黙って島村と歩きだした。島村は、「あんなことがあったのに」、手紙も出さず、踊りの型の本を送るという約束も果たさなかったのでまずは詫びを入れるのが道理と考えたが、駒子が島村を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることを知り、階段の下で「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と駒子の目の前に、人差し指をつきつけた。駒子は、その指を握ったまま階段を上がった。

 こたつの前で首まで赤くした駒子は、それをごまかすため、あわてて島村の右手をつかみ「これが覚えていてくれたの?」と問いかけたが、島村は、こっちだと、こたつの中から左手を出した。駒子は、「ええ、分ってるわ」と、ふふと含み笑いをしながら、島村の左手を広げて顔を押しあてた。駒子は東京の様子を聞いたが、島村は「君はあの時、ああ言っていたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか」と告げた。

 島村は、「あの後」「笑やしかなったよ」と駒子に告げた。駒子は島村の言葉に体を染めた。駒子は、「五月の二十三日ね」「ちょうど百九十九日目だわ」と告げた。島村からよく日付を覚えているなと言われ、駒子は日記をつけていることを話した。駒子の日記は「東京でお酌に出る少し前から」始まり、「東京に売られて行く時、あの人(師匠の病気の息子)がたった一人見送ってくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いて」あり、また特に、読んだ小説の題名と、作者と、登場人物の名前と、登場人物たちの関係などを書き留めていた。島村は「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか」と告げ、駒子も「しようがありませんわ」と認めた。島村は、「徒労だね」と再び告げたが、駒子にとっては徒労であろうはずがないと知りながら頭から徒労だと決めつけて駒子にそのことを告げたことにより、かえって、駒子の存在が純粋に感じられた。

 駒子が窓を開けて外を眺め、島村が一人で湯に行こうとすると、「待って下さい。私も行きます」とついてきた。脱ぎ場で島村が脱ぎ散らした衣服を駒子が籠に入れていると、男の客が入ってきた。島村は「あっちの湯に入りますから」と女湯の方へ行った。駒子は「無論夫婦面(づら)でついて来た」。部屋に戻ってから、駒子は、「悲しいわ」とひとことだけ言った。

 翌朝、島村は宿の使用人から「駒子」という芸名を聞き知る。島村が村を歩いていると、芸者が5、6人立ち話をしていて、駒子は島村を見てのどまで赤く染めた。島村もほほが火照るようで足早に通り過ぎると、駒子が追いかけてきた。駒子は「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ」と言い、島村が「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」というと「あれは焼いてから死ぬの」と駒子は答えた。島村は、「君の家、病人があるんだろう」と告げ、車両の中で見た葉子と男の話をし「あれ細君かね。ここから迎えに行った人? 東京の人? まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ」と告げ、駒子は島村の質問には答えずに、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人」などと告げた。

 朽ち古びた駒子の家に案内された島村は、家の中にあるはしごを上った。元は「お蚕さまの部屋だった」駒子の部屋に入った。低い明かり窓が南にひとつあるきりの駒子の部屋を、島村は、清潔だと感じ、「蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた」。駒子は、火を持ってきて、「病人の部屋からだけれど、火は綺麗だって言いますわ」と告げ、病人は腸結核で故郷に死にに帰ってきたことを告げた。また、故郷といっても、26歳の病人はここで生まれたわけではなく、ここは母の村で、母は港町で芸者を勤め上げ、50歳前で中風をわずらい療養かたがた村に帰ってきて、病人の息子は東京で夜学に通っていたところ、病気をわずらったことなどを島村は駒子から聞いた。

 島村は、「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないわ?」という「どこかから木魂が返ってきそう」な「澄み上って悲しいほど美しい声」を聞いた。聞き覚えのある葉子の声だった。「いいわ」と駒子が答えると、ガラスの尿瓶をさげた葉子が三味線をまたいだ。葉子は話しぶりなどからここらあたりの娘だと思われたが、着こなしは艶めかしかった。葉子は、ちらっと刺すように島村を一目見ただけで、土間へ下りた。駒子の家を辞してからも、島村は、遠いともし火のように燃える葉子の冷たい目つきと、鏡の中の雪いっぱいに浮かんだ駒子の赤いほほを思い出した。

 道すがら声をかけた按摩に体をほぐしてもらいながら、島村は、駒子がこの頃三味線が上手になったこと、駒子が病気の息子の許嫁で病院のお金を送るためにこの夏に芸者に出たことを聞いた。島村が駒子の話を聞きたがると、按摩は黙ってしまった。島村は、駒子が息子の許嫁で、葉子が息子の新しい恋人としても、息子はやがて死ぬのであり、許嫁の約束を通して「身を落としてまで療養させた」としても、すべて徒労であり、駒子に会ったら頭ごなしに「徒労」だと叩きつけてやろうと考えた。そうすると、かえって、駒子の存在が純粋に感じられた。

 島村がうとうとしていると、夕方になっており、少し酔っているような駒子が部屋に入ってきて、島村の柔らかいほほの肉をつかんで「あんたは馬鹿だ」と告げた。宴会が終わって再び島村の部屋に来た駒子は「知らん」「頭痛い」「難儀だわ」「水頂戴」などと愚痴をこぼし、髪の毛が壊れるのもかまわず倒れたり、座りなおしたりするうちに、酒がさめた。駒子は、8月いっぱい、何かを思いつめていたが何を思いつめているのかわからず、眠れず、食事もちゃんと取れず、それでいて、座敷に出るとしゃんとしたことなどを話した。芸者に出たのは6月で、浜松の男から結婚してくれと追い回されたことも話した。島村が「好きでないものを、なにも迷うことないじゃないか」と告げると「そうはいかないわ」と答え、「私妊娠していると思ってたのよ。ふふ、今考えるとおかしくって、ふふふ」と含み笑いをしながら、両手の握りこぶしで島村の襟を子どもみたいにつかんだ。

 翌朝、島村が目を覚ますと、駒子はすでに起きていたが、朝の8時で明るく帰れないと告げた。駒子は、かいがいしく部屋の掃除を始めた。島村は、病気の息子と駒子が許嫁だと聞いた話をし、駒子は、息子とは幼馴染で師匠が口には出さなかったがいっしょになってくれればと思っていたことを2人とも感じてはいたが、許嫁ではないと告げた。駒子は「人のこと心配しなくてもいいわよ。もうじき死ぬから」と言い、「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」と告げた。島村は返す言葉がなかったが、どうして駒子が葉子のことに一言も触れないのか疑問に思った。

 「駒ちゃん、駒ちゃん」という、葉子の低くとも澄み通る美しい呼び声がした。駒子が、電話で取り寄せた三味線の稽古本などを次の3畳間で荷物を受け取った。葉子は黙って帰ったようだった。

 駒子の三味線を聞いて、島村は、はっと気押(けお)された。19、20の田舎芸者の三味線などたかが知れている、しょせんは山の感傷だなどと、島村は思おうとしたが、駒子の声が憑かれたように高まってくると、島村は怖くなるほどだった。駒子が『勧進帳』を弾いたときは、いつも山狭の自然を相手に練習している孤独が哀愁を突き破り、強い意志によって野生の意力を宿していると感じた。島村には、虚しい徒労とも、遠い憧憬とも哀しまれる駒子の生き方自体が駒子の価値であり、凛とした音色に宿っているのだろうと思われた。そして、「この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情けなかった」。また、『都鳥』を弾いたときは、曲の艶なやさしさもあり、島村は安心した。駒子の美しく血の滑らかな唇はぬめぬめして見え、都会の水商売で透き通った顔は駒子の体の魅力そっくりに思われた。

 それからは、駒子は泊まることがあっても、強いて夜明け前に帰ろうとせず、迎えに来た少女をこたつに抱き入れたりした。

 島村が帰る前日、月の冴えた夜23時近く、駒子は「駅まで行くのよ」と島村を連れ出して、島村からたしなめられ部屋に帰った。しょんぼりした駒子は、「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」と火鉢の上に顔を伏せたり、島村が「実は明日帰ろうかと思っている」と告げると、「あら、どうして帰るの?」と尋ね、「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないじゃないか」と聞くと、「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ」と、いきなり島村の首にすがりついて取り乱しながら、「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ」と口走ったりした。

 駒子の勘定は、朝の5時に帰った日は5時まで、翌日の12時に帰った日は12時までと、しっかりと時間計算になっていたが、駒子が少し短く勘定するように番頭に伝える声を、島村は聞いた。

 駒子が島村を送りに駅まで来ると、葉子が駆けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」と、行男の危篤を知らせた。行男は駒子を呼んでいるというが、駒子は、お客様を送っているので帰れないと断った。駒子は「げえっと吐気を催した」ほどで、島村からも帰るように言われたが、それでも帰らなかった。

 島村を乗せた汽車は国境の長いトンネルを通り抜け、外が暗くなると、窓が再び鏡のようになり、島村は、「なにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれ行くような放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た」。

 国境の山々も秋に色づいていた。島村が部屋に到着すると、少し遅れて駒子がやってきて、「あんた、なにしに来た」などとつっかかり、2月14日はどうしたとうらみごとを口にした。その日は鳥追い祭で、島村は見に来ると約束していた。駒子は首の付け根が去年よりも太って脂肪が乗っていた。島村は、駒子が21歳になったのだと思った。

 島村は3年足らずの間に3回来たが、そのたびに駒子の境遇が変わっていることを思った。駒子は、「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と告げ、17歳の時から5年間、港にいる男となじみになっていて、「ここで芸者に出る時と、お師匠さんのうちから今のうちへ変る時」と2回、別れる機会があったが、別れていないことを話した。親切な人だが、生き身をゆるす気になれないことも付け加えた。駒子は、年期が4年だが、半年過ぎた現在、すでに元金も半分返したことを語った。駒子は、座敷を抜け出し、酔ったまま島村の部屋をひんぱんに訪れた。朝の7時と、夜中の3時という1日に2回も非常識な時間に来たことにいたり、島村は、ただならぬものを感じた。

 島村には、駒子が島村へ向けた愛情を美しい徒労に思う虚しさがあった。しかし、それゆえにかえって、駒子の生きようとしている生命力が裸の肌に触れてきもした。島村は、駒子を憐れみながら、自らを憐れんだ。そのようなありさまを、無心に刺し通す光に似た目が葉子にありそうな気がして、島村は、葉子にも惹かれた。駒子は、葉子を「きらきら目を光らして。あんたああいう目が好きなんでしょう」と島村に告げた。

 島村が部屋にいると、駒子の文を届けに葉子がやってきた。葉子は、駒子はかわいそうだからよくしてほしい、と島村に告げた。また、島村が東京へ帰ったほうがいいかもしれないと口にすると、「私も東京へ行きますわ」「ええ、連れて帰って下さい」と告げた。葉子が帰ってから、駒子は、「あんたあの子が欲しいの?」などと島村にからみ、島村は「君はいい子だね」と駒子に告げたが、駒子は、「それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね」と怒りをあらわにし、「悲しいわ」とつぶやいて、かんざしで畳を刺したりした。

 もはや雪国から去らねばならないと感じた島村は、かつて娘たちがわざを競い合い、「雪晒し」も行っていたという縮の産地を訪れることにした。家々がひさしを長く張り出して、その端を柱で支え、雪に埋もれ、向こう側へ行くのにトンネルをくぐる(その“トンネルくぐり”をその地方では「胎内くぐり」と呼ぶ)町を訪ねた。

 島村はうどん屋の女に「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうかな」などと話しかけたが、女は薄笑いをしただけだった。「なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉宿に戻った」。

 島村は、かつて、結婚話を破談にした不義理をした女がいてその女の名前のなごりで「菊村」という看板を出している置き屋の前を通った。門口で3、4人の芸者が立ち話をしていて、島村が駒子もいるなと思うと、はたして駒子もいた。島村と駒子のことを知っている人力車の運転手が気を利かせて徐行した。島村は駒子と逆の方を見たが、島村を見つけた駒子が人力車に飛びついてきた。横に座りこんだ駒子は、どこへ行っていたのかを島村に尋ねた。駒子は、宿から島村が出ていく姿を見送っていたが、「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」と聞いた。島村は、知らなかった。

 突然、鐘が鳴り響いた。火事が起きていた。島村は「君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか」と言うが、駒子は「繭倉だわ」と叫んだ。繭倉で上映されていた「活動(=映画)のフィルム」から火が出ていた。繭倉の2階から子どもたちを投げ下ろして救出している様子などを聞き、2人は現場へ向かった。

 繭倉の2階から、失心した葉子が落ちた。人形じみた不思議な落ち方で、落ちても音がせず、水がかかった場所のため、ほこりも立たなかった。駆け寄った駒子が葉子を胸に抱えて戻ろうとする姿は、島村には、「自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見え」た。駒子は「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫び、島村は駒子に近づこうとしたが、駒子から葉子を抱きとろうとする村の男たちに押されてよろめいた。島村が踏みこたえて目を上げたとたん、「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」。

雪国/川端康成の読書感想文

 『雪国』は、何回読んでも、心に染み入ります。やはり、川端康成はすごいです。また、『雪国』は読む旅に、「文学」というものは、こういうものなのだなと思ってしまいます。

 冒頭の場面、汽車の中で窓ガラスごしに見る葉子の顔と野山のともし火が重なった時に、島村は、「なんともいえぬ美しさに胸がふるえた」と書かれていました。葉子の顔に魂が入った瞬間かもしれません。しかし、その風景にしても、島村は直接葉子を見ているわけではなく、「不思議な鏡の中」の風景として見ています。現実の人間存在としての葉子を見ているのではなく、島村は、あくまでも、島村自身の内面世界という妄想の中で、偶然に、妄想の中の葉子の顔に魂が入った瞬間、美しさにふるえたのかもしれないと思いました。島村は、現実の葉子ではなくて、妄想の中で作り上げた葉子に、独りよがりに興奮しているのかもしれません。

 島村という人物は、なかなか、興味深いです。どこか、村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公・ワタナベに似ているような気もします。

 島村は、職業にしても、西洋舞踊の批評を頼まれることもありますが、でも実は島村は西洋舞踊を見たことがなく、洋書の写真や記事をもとにして、妄想の中で西洋舞踊を思い描いて、記事を書いていました。

 また、島村の部屋にいるときに駒子が窓を開けた場面では、島村は「おい、寒いじゃないか。馬鹿」と言いますが、「一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい風景であった」と描写されています。『雪国』では、島村の内面世界や妄想と関係するのかもしれませんが、地の底の世界、夜の世界、幻想の世界が展開されていて、山々は黒いにもかかわらず、「どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた」りします。移りゆくもの、変わりゆくもの、鏡の中に映されるものなど、一瞬の変化や不思議などに島村のまなざしは向けられているような気がしました。

 その中で、夜中に起きた駒子が、電燈を消して、島村に、「ねえ、見て下さらない?」「私の顔が見える? 見えない」と詰め寄る場面もありました。島村は「見えないよ」と答えます。駒子は「嘘よ。よく見て下さらなければ駄目よ」などと、なお詰め寄ります。駒子は、蛭に例えられたり、狐に例えられたり、朝を恐れる夜行動物に例えられたりしていました。

 『雪国』の中で一番、印象に残ったことは、島村がもはや雪国を去らねばならないと感じた場面でした。島村は、駒子がほかの男の子どもを産んで母親になった姿が思い浮かんだりして、はっとします。駒子がしげしげと会いに来るのを待つのが習慣となっていた長逗留だとしみじみと思いかえしました。そして、駒子がせつなく迫ってくればくるほどに、島村は自分が生きていないかのような呵責をつのらせていました。島村は、「いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとただずんでい」たようです。

 そして、島村が雪国を去ると決める場面に、「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊(こだま)に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた」とありました。『雪国』では、それまでは、葉子に「木魂(こだま)」という言葉が何回も使われて、純粋さや、無垢さや、母性らとからめて、形容されていました。しかし、『雪国』の中で、この場面だけ、駒子に、葉子とは違った漢字をあてた「木霊」という言葉が使われていました。葉子と、駒子という2人の女性が重なったような気がしました。

 また、『雪国』では、冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が有名ですが、島村が長いトンネルを抜けてやってきた雪国から去る決意をしたさいに、「胎内くぐり」の村を訪れていることが印象的でした。島村自身は「なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉宿に戻った」とありますが、島村自身は何をするために行ったのか分からなくても、小説の中に書かれている以上は、「胎内くぐり」の村を訪れたことに意味があるわけで、雪国から去るために「胎内くぐり」が必要であり、いわば、「胎内くぐり」は儀式なのかもしれないと思いました。幻想の世界へトンネルをくぐって入って、そこから出るのにも、またトンネルをくぐっています。しかも、今度のトンネルは「胎内」です。もしかして、島村にとって、「雪国」は、母のようなもので、いわば、母胎回帰なのかもしれないとも思いました。

 島村は、駒子が別の男の子どもを産んで母親になっている姿を想像してはっとしていました。同時に、昔の娘たちが織った縮はわざわざその山地に手配して「雪晒し」などの手入れをしながら肌触りを愛しています。昔の女工や工人を思って、島村は「そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか」と感じてしまう人物です。悲しき詩人とでもいいますか、そういった感性を持ってしまっているがゆえに、駒子の生命力に惹かれ、同時に、葉子にも惹かれ、そして、雪国を去らねばならないと感じたのかもしれないと思いました。

 また、火事の場面で、村人として火事場へ向かう駒子から、あなたは来なくていいのよ、と言われ、島村は「言われてみればそうだった」と思う場面があります。火事場へ向かう駒子は、踏切の前で足を止め、「天の河。きれいねえ」とつぶやき、その空を見上げたまま走り出します。島村が火事場に到着すると、駒子がいつのまにか島村のそばに来て島村の手をつかみます。島村の手は「温まってい」ましたが、駒子の手は「もっと熱かった」。それで、「なぜか島村は別離が迫っているように感じた」とあります。島村も、駒子も、同じ天の河を見上げる感性を持つ、いわば、同類だと思いました。しかし、2人の境遇は違い、生き様にも温度差があります。また、駒子は前近代的な女性かもしれませんので、自我や、個人や、他者や、「私」というものへの意識がないのかもしれません。しかし、頭はよくて、生活力があって、したたかさも備え、何よりも島村を心で理解する女性です。無気力とは違うと思いますが、島村は、感情というものを持つことができなかったり、生活をする必要がなかったり、もののあわれやわびさびを愛してしまいます。いっぽう、駒子は、島村と同じ資質を持ちながらも、自分自身でそれに気が付いていることはなく、自分自身を理解することもなく、それでも、島村を愛し、そして、ひたすら生活をしよう、人生を生きようと、します。駒子は、無意識のうちに、その熱い命の力で、島村に何かを訴え続けていたのかもしれないと思いました。『雪国』は、そんな駒子の姿と、そんな駒子に惹かれますが、同時に葉子にも惹かれ、けっきょく、どうにもならない、また、自分からはどうにかしようとすることができない島村の姿を描き出しているのかもしれないと思います。

 『雪国』は、頭で考えて、ああだ、こうだと論じるよりは、頭で考えずに、ていねいに一文、一文を追って、雪深い寒村の風景や、島村の目を通して映し出される駒子や葉子の姿や、野山の火や車窓に映った瞳やそれらを思い起こす島村の心像風景の世界を歩く作品ではないかと思いました。


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